これは密教やヨガなどでも行われているもので、要するに何か1つの具体的な対象物をイメージして、それに向かってしばらく意識を集中していると、精神的にそれと融合してしまう。そのメカニズムを細かく説明する余裕はないが、これは霊的意識の中でもかなり高度な次元に属する。

 

(個人的存在の彼方 マイヤース)

 

精神統一の重要性は「小櫻姫物語」や「新樹の通信」などの日本の霊界通信でよく述べられていますし、鎮魂帰神法の鎮魂もある種の精神統一と言えます。

 

シルバーバーチやホワイトイーグルなども精神統一の重要性を説いていますし、スピリチュアリズムとは無関係に近年では科学的に瞑想・精神統一などの効用が研究されていたりもします。

 

この「何か1つの具体的な対象物をイメージして、それに向かってしばらく意識を集中していると、精神的にそれと融合してしまう。」というのは昨今流行している引き寄せの法則を連想させます。そのことについてばかり考えていると、精神的にその影響を受け、あるいは同化し、結果としてその物事を引き寄せてしまうというわけです。

 

統一というのは複数のものを1つに纏め上げるというふうに受け取れますので、天照皇大神様に対して精神統一をすれば、自分もまた天照皇大神様の影響を受け、その性質を引き寄せるということになります。

 

逆に嫌なこと、悪いことばかり考えていると、同じようにその影響を受け、その性質を引き寄せるということになります。

 

死後の世界における向上の道はたくさんの霊的書物を読む限り自分自身の向上のためには「精神統一」、または「他人の役に立つ行為」の2つに思えます。シルバーバーチやホワイトイーグルは人間たちのために地上に降りて来ていますし、同じようなことをしている霊は山ほどいます。みな自分の安楽な生活、気楽さを捨てて自分以外の誰かのために役立とうとしているわけです。

 

それとは別に自分個人でする修行としてはすべては精神統一に帰結するようです。

 

 

 

こちらの世界せかいで、なによりも大切たいせつ修行しゅぎょうというのは精神せいしん統一とういつで、精神統一せいしんとういつ以外いがいにはほとんど何物なにものもないといえる。つまりこれは一しん不乱ふらん神様かみさまねんじ、神様かみさま自分じぶんとを一たいにまとめてしまって、ほかの一さい雑念ぞうねん妄想もうそうはらいのける工夫くふうなのであるが、実地じっちってると、これはおもいのほか六ヶむつかしい仕事しごとで、すこしの油断ゆだんがあれば、姿すがたはいかに殊勝しゅしょうらしく神様かみさままえすわっていても、こころはいつしか悪魔あくまむねかよっている。

 

(小櫻姫物語)

 

 

とに角、幽界の修行と言ってもその向う方面はなかなか複雑なものであるらしく、とても簡単に片づけることはできませんが、しかし幽界の修行の中心は、詮じつめればこれを精神統一の一語に帰し得るようです。

 精神統一……これは現世生活においても何より大切な修行で、その人の真価は大体これで決せらるるようであります。五感の刺戟のまにまに、気分の向うまにまに、あちらの花にあこがれ、こちらの蝶に戯れ、少しもしんみりとした、落ついたところが無かった日には、五・七十年の短かい一生はただ一場の夢と消え失せてしまいます。人間界の気のきいた仕事で何か精神統一の結果でないものがありましょう。

 が、物質的現世では統一三昧ざんまいに耽らずとも、ドーやらその日その日を暮らせます。ところが、一たん肉体を棄てて幽界の住民となりますと、すべての基礎を精神統一の上に置かなければ到底収まりがつかぬようです。

 

新樹の通信

 

 

ひふみ神示や大本神諭などではあまり精神統一について述べられていないように思えますが、日本の霊界通信にはあの世の仕事のすべてを精神統一で決まるというくらい重要視されています。

 

シルバーバーチやホワイトイーグルは自分たちがしている修行については述べていませんが、地上人たちに精神統一の有用性や大切さを説いています

 

 

静寂の時こそ、背後霊が働きかける絶好機です。片時も静寂を知らないような魂は、騒音のラッシュの中に置かれています。それが背後霊との通信を妨げ、近づくことを不可能にします。ですから、少しの間でいいのです。精神を静かに統一するよう工夫して下さい。すると次第に、役に立つ良い考えが浮かんできます。背後霊のオーラとあなたのオーラが融合する機会が多いほど、それだけ高度なインスピレーションが入ってきます。

 

 

「テーブルも何も用いずに何分間か、ただお二人で座って黙祷するというだけでもいいのです。言葉に出すのもいいかも知れません。が、それも必ずしも必要ではありません。心を空にして穏やかな気持ちの中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。地上の人間は静かな精神状態を持つことの効用を十分に認識しておりません。」

 

(シルバーバーチの霊訓)

 

 

 

瞑想をすれば、人は霊的な感性が磨かれていきます。この感性を通じて、人は魂の内的生命に気付いていくようになります。高級な感性が磨かれて、人は永遠の霊的生命に同調し、気付き、これを深く知るようになっていくものです。

 

(秘儀への道 ホワイト・イーグルの霊示)

 

 

ストレスなどから精神を回復させたりするために精神統一が有益であることは近年科学によって研究が進んでいますが、霊的にも守護霊や指導霊の感化を受けるために有用なようです。

 

 

瞑想と精神統一は基本的には同じようなものだと思いますが、私個人のイメージとしては瞑想というのは何も考えないで心を空っぽにすることであり、精神統一は要するに神様と自分をひとつにしてしまうことと考えています。そういう意味では精神統一と鎮魂は同じ意味になります。

 

 

 一、身体衣服を清潔にする事。

 二、ゆうすいの地、閑静の家を選ぶ事。

 三、身体を整え、めいもく静座する事。

 四、一切の妄想を除去する事。

 五、感覚をとうじんして、意念を断滅する事。

 六、心神を澄清にして、感触のためにみだれざるを務むべき事。

 七、一意専心に、わが霊魂の天之御中主神の御許に至る事を、黙念すべき事。

 

(本教創世記 出口王仁三郎)

 

 

鎮魂は宇宙の究極神・全知全能たる真神・天之御中主神をただ祈り、自分の霊が天之御中主神の御許に至ることをひたすらに願い奉り、精神統一します。既に述べたように精神統一している対象と一つになるという作用があるので、精神統一の対象は出来るだけ高い神であることが望ましいです。

 

 

例えば現世利益を求めて稲荷明神の狐を崇めたり、そこいらの枝の神、低位・中位の神を崇め、精神統一をしていると狐やその神と一つになっていきます。

 

 

神を祀ることと、精神統一は違いますが、心を向けるという意味では同じで、稲荷明神の狐を祀っていると本来上位の存在であるはずの人間よりも動物の狐の方を上位と見做すことになりますので、狐以下の御魂になっていきます。

 

 

どうせ祀るなら、どうせ精神統一するなら最高神が良いと考えるのが普通一般の考えですが、ことに精神統一に対してはなるべく高い神(神道では天之御中主神)に体して精神統一を行うのが良いように思えます。