普通一般の人間が辿る一生はささやかな悩みや悲しみは避けられないとしても概ね幸せと呼べる時期が多いと言って良いのではないかと思われます。仕事と娯楽の日常生活が根本から揺さぶられるような大事は滅多に起きないものです。

 

しかし身分の上下、男女の別を問わず、生涯に一度や二度は胸の張り裂けるような悲しみや大病、あるいは事業の破綻といった凶事に見舞われることも事実です。それがどういう形を取るにせよ、その人の日常生活は歯車が狂い、自分の弱さや人間が根本的には精神的に孤独な存在であることを思い知らされるものです。

 

その時は、もはや助けてくれるものはどこにもおらず、援助の手を差し伸べてくれる神様がいようがいまいが自分の小ささと欠点を赤裸々に直視させられます。

 

そのような言ってみれば魂の暗黒の時期にあって神を見出すにはどうするべきでしょうか。絶望の谷間にあって、その暗黒の状態から脱出し、「見えざる存在」すなわち大霊を見出すにはどうすれば良いのでしょうか。

 

 

そんな時こそ祈るのです。イエスがゲッセマネの園で祈ったように、祈ることによってのみ自分が孤独な存在でないという悟りを得ることが出来ます。今の自分にとってどうしても必要なものを神に願うか、あるいは祈りを繰り返し唱えることによって絶望感を克服し、孤独と思えた時も「霊的影響力」に包まれていたこと、そしてその霊は夜通し自分と共にいて下さったことを知るでしょう。

 

 

こうして祈りによって「我が父」との繋がりが出来れば願いは叶えられ、苦しみは上着を脱ぐように取り払れるでしょう。それは同時に魂が高揚され拡大する時でもあり、その完全な無我の境地において今までなかったほどの力と決意を授かるでしょう。

 

ですので祈ることとそれによってもたらされる神の存在についての確信はおそらくあらゆる敬虔な行為の中でも魂に生じる結果が最も大きなものになると言えます。

 

 

「父よ、願わくばこの苦しみを取り除き給へ。しかし、もしもこれが神の思し召しであるならば私の願いではなく、神の意志のままに為さしめ給わんことを」

 

 

地上生活という短い生命の旅において、もしもイエスと同じカルバリの丘(絶体絶命のピンチ)に立ち入った時には、このイエスの祈りの言葉をその受難の谷底から叫ぶと良いでしょう。繰り返し繰り返し叫ぶと良いでしょう。必ずや救いの手が差し伸べられて勝利を手にすることになります。

 

(個人的存在の彼方 マイヤース)

 

 

現代の危機は真剣な祈りを必要としております。祈りと言ってもクリスチャンの間で神への挨拶として当然の如く使用されている古臭い決まり文句の繰り返しのことではありません。そうした外部へ向けての行為は必要ないのです。悩める魂の内なる叫び……、それだけで、ここぞという時の援助と慰めを呼び寄せるのです。祈りとは要するに「切望」であればよいのです。背後霊による霊的援助のもとに高き理想を求める魂の努力です。ただし祈りは瞑想界の内部までは届きません。

 

インペレーターの霊訓

 

 

これはいわゆる日本で言うところの「苦しい時の神頼み」というやつで、本当に自分ではどうしようもないくらい追い込まれたらマイヤースは「神に祈れ、そうすることによって必ずや援助の手が差し伸べられるだろう」と述べています。

 

ひふみ神示にも下記のような一文があります。

 

 

苦しい時の神頼みでもよいぞ、神まつりて呉れよ、神にまつはりて呉れよ、神はそれを待ってゐるのざぞ、それでもせぬよりはましぞ、そこに光現はれるぞ。光現はれると道はハッキリと判りて来るのぞ、この方にだまされたと思うて、言ふ通りにして見なされ、自分でもビックリする様に結構が出来てるのにビックリするぞ。

 

 

 

何によらず不足ありたら、神の前に来て不足申して、心からりと晴らされよ、どんな事でも聞くだけは聞いてやるぞ、不足あると曇り出るぞ、曇り出ると、ミタマ曇るからミタマ苦しくなりて天地曇るから遠慮いらん、この方に不足申せよ、この方 親であるから、不足一応は聞いてやるぞ。気晴らしてカラリとなって天地に働けよ、心の不二晴れるぞ、はじめの岩戸開けるぞ。

 

 

ひふみ神示

 

 

高級霊からの援助はあまりにも自然であり、人間の目からは偶然に見えるような場合がほとんどで、むしろドッタンバッタンと騒ぎ回り如何にも「霊の仕業で~す!」みたいなものは低級霊の所作である場合がほとんどなので、人間には常に分かりづらい部分があります。

 

 

しかしトータル且つ長い目で見れば偶然に見え、自然にそうなったと思えるようなやり方で援助が行われ、助けられていることがあります。

 

 

私個人の経験から言えば、これはまさにその通りで「苦しい時の神頼み」でも何でも良いので、本当に困ったら神に祈り、助力を願い、窮地を脱したことが何度もあります(そんなに深刻でなくても頼み事をしたりもします)。但しその神からの援助の仕方はとても自然で、たまたま偶然が重なって良くなっているとも取れるような自然な形でなされます。

 

 

インペレーターの霊訓に小さな子供の真摯な祈りを叶えるかどうか、どのように人間に援助したら良いのかを神界の長老とも言うべき高級霊が真剣に会議している一節がありますが、その祈りの内容が常識に照らし合わせて私利私欲や利己や保身に基づいたものでなく、公正なものであれば少なくとも無視される事はありません。

 

 

これはあらゆる霊訓の類いで述べられていることであり、ひふみ神示でも「どんな事でも聞くだけは聞いてやるぞ」と述べられていますし、後述の小櫻姫物語でも小櫻姫様が神として祀られるようになった際により上級の産土の神様から

 

 

いまよりかみとしてまつらるるうえこころして土地とち守護しゅごあたらねばならぬ。人民じんみんからはさまざまの祈願きがんるであろうが、その正邪せいじゃ善悪ぜんあくべつとして、土地とち守護神しゅごじんとなったうえは一おう丁寧ていねい祈願きがん全部ぜんぶいてやらねばならぬ。取捨しゅしゃ其上そのうえことである。かみとしてもっといましむべきは怠慢たいまん仕打しうち同時どうじもっとつつしむべきは偏頗不正へんばふせい処置しょちである。怠慢たいまんながるるときはしばしば大事だいじをあやまり、不正ふせいながるるときはややもすれば神律しんりつみだす。よくよくこころして、かみからたくされた、このおも職責しょくせきはたすように……。』

 

と訓戒を与えられています。

 

 

無神論を気取ったり、普段悪事を働いている泥棒や詐欺師ですら極限まで追い詰められれば最後には神に対して祈ったりするものです。

 

 

シルバーバーチはこうした苦難や悲劇は物質的な観点から見ればマイナスに見えるかもしれませんが、霊的な観点からは神や霊に目覚めるという意味でプラスであるという趣旨のことを述べています。

 

 

物質のみに偏重し、金や名誉や保身がすべての欲の皮が突っ張った人間や悪事を果てしなく行う人間、あるいは神の道から大きく外れた人間は、そのまま突き進むと因果応報の摂理により、酷い目に合ってしまいますので、そうなる前に割と軽めの苦しみで神は「このままだとヤバイぞ」と伝えて下さり、そこで霊的なことに目を向けるようになれば、それはすなわち善人へ指向し始めるということですので、そのために悲劇や苦しみ、病気などがあるという見方も霊的な視点からは出来るわけです。

 

 

その時に例え僅かではあっても、それまで自己愛と保身と物質性のみに偏った人間に霊性の開花が見られます。

 

 

これに関しては様々な霊界通信の類いから似たような例を引くことは出来ますが、私から付け加えることはなく、本当に自分ではどうしようもないくらい困ったら主神に対して真摯に、何度でも、強く祈ることです。祈りの文句も祝詞も形式も何も必要ありません。重要なのはどれだけ心に強く思っているか、どれだけその願いに対して純粋であるかです。主神は日本や西洋の形式の言語や文化による礼拝作法に拘らないはずです。もし日本の神道の形式や祝詞のみなら、外国人は救われないはずですが、そんなことがあるわけがありません。

 

 

もちろんメグリの償却という意味があったり、生まれてくる前に自分がその苦しみを通して学びたい教訓があるために自ら設定した苦難・悲劇であるケースもあり、「もしもこれが神の思し召しであるならば私の願いではなく、神の意志のままに為さしめ給わんことを」という場合も当然あるはずです。

 

しかし主神に祈ることによって同じ苦しみでも、苦しみ方は変わってくるでしょうし、そこに神の力が加わります。死ぬほど苦しい現状がそれよりも少しはマシな現状になるかもしれませんし、それを通して学ぶべき教訓を首尾良く学べるように守護があるかもしれません。同じ苦境の中でも神の守護があるかないかは雲泥の差があります。

 

 

同じ冷や飯を食うような目に合うとしても、冷や飯にも食い方があり、種類があり、神の守護があるかないかによって苦しみの中にいる環境でも全く違うものにはずです。

 

 

出来れば祈りの対象は狐や狸の類いや枝の神ではなく、より高い境涯の神、究極的には主神に祈るべきであり、感謝するにもまず主神に対して感謝を述べ、次に取り次いで下さった産土の神様や直接の守護を担当した神様にお礼を申し述べるべきです。

 

 

次にどうやって祈るか?ですが、日本では神社に言って祈願するというのが最もスタンダードな手法として昔から知られていますが、祈る上で神社は現代人に分かりやすい表現でいうと電話ボックスの役割も持っており、神様に祈りが通じやすい場所という風に考えることが出来ます。少なくともそれが神を祀るという目的のほかに神社の存在する目的として挙げられます。

 

 

 

ここでわたくし竜神様りゅうじんさまのおやしろって、いろいろお指図さしずけたなどともうしますと、現世げんせ方々かたがたなかにはなにやら異様いようにおかんがえになられるものがないともかぎりませぬが、それは現世げんせ方々かたがたが、まだ神社じんじゃというものの性質せいしつをよく御存ごぞんじないめかとぞんじます。おみやというものは、あれはただお賽銭さいせんあげげて、拍手かしわでって、かうべげてきさがるめに出来できている飾物かざりものではないようでございます。赤心まごころめて一しょう懸命けんめい祈願きがんをすれば、それがただちに神様かみさま御胸みむねつうじ、同時どうじ神様かみさまからもこれにたいするお応答こたえくだり、ときとすればありありとそのお姿すがたまでもおがませていただけるのでございます……。つまり、すべてはたましいたましい交通こうつうねらったもので、こればかりはじつなんともいえぬほどうま仕組しくみになってるのでございます。

 

小桜姫物語

 

 

ただし絶対に神社に行かなければならないというわけではなく、人間は誰しも自分自身の内部に霊的な通信が可能な携帯電話みたいな機能を備えており、テレパシーとか虫の知らせとか以心伝心のような形で普段から現れています。つまり祈りとは別に悪意や瞋恚なども携帯電話の電波のように周りに放射してしまっています。

 

 

神社に行くのは神様への礼儀的な意味合いや自分としても「祈願」という行動を取り、神社に参拝したり、お賽銭を入れたり、絵馬を奉納したり、場合によっては神官に祈祷してもらえば、より気持ちも強いものになるのではないかと思います(絵馬や祈祷よりも真心一つの方が大事ですが…)。西洋でも教会へ行って神に祈ったりしますが、基本的に目下の者や目上の者の元へ出向くのが礼儀ですので、普通一般の考えでは、もし神社に行けるなら言った方が良いと思われます。

 

 

 

最後に人間視点ではなく、願いを叶える側の神様視点からの興味深い一節を小櫻姫物語の中からご紹介したいと思いますが、原文は青空文庫で無料で読めますのでこちらのリンクから「七十二、神社のその日その日」以降を読むと、参拝者の祈願に対して祭神の小櫻姫様がどういう気持ちでどういう対処をしているのかを知ることが出来て面白いで是非読んでみて下さい。

 

 

ここで取り扱っている「祈り(切望)」というのは、いわゆる人間社会の「陳情」と同じでより上位のものに対して「〇〇して下さい」とお願いするのと似ています。

 

例えば組合や会社や役所や政府などの団体に「〇〇を□□して欲しい」と上に個人、またはグループが要望を出すのは地上世界ではよくあることであり、それをどうするかは上の判断で決まります。

 

 

自分ではどうにもならない状況で、一人で苦しんでいるよりはより上位の誰かに陳情するのは不自然なことではありませんので、これが人間の社会構造の中で起ることなのか、霊界と物質界で起ることなのかだけの違いしかありません。

 

 

ひふみ神示にも「この方 親であるから、不足一応は聞いてやるぞ」と述べられている通り、神と人は親と子なわけですから、本当に困ったら神様に頼ってみることをお勧めします。

 

 

神様の方でも「苦しい時の神頼みでもよいぞ、神まつりて呉れよ、神にまつはりて呉れよ、神はそれを待ってゐるのざぞ」と言っているわけですから、人間はどんどん正神界の神々(高級霊)と通信を持ち、守護と指導を受けるべきであると私は考えています。