『オイ、駒、貴様わけのわからぬ奴だナ。俺がいま宣伝してやるから尊い御説教を謹聴しろよ。親子一世と云ふ事は、何ほど貴様の様な極道息子の親泣かせでも、親が愛想をつかしてモウ之つきり親の門口は跨げる事はならぬ。七生までの勘当だと云つた処で、矢張り親子は親子だ。お前が俺に勘当するなら勘当するでよい、又外に親を持ちますと云つた処で生んで呉れた親は矢張り一つだ。親子は一世と云ふ事は、泣いても笑つても立つても転んでも一度より無いのだ。それだから親子は一世と云ふのだ。断つても断れぬ親子の縁だよ。貴様の考へは大方生てる間は親子だが、死んで仕舞へば親でも無い子でもない、赤の他人だと云ふ論法だらう。ソンナ訳の分らぬ事で宣伝使が勤まるか』
駒山彦『能う何でも理屈を捏る奴だな、夫婦は二世とは何のことだい。親よりも結構だ、死んでからでも又互に手に手をとつて三途の川を渡り、蓮の台に一蓮托生、百味飲食と夫婦睦じう暮さうと云ふ虫の良い考へだらう。さう甘くは問屋が卸すまい。貴様極楽に行つて、蓮の台に小さくなつて夫婦抱合つて、チヨコナンと泥池の中で坐つて見い。どうせ碌な事はして居らぬ奴だから、「貴様が金城鉄壁だ、お前と俺との其仲は千年万年はまだ愚五十六億七千万年の後のミロクの世までも、お前と俺と斯うして居れば之が真実の極楽だ、ナア五月姫さま、現界に居つた時は駒山彦の意地悪に随分冷かされたものだが、斯うなつちやア、もう占たものだ」なぞと得意になつてゐると、娑婆に残つて居る貴様の旧悪を知つた奴が噂の一つもせぬものでも無い。噂をする度に嚔が出てその途端に、蓮の細い茎がぐらついて二人は共に泥池の中へバツサリ、ブルブルブル土左衛門になつて仕舞ふのだよ。一旦死んだ奴の、もう一遍死んだ奴の行く処は何処にもありはせない。さうすると又娑婆へ生れよつて、ヒユー、ドロドロ怨めしやーと両手を腰の辺りに下向けにさげて出て来るのが先づ落だな。夫婦は二世だなぞとソンナ的の無い事は、まあ云はぬが宜からう』
蚊々虎『エーイ、喧しい、俺のお株を取つて仕舞ひよつて、能うベラベラと燕の親方の様に喋る奴だナ。この蚊々虎さまの説教を謹んで聴聞いたせ。夫婦は二世と云ふ事は、貴様の考へてる様な意味で無い。夫婦と云ふものは陰と陽だ。「鳴り鳴りてなり余れる処一処あり、鳴り鳴りてなり合はざる処一処あり、汝が身の成り余れる処を我身の成り合はざる処に、さしふたぎて御子生んは如何に」と宣り給へば「しかよけむ」と応答し給ひきと云ふ事を知つてるかい。夫婦と云ふものは世の初めだ。誰の家庭にも夫婦が無ければ、円満なホームは作れないのだ。さうして子を生むのだよ。其子がまた親を生むのだ』
『オツト待て待て、脱線するな。親から子が生れると云ふ事はあるが、子が親を生むと云ふ事が何処にあるかい』
『貴様、分らぬ奴だな。男と女と家庭を作つたのは夫は夫婦だ。そこへ夫婦の息が合つて「オギヤ」と生れたのだ。生れたのが即ち子だ。子が出来たから親と云ふ名がついたのだ。子の無い夫婦は親でも、何でもありやしない。此位の道理が分らないで宣伝使になれるかい。さうして不幸にして夫が死ぬとか、女房が夭折するとかやつて見よ。子が出来てからならまだしもだが、子が無い間に女房に先だたれて仕舞へば、天地創造の神業の御子生みが出来ぬでは無いか。人間は男女の息を合して、天の星の数ほど此地の上に人を生み足はして、神様の御用を助けるのだ。そこで寡夫となつたり寡婦となつたり、其神業が勤まらぬから、第二世の夫なり妻を娶るのだ。之を二世の妻と云ふのだい。貴様の様に此世で十分イチヤついて、又幽世に行つてからもイチヤつかうと云ふ様な狡猾い考へとはチト違ふぞ。さうして二世の妻が、又もや不幸にして中途で子が出来ずに先に死んで仕舞つたら、夫はもう天命だと諦めるのだ。三回も妻を持つと云ふ事は、神界の天則に違反するものだ。それで已を得ざれば、二人目の妻までは是非なし、と云つて神様が御許し下さるのだ。其を夫婦は二世と云ふのだよ。あゝあ一人の宣伝使を拵へ様と思へば骨の折れる事だ、肩も腕もメキメキするワイ』
淤縢山津見は感じ入り、
『ヤア、蚊々虎は偉い事を云ふね。吾々も今まで取違をしてゐた。さう聞けばさうだ。正鹿山津見さま、如何にもさうですね。何でも無い事で気のつかない事が、世の中には沢山ありますなあ。三人寄れば文殊の智慧とやら、イヤもう良い事を聞かして貰ひました。南無蚊々虎大明神』
駒山彦は、
『親子は一世、夫婦は二世、そいつは貴様の、オイ蚊々虎先生の懇篤なる、綿密なる、明細なる、詳細なる、正直なる……』
蚊々虎『馬鹿、人をヒヨツトくるか、蚊々虎大明神だぞ』
『ヒヨツトコ ヒヨツトコ来る奴もあれば、走つて来る奴もあるワイ』
『困つた奴だなア、主従三世だ。今日から貴様は蚊々虎の家来で無いぞ』
『家来で無いもあつたものかい、誰が貴様の家来になつたのだ。ソンナ法螺を吹かずに主従は三世の因縁を聞かして下さらぬかイ』
蚊々虎『下さらぬかなら、云うてやらう。人に物を教へて貰ふ時には矢張り謙遜るものだ。からだに徳をつけて貰ふのだからな。オホン、主従三世と云ふ事は、例へて云へば此蚊々虎さまは、もとは此処にござる淤縢山津見様が醜国別と云うて悪い事計りやつて居る時に俺が家来であつた。然しコンナ主人に仕へて居つては行末恐ろしいと思つたものだから、如何かして暇を呉れて与らうと思うたのだ。さうした処がネツカラ良い主人が見つからぬのだ。探してゐる矢先に日の出神と云ふ立派な宣伝使が現はれたのだ。それで此方さまは、第二世の御主人日の出神にお仕へ申して居るのだ。さうして淤縢山さまは、蚊々虎々々々と云つて家来扱ひをされても、俺の心は五文と五文だ。その代り一旦主人ときめた日の出神の前に行つた位なら、ドンナ者だい。臣節を良く守り、万一日の出神様が俺の見当違ひで悪神であつたと気がついた時は、其時こそ弊履を捨つるが如くに主人に暇を与るのだ。さうして又適当な主人を探して、それに仕へるのだ。それを三世の主従と云ふのだよ。三代目の主人は醜国別よりも、もつともつと悪い奴でも、もう代へる事は出来ない。そこになつたら、アヽ惟神だ、因縁だと度胸を据ゑて、一代主人と仰ぐのだ。三回まで主人を代へ、師匠を代へるのは、止むを得ない場合は神様は許して下さるが、其以上は所謂天則違反だ。主従四世と云ふ事はならぬから「主従は三度まで代へても止むを得ず」と云ふ神様が限度をお定めになつて居るのだよ。どうだ、駒、俺が噛んでくくめるやうな御説教が、腸にしみこみたか、シユジユと音がして浸み込むだらう。賛成したか、それで主従三世だよ』
霊界物語に登場する親は一世、夫婦は二世、主従は三世という表現ですが、これは普通のことわざでもあります。
ことわざ辞典には下記のように掲載されています。
親子は一世夫婦は二世主従は三世とは、親子の関係は一世、夫婦の関係は二世にわたり、主従関係は三世にわたるほど深いものであるということ。
霊界物語りの解釈はこれとは違っていて、要約すると親子関係というのは絶対に変更できないから一世といい、夫婦関係というのは一度結婚してもなにがしかの理由で妻または夫を失った場合、子供を産んで人口を増やすというご神業が勤められないために2度までの結婚は許し、主従関係は3度までなら変えてもOKと述べています。
親から生まれてきたという事実は絶対に代えられないのでこれは別として、2度目の配偶者、3度目の主人がもし悪人だったと後で発覚しても「そこになつたら、アヽ惟神だ」というわけです。
これに関しては異論反論あると思いますが、たしかにニュースで見るような一生で10回も20回も結婚する人を見るとさすがにそれはどうなのか?と思ってしまいます。
昨今の日本では昔のように殿様に仕えるといった厳格な主従関係はあまりないですし、会社勤めも「主従関係」ではなく「雇用関係」という風に思えるのでこれはちょっと現代の価値観には沿いにくいですが、夫婦関係というのはおそらく遠い未来まで続く重要な問題です。
結婚は2回までということに関して別の箇所でもう少し詳しく述べられていますので引用してみたいと思います。
勝『三五教の教に親子は一世、夫婦は二世と教へてある。此事に就て随分信者の中にも迷ふ人があるが、之を明瞭と解釈すれば、夫婦といふものは、夫でも女房でも二度より替へられないのが不文律だ』
婆『さうすると先の夫なり、女房なりの片一方が死ぬ。止むを得ないから又後の夫なり、女房を迎へる。さうなると死んでからは夫が二人あつたり、女房が二人あつたりするやうなことが出来るぢやないか。それでは何うも神界へ行つて何方の女房と一所に暮したら本当だか判らぬと云ふて、皆のものがいろいろと評議をして居るのだが、お前サンは如何思ひますか』
勝『夫婦と云ふものは無論身魂の因縁で結ばれるものではあるが、身魂と云ふものは、いくらにも分れて此世へ生れて来て居るものだ。併し余程神力の有る神の身魂なれば四魂と云つて四つにも分れて此世に生れて来るものだが、一通りの人間は先づ荒魂とか和魂とか二魂が現はれて来るのが普通だ。それだから二度迄は同じ身魂の因縁の夫婦が神の引合はせで、不知不識に縁を結ぶ事となる。それだから三人目の夫や、女房は身魂が合はぬから、どうしても御神業が勤まらないのみならず、神界の秩序を紊し身魂の混乱を来す事になるから厳禁されて居るのだ。また霊界に行つた夫婦は肉体欲がチツトも無い、心と心の夫婦だから幽体はあつても此世の人間のやうな行ひは、チツトもする必要も無く、欲望も起らぬから綺麗なものだ。中には執着心の強い身魂は此世に息ある動物を使ふて、ナントか、かとか云ふてわざをする奴がある。けれどもコンナのは例外だ。恰度幽界へ行つてからの夫婦と云ふものは、仲の好い兄弟のやうなものだ。肉体の夫婦は肉体の系統を繋ぐための御用なり、神界の身魂の夫婦は神界に於ける経と緯との御用をするのが夫婦の身魂の神業だ』
「身魂と云ふものは、いくらにも分れて此世へ生れて来て居るもの」
「余程神力の有る神の身魂なれば四魂と云つて四つにも分れて此世に生れて来る」
「一通りの人間は先づ荒魂とか和魂とか二魂が現はれて来る」
「それだから二度迄は同じ身魂の因縁の夫婦」
この辺りは考えさせられる部分です。
ともあれ霊界物語りでは荒魂や和魂の問題であり、回数ではなく、人数の問題であるという趣旨のことが述べられていて同じ人と寄りを戻す場合は数に入らないようです。
霊界物語では生まれて来るときに普通は2つに分魂して生まれてくると述べていますが、生まれて来るときに自分の伴侶の霊がいることは愛の法則でイザヤ霊も述べています。
いわゆる「運命の人」ですが、こういうことを述べている霊的書物はたまにあったりします。霊界物語りでも天国の夫婦はそっくりなので、まさに同じ霊なのでしょう。
【結婚問題について】
人が不幸に感じる最大の要因の一つが、パートナーとの関係であるよ うに見えます。相手が見つからないと悩む人もいますし、自分たちの関係が不幸せなために苦しむ人もいます。パートナーとの関係で、幸せでない人たちがこんなに多いのはどうしてですか?
それは二人の間に、本物のパートナーの愛の感情というものが存在し ていないからだ。または、エゴの欠点が愛の感情を抑えつけたり、ある いは、その二つのことが同時に起こるからだ。
パートナーとの関係では、どうしたら二人が幸せになれるでしょう か?
パートナーとの関係で完全に幸せになるには、二人の内面が完璧に似 通っていて、両想いで、自由な、真の愛の感情が存在している場合に限 られる。しかしこのケースは、君たちの世界ではほとんどお目にかかれ ない。
それはなぜでしょうか?
それはパートナーとの関係において、エゴや必要性が勝ってしまって いるからだ。また大半の人が、自分と似た存在をはっきりと認識できる ほど愛の能力を発展させていないので、その人に対する愛情を自覚して 目覚めさせ、そのために闘う勇気を持たない。
自分と似た存在を認識するというのは、双子の魂のことを指している のですか?
そうだ。もっとも、双子の魂というよりも相似の魂と呼んだ方が正確 なのだが。
それは、どうしてですか?
なぜなら、君たちは双子という言葉から全く同じものを連想しがちで、 双子の魂はすべてにおいてそっくりの瓜二つだと思ってしまうが、そう ではない。双子の魂、つまり相似の魂は、あえて定義するならば、「霊 的な出産」となる同じ創造の時を共にした存在だ。それらは、愛で結び ついていられるように同じ瞬間に誕生した、お互いを完全に補い合える 魂なのだ。だが同時に生まれても、そっくりな魂であるわけではない。
人は基本的に生まれてくるときに双子の霊が同時に誕生するそうですが、必ずしも夫婦とは限らず親子兄弟や親友や師弟、時には敵同士であることもあるそうです。あらゆる無数のケースが存在し、時には違う星に生まれてそれぞれの任務をこなすということもあると述べられています。
単に人口を増やすとか伴侶を持つ喜びというだけでなく、夫婦もまたそれぞれの霊性を進歩させるための課題でもあるようで、この辺りは相当入り組んでいて私もよくわかりません。
産土様が霊界から操っているというのはわかりますが、誰にどんな配偶者が与えられるのか?また与えられないのか?のいわゆる縁結びは神様の世界の秘匿事項のように思えます。
幸安幽界物語でも霊的に結ばれる本当の妻は霊界におり、地上で誰と結婚しても本当の妻ではない。しかし地上で結婚はしても良い、というような下りがあります。
結婚しない人もいますし、何度も結婚する人もいます。イザヤ霊の言うとおりなら地球に生まれてきた時点で自分の魂の伴侶とは結婚出来ない人もいることになりますし、龍の男女は一生独身であることが最初から運命付けられている人もいると言います。また地上時代だけの夫婦で霊界ではお別れという夫婦もたくさんいます。
ともあれ、一応のところは通常分魂がいる、霊格の高い人は4つも分魂がいる、ということが述べられています。
結婚の回数については2回までと述べられていますが、回数制限について言及している霊的な書物は霊界物語(出口王仁三郎の書物)だけでほかの書物では回数に特に制限を付けていません。
ただこれは霊的な問題(分魂現象や荒魂・和魂など)を無視した単に道徳的な見地であって神様から見ればやっぱり2回なのかもしれません。