私が知りうる限りの死後の世界の大雑把な概略図をまとめてみました。私は霊能者ではありませんので幽体離脱して見てきたとかそういうことではなく、ひふみ神示などに代表される日本の神示系とシルバーバーチやスウェーデンボルグなどに代表される西洋の霊訓系から得た共通する内容をまとめたものです。

 

下記に述べることに私の主観は全く入っておりません。すべてひふみ神示や出口王仁三郎や宮地水位やシルバーバーチやホワイトイーグルやスウェーデンボルグ、etc(以下多数)…の受け売りです。要するに本で読んだ知識だけですが、それらは大同小異であることがほとんどであり、たくさんの書物が違った角度から同じ事を述べているという点がそれらの霊的書物の信憑性を高めています。

 

なるべく引用元の原文を表記していますが、興味がおありの方はその書物をお読みになると宜しいかと思います。死後の世界を知ることは絶対に生きていく上で役に立ちますのでわかる範囲でまとめてみたいと思います。

 

ネットで無料で読めるものもたくさんありますが、紙の本が良いという方もいらっしゃると思うのでサイトへのリンクとamazonへのリンクの両方を載せておきます。

 

 

○死後の世界概略図

 

まず大雑把な図です。

 

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霊界には天界と、地獄界と、中有界(幽界とも呼ぶ)との三大境域があつて、天界は正しき神々や正しき人々の霊魂の安住する国であり、地獄界は邪神の集まる国であり、罪悪者の堕ちてゆく国である。

そして天界は至善、至美、至明、至楽の神境で、天の神界、地の神界に別れてをり、天の神界にも地の神界にも、各自三段の区劃が定まり、上中下の三段の御魂が、それぞれに鎮まる楽園である。地獄界も根の国、底の国にわかれ、各自三段に区劃され、罪の軽重、大小によりて、それぞれに堕ちてゆく至悪、至醜、至寒、至苦の刑域である。

(霊界物語 第1巻)

 

霊界物語〈第1輯〉

出口 王仁三郎 

*霊界物語はこちらで無料で読めます。

 

ものすごく大雑把にわけると死後の世界は「天国=天界」と「地獄=根底の国」とその中間境である「中有界(幽界とも呼ぶ)」の3つに別れています。

 

そしてこれとは別に私たちの住む地上物質界が存在します。

 

 

○地上物質界について

私たち肉体を持った人間が住んでいる世界が図の一番左の現界(物質界)です。私たち人間が霊界の存在を信じないように、霊界の人たちも私たちが住んでいる物質界の存在を信じない人がいるそうです。その理由は自分の感覚の対象にならないからだそうです。この点は多くの地上人と同じです。

 

霊界に住むものは多くの場合自分の住む霊界以外の事は知らないその霊界が総ての霊界であるかの如く思うものであるぞ。同じ平面上につながる霊界の事は大体見当つくのであるなれど段階が異なって来ると分からなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである。

(ひふみ神示 竜音之巻)

参考サイトはこちら

 

ひふみ神示

*ひふみ神示はこちらで無料で読めます。

 

地上物質界に関してはこれ以上は特に説明の必要はないと思われますので省略します。

 

 

○幽界(半霊半物質界)について

肉体を失うと即座に希薄な霊になるわけではなく、霊と物質の中間的な存在になります。あるいは魂といい、あるいは幽体といい、あるいはアストラルボディといい、現界では用語が定まっていませんが、要するには死後すぐに行く半霊半物質の世界です。

また天狗や仙人などもこの界に属している存在がいるように思えます。

地獄のことを幽界と呼ぶ場合もありますが、ここでは幽界=中有界という風に使います。

 

半霊半物質といっても厳密に5:5という意味では無く、ある程度までは物質性を持っていると解釈して欲しいと思います。実際はガスのような流動体の性質を持っているようです。

 

アストラル体(幽体)は、外見は人間の身体に似ているが、光り輝いていて半透明である。実際には、太陽からの高周波の光で活性化されたヘリウム・アルゴン・キセノン・クリプトンという四つの希ガスを組み合わせた、ガスエネルギーの流動体で構成されている。

(魂の法則 ヴィセント・ギリェム )

 

魂の法則

ヴィセント・ギリェム 

*魂の法則はこちらで無料で読めます。

 

 

いずれ地上でも霊や魂の研究が進めば科学的に用語が統一されるはずですが、地上に最も近い幽体を持った存在たちの住む世界を総括して幽界とここでは呼びたいと思います。

しかし幽界にはいくつかの区分が可能であるようです。

 

 

まず①の死後の人間が向う中有界、②の幽界の善霊の住む境涯、③の幽界の悪霊の住む境涯

、④の特に質の悪い邪神、邪霊たちの兇党界です。

 

①中有界、中界、精霊界、煉獄、六道の辻、天の八衢

天地の中間を中界と申すぞ。天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ。天国へ行くのも、行かんのも先づ落ちつく、死後の始めての世界であるぞ。

(ひふみ神示 白銀の巻)

 

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まず『いろは』の『い』から言うとこう。霊界には神界・中有界・幽界(地獄)の三大境域がある。神界は至美、至尊、至厳の世界で、神道家のいう高天原、仏者のいう極楽浄土、耶蘇のいう天国にあたる。幽界はいわば神界の変態的幽境で、虚偽と悪欲の暗黒界や。神道家は根底の国または根の国・底の国、仏者は八万地獄、耶蘇はヘルと言うとる。中有界は、高天原にあらず根底の国にもあらず、両者の間に介在する中間的世界や。神道家は天の八衢、仏者は六道の辻、耶蘇は精霊界とそれぞれ呼び名は違うがのう」

「すると、人が死んだら、その霊魂は生前の善悪に応じた境域へ行かされるわけどすな」

「行かされるというより、自ら行く。人をも含めた動物の霊を精霊という。つまり生魂のことや。善霊も悪霊も一括して精霊や。霊と精霊を混同せんようにな。霊は万物に普遍してある。火鉢にも鉄瓶にも草花にもある。霊が脱けたら、その形を保つことがでけんさけ、崩れてしまう。非常に長い年月を経た土器が何もせんのにぐしゃぐしゃに潰れることがあるが、あれは霊が脱けたんや」

(出口王仁三郎 大地の母 霊界問答)

参考サイトはこちら

 

 

ひふみ神示にも出口王仁三郎の霊界物語にもスウェーデンボルグの天国と地獄などにも、ほとんどあらゆる霊的な書物に中有界、あるいは中界、あるいは精霊界、あるいは煉獄、あるいは三途の川や六道の辻や天の八衢など名称は様々ですが、この界の描写があります。

 

これは人間が死後すぐに向う境涯であり、帰幽した人間の集まる幽界の一区画であると思われます。

 

中有界での人間は①外分の状態、②内分の状態、③準備の状態の3つの状態があり神界へ進むか地獄へ進むかの分かれ道がここにあります。

 

 

①の外分の状態とは生前の姿である外見の状態です。内心は悪を持っていても世間体や法律による処罰を恐れるために悪を犯さない人間は外面は良いわけですが、この外面の状態が最初の状態になります。

この手のタイプは法律や世間体がなければ人殺しでも強盗でもなんでもするということであり、内面には地獄的性質を秘めているわけです。地上での状態と似ています。

 

 

次に②の内分の状態とは前述の外面が剥ぎ取られてその人の内面の心が露わになる状態です。仮面が剥ぎ取られ、心の醜い人間は醜く、心の美しい人間は美しくなるという地上では外面に現れなかった人間の内面が表面化する状態です。

 

 

(幽界の内分の状態で)顔が変化する理由はあの世では自分のものでない性向を自分のものとして偽ることが許されず、自分の性向に反する顔を持つことが出来ないからです。あの世では誰もが考える通りに話し、望む通りの外見や姿を見せます。従ってあの世では顔は本人の性向の外形であり像なのです。

そういうわけでこの世で知り合った者同士が精霊界(中有界)に会えばお互いにわかりますが、地獄や天国で会ってもわからないのです。

(天国と地獄 スウェーデンボルグ)

 

天国と地獄

スウェーデンボルグ

 

 

 

最後の③の準備の状態は露わになった自分の本性が天国へ進むか、地獄へ進むかを文字通り準備する状態で、この状態を経て半霊半物質の状態を捨て去り完全に物質性がなくなる霊の状態になるそうです。この準備の段階までは希薄ながらある程度までの物質性を持っています。


 

基本的にはこの段階から天国か地獄かのどちらかへ進むのが大半のようです。しかし幸安幽界物語にあるように生前天狗や仙人の境涯と縁があればそちらへ進む人間もいるようですし、長期に渡って幽界の中有界以外の界へ留まる者もいるようです。

出口王仁三郎は30年以上中有界に留まる者はいないと述べています。

 

天の八衢(中有界)に在る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない、直に高天原へ上るのもあり、直に地獄に落ちるのもある。極善極真は直に高天原に上り、極邪極悪は直に根底の国へ墜落して了ふのである。或は八衢に数日又は数週日数年間居るものである。されど此処に三十年以上居るものは無い。此の如く時限に於て相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。

(霊界物語 第42巻)

 

中有界にいる時間が人それぞれ違うのは「人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るから」と王仁三郎は述べていますが、スウェーデンボルグはこれをより分かりやすい言葉でその理由を述べています。

 

偽善者は外面を取り繕って善人を装う習性があるため、死んだ後の顔の変化も他の人より遅くなります。そのため彼らは長きに渡ってそこそこ美しく見えます。しかし繕っていたものは徐々に剥がれていき、心の奥底にあるものが出てくるためやがて彼らは他のものより醜くなります。

(天国と地獄 スウェーデンボルグ)

つまり地上時代に外面は良いけれど中身は下劣・凶悪な人間(偽善者)は仮面が剥がれていくのに時間が掛るということです。

 

②幽界の善霊の住む境涯&③の幽界の悪霊の住む境涯

霊界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とが居る、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもってゐるぞ。

(ひふみ神示 竜音の巻)

 

ここでいう幽界は果たして地獄のことなのか、中有界がある幽界のことなのかよくわかりませんが地獄にも善人がいるのか?と考えると善人なら天国へ行くのでは?とも思えますので、中有界がある幽界のことのように受け取れます(違う可能性があります…)。

 

地獄は別として語っているようにも思えますが、別のところでは地獄のことを幽界と言っているように取れるような箇所もあり、この辺りも用語が一定でないのでなんとも言えない部分があります。

 

しかし、神界(天国・霊国)以外の幽界(あまりよくない世界)には陽霊人(悪霊)と陰霊人(善霊)がいると述べられています。

 

 

幽界を半霊半物質の界という意味で述べているのであれば、天国へ進む人間と地獄へ進む人間の中間状態の霊がいるわけですから、ここで述べられていることも理解がいきます。

 

 

例えば寅吉物語や幸安幽界物語に登場するような清浄利仙君や杉山僧正はどう考えても善人ですが、天国(日界)・霊国(月界)の住人か?と考えるとどう考えても地球圏で活動しているので、ひふみ神示でいうところの陰霊人(善霊)になります。

 

仙人と申すものは如何いかに高度なものであってもそれは幽界に属す。仙人界には戒律があるからぞ。神界には戒律は無し、戒律ある宗教は亡びる。マコトの宗教には戒律は無いぞ。しかし神界にも仙人的存在はあるぞ

(ひふみ神示 竜音之巻)

 

日本では有名な天狗や仙人なども多くが幽界に属しているようです。ひふみ神示では仙人と申すものは如何いかに高度なものであってもそれは幽界に属すと述べられており、厳しい戒律があるとも言われていますが、たしかに異境備忘録や寅吉物語や幸安幽界物語では厳しい戒律や肉体を苦しめる各種の厳しい修行をしているシーンが登場します。

 

 

幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりの殆どは この幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとへ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈(はず)のものを生み出し それが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民 九分九厘は幽界(地獄)との繋がりを持つ、胸に手をあててよくよく自分をサニワせよ。

(ひふみ神示 竜音之巻)


「幽界は人間界と最も深い関係にあり」という表現は物質性が完全に消えた霊界よりも半霊半物質の幽界の方が人間界に近いという意味に取れますので幽界=地獄ではなく幽界=半霊半物質の界という風にとれます。

 

 

宮地水位の異境備忘録や幸安幽界物語、あるいは寅吉物語で出てくる仙人、山人、天狗などはほとんどこの境涯なのではないかと思われます。異境備忘録には多少、上の霊界のことが出て来ますが、大半は幽界のことが書かれており、地上人と同じように飲み食いしたり、地上人と同じような家屋を持っていたり、地上人と同じように大小便や睡眠を取ったりするような記述もあります。

 

食事や睡眠や便の有無は同じ幽界でも境涯によって異なり、文化的な背景も相当な差違があります。例えば同じ地上世界でも日本とアメリカで違うような感じですが、本から読み取れる限りはもっと異なるようです。

 

しかしいずれにしても物質性の濃度は別としても「ある程度までは物質性を持っている」というのが幽界の特徴で、「幽界は人間界と最も深い関係にあり」というのは地上そっくりと思えるようなエピソードがたくさん登場します。

 

問「幽界(天狗界)では煮炊きする時の鍋釜はどうしているんだ?」

寅吉「幽界(天狗界)には人間界にあるものは何もかもあります。もしない物で入用な時は地上の誰かの人家に行て黙って借り、用が済んだら返しにいきます。しかし借りているのは鍋の幽体だけであり、物質としての鍋は人家にそのままあるので人間たちには借りたことがわかりません。

(仙境異聞(寅吉物語のこと))

参考サイトはこちら

 

現代語訳 仙境異聞

平田篤胤

 

有名な平田篤胤が記した仙童寅吉との問答の1つですが、寅吉が修行したという岩間山(現在の茨城県笠間市(現・岩間駅西側の山?、あたご天狗の森などがある山?)での話を色々と聞かせてくれますが、山人や天狗たちが修行する山の幽界はかなり地上物質界に近いようです。鍋が必要な時は人間界から借りてくるなどの下りは、寅吉の師匠である杉山僧正のいた界が地上圏に相当近いことを意味します。


 

幽界にも商店らしいものがあって、 其所そこへ滅びた品物の幽体が集まって来るのじゃ。商店にもいろいろ専門があって、象牙の駒のある店には、そればかり山のように積んである。とても地上ではお目にかかれないほど 豊富なものじゃ。中には一組すッかり 揃わんのもある。つまりその残部が地上に残っているのじゃ。この駒を手に入れた店には、ひとり将棋の駒に限らず、あらゆる種類の象牙細工やら、其他の骨董品もあって、精巧なのやら醜悪なのやら、さまざま並べてあった。主人というのは地上に居た時分には骨董家じゃったということで、死んで此所へ来て見ると 所有主無しの骨董店があったのでそのままその店に居据わったというのじゃ。

(幽界行脚 幽界の売店 J.S.M. ワード)

参考サイトはこちら

 

 

幽界行脚でも幽界の特性について色々述べられていますが、骨董品店があるとか肉屋があるとかほとんど地上そっくりの描写がたくさんあります。

 

 

幽界にも様々な境涯があり、地上すれすれの境涯は地上とそっくりそのままであり、上に進んで霊界に近づくほどより精妙に物質性が浄化されて希薄になっていくようです。

 

 

④特に質の悪い邪神、邪霊たちの住む兇党界

いわゆる陽霊人よりもさらに凶悪な邪神や悪魔たちが住む境涯で出口王仁三郎は兇党界、宮地水位は悪魔界と述べていますが、こういった界があるようです。

出口王仁三郎の文献でも幾分かは出て来ますし、異教備忘録や幸安幽界物語では悪魔たちの棟梁について名指して挙げられていますが、ここではあまり深入りしないことにしたいと思います。

 

これらの悪魔たちは力も強く、並の善神・善霊では太刀打ち出来ないこともあり、地上で悪行を積む人間を守護して悪事を働いたり、そういった人間を死後に仲間に引き入れて地獄へ落ちないようにし保護しているのではないかと思えることがことがあります。

 

殺人から詐欺まで様々な悪意に満ちた凶悪犯罪者だけでなく、霊的なことを商売にして悪どい金儲けしている人間は生前から兇党界と縁を結んでいることになり、死後も兇党界へ引き取られるようです。但し動物や虫などに姿を変えられて下等生物として使役されるという形のようです。

 

 

○その他

半霊半物質(もしくは希薄な物質性を持っている境涯)は地上圏に非常に近く臨死体験をした人が見た死後の世界というのは大体このあたりであり、夢で見る(人間は毎晩幽界に行っています)天国的な、あるいは地獄的な世界はやはりこの幽界であるそうです。

 

 

実は、あなた方は今でも毎夜のように霊の世界を訪れているのですよ。ただ思い出せないだけです。この体験は、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあることを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識でもって見ることができます。その時すべての記憶が蘇ります。

(シルバーバーチの霊訓)

参考サイトはこちら

 

シルバーバーチの霊訓シリーズ全12巻

 

 

後で査べて見ると、この人物はまだ生きて居ることが判明しました。後日ワアド氏がその旨を叔父に訊すと、生きて居る人との霊魂は睡眠中にいくらでも霊界に入るものでただ覚めてからそれを記憶せぬだけの事だという返答でした。心霊問題に心を寄せる者の見逃し難き点でありましょう。

(死後の世界 J.S.M. ワード)

参考サイトはこちら

 

 

死後の世界

 J.S.M. ワード (著), 浅野 和三郎 (翻訳)

 

 

多くの霊的書物では睡眠中に幽界を見聞する記述がたくさん見られます。というよりは人間が幽界入りする場合はほとんど全部そうであると行ってもいいかもしれません。出口王仁三郎やスウェーデンボルグを始めとしてみんな寝ている間に幽界を見聞きしています。

そして共通して述べられているのはすべての人間が寝ている間に幽界に行っていること、そしてほとんど全部の人間がそれを覚えていないこと、断片的に覚えていても幽界で得た記憶は脳の中にそのまま入らないので一部が夢となって現れていることなどです。

 

 

夢で見た色々な内容はすべてではないものの幽界のことが多いようで、中には霊界まで進む者もいるようですが、それには特別な権利が必要なようです。

 

 

参考まで幽界行脚では半霊半物質の幽界を7層に分けて解説していますので、参考にしてみて下さい。

 

 

ワード の述べた幽界の概略図

 

幽界行脚

参考サイトはこちら

 

 

第6層と第7層は霊界にかなり近い高い境涯になりますが、これらの界には妖精たちが住む妖精界やおそらく龍たちが住む龍神界があると思われます。これらについてはここでは省略したいと思います。

 

 

○霊界

 

私が先に一寸云うておきたい事がある、幽界を知る前に、 先まず幽界と霊界との間には非常な相違がある事を了解しておく必要がある。最初に霊界について一言すると霊界には、 一、物質は消失して皆無である事。 二、場所と云うものは存在せぬ事。 三、時間の観念は殆ど無く、ただ年代的順序の如ごときものがあるのみである事。

(幽界行脚)

参考サイトはこちら

 

幽界行脚は J.S.M. ワードの死後の世界の続編ですが、霊界と幽界の最大の違いは空間的・時間的観念や物質性が完全に消え去ってしまっているか否かと述べています。

 

中有界や陰霊人や陽霊人の界、あるいは兇党界や寝ている間に行く界は半霊半物質界であり、ある程度まではガス的成分を持った物質性があると言われていますが、上の境涯に進むに連れて随時物質性は希薄になっていき、其処に居住する人間も食事や睡眠といった地上的な習慣を捨て去っていきます。

 

 

いわゆる天国・霊国、または地獄というのは完全に物質性が消えた境涯であり、地球物質界からかなりかけ離れた境涯なので、霊懸り・神懸りする場合も、天国・霊国の界まで進んだ者は波長が違い過ぎて直接は人間に懸れないという文言をよく見かけます。

 

 

私は実はインディアンではありません。あるインディアンの幽体を使用しているだけです。それは、そのインディアンが地上時代に多彩な心霊能力をもっていたからで、私がこのたびの使命にたずさわるように要請された際に、その道具として参加してもらったわけです。私自身の地上生活はこのインディアンよりはるかに古い時代にさかのぼります。このインディアンも、バーバネルが私の霊媒であるのとまったく同じ意味において私の霊媒なのです。私のように何千年も前に地上を去り、ある一定の霊格を具えるに至った者は、波長のまったく異なる地上圏へ下りてそのレベルで交信することは不可能となります。そのため私は地上において変圧器のような役をしてくれる者、つまりその人を通して波長を上げたり下げたりして交信を可能にしてくれる人を必要としたのです。

(シルバーバーチの霊訓)

シルバーバーチの霊訓シリーズ8

 

 

目に見へぬ所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならんぞ、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでゐるのであるから、その感応は極めて強く、如何にも尤(もっと)もらしく人民の目にうつるものであるぞ、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。

(ひふみ神示 竜音の巻)

 

 

シルバーバーチもひふみ神示も(あるいは出口王仁三郎も)高度な神霊(霊界にいる神霊)は直接人間に懸れないので、中継する霊を挟んでいるという趣旨のことを述べています。

人間に懸るということはすなわち脳や口や手足を使うということですから、「完全に物質性がなくなった霊」と「物質的肉体を持つ人間」を取り持つには半分のところは物質としての脳や口や手足を持った半霊半物質の界にいる霊の中継が必要ということなのかもしれません。

 

 

よく死後の世界の体験だとか、霊界通信だとかありますが、高度な神霊が直接人間に懸ることは出来ないので大体は幽界のものであると言われています。

 

引用元が見つからなかったのですが、出口王仁三郎が下記の趣旨の内容を述べています。

要約すると幽界にいる霊は地上に非常に近く、地上に未練や執着があることが多いので、例えば遺産相続とか誰かに恨みを持っているなどの理由で人間に懸って地上に干渉しようとしたり、残してきた家族や友人などに自分のことを知ってもらおうとして降霊会や神懸りなどによく出て来ます。あるいは死後に家や家族のまわりにまとわりついたりするそうです。

 

彼らは死後まもなく、あるいは執着心などからそれほど高い境涯に進んでいるわけでもありませんので、大した幽界・霊界の情報を持っているわけでもなく、例え発言が真実であったとしても行き当たりばったりの狭い了見で不整理の情報が語られることが多く、あまり地上人にとって有益とは言えないものが多いそうです。

 

逆に完全に物質性を脱却して浄化し、天国・霊国の段階まで進んだ進歩した霊は語るべき有益いな情報を持っているけれど、地上圏からかけ離れてしまった境涯にいるため通信が難しく、また地上に未練や執着がない(浄化しているから)地上人とも通信したがらないという趣旨のことを出口王仁三郎が述べています。

 

 

 

 

死後に関しては通常の人間は死後中有界での3つの状態を経て、準備の状態の後に天国か地獄へのどちらかに進みます。

 

 

神界は七つに分かれてゐるぞ、天つ国三つ、地の国三つ、その間に一つ、天国が上中下の三段、地国も上中下の三段、中界の七つぞ、その一つ一つがまた七つに分かれてゐるのぞ、その一つがまた七つずつに分れてゐるぞ、

(ひふみ神示 富士の巻)

 

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・霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自ら之を尊重し、妖魅なぞの為めに誑かさるる事・勿(なか)れ。

・正邪理非の分別を明にすべし。

・常に神典を誦読し、神徳を記憶すべし。

四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。

・正神に百八十一の階級あり。妖魅又之に同じ。

神の上、中、下の品位を知らずばあるべからず。

天神、地祇の分別なかるべからず。

神に三等あるを知らずばあるべからず。

(本教創世記 出口王仁三郎)

 

本教創世記 出口 王仁三郎

 

 

この辺りも用語が整理されていないのですが、物質性が完全に消滅した善神・善霊の界を神界と呼び、神界は天国と霊国に別れているという風にここでは述べたいと思います。

 

 

ひふみ神示では神界は7つに別れ、その1つ1つがまた7つに別れ、さらにその1つが7つに別れているとも、天国3段、地国(霊国?)3段、その中間に1つとも述べています。

出口王仁三郎は神界に3等ありとか百八十一の階級に別れているとか、色々述べています。

 

 

西洋のベールの彼方の生活では第七界とか第十界のような表現が登場し、この辺りは人間の住んでいる境涯からはかなり遠いので、情報も少ないが故研究も進まず、用語も全く整理されていない状態です。

 

 

 

ベールの彼方の生活 G.V. オーエン 

 

いずれにしても、物質性が完全に消滅した境涯は神界と地獄に別れており、神界は天国と霊国に別れ、それぞれ天国・霊国も1つの境涯ではなく、細かく段階分けされているということのようです。

 

その段階をどういう風に区分するのか?が霊的書物によって違いますが、上に行くほど素晴らしい境涯であるのは間違いありません。

 

 

地獄は根の国と底の国に別れ、根の国(虚偽の世界)と底の国(悪欲の国)という二つの境涯に別れています。地上でも国家レベルで嘘を付いたり、騙したりする虚偽の方面において悪が強い国と、奴隷制度や侵略戦争などが好きな悪欲の国があり、地獄が地上に映っている部分があるように思えます。

 

ここでは甚だ簡略化して引用を用いていますが、天国に関しては霊界物語りの治国別の天国巡覧が参考になりますし、地獄に関しては死後の世界の陸軍士官の地獄めぐりが参考になります。

 

 

私個人としては死後の世界のことがわかれば人間は地上で悪事を積んだりすることがかなり減るのではないかと思います。

また死後は無に帰るのではなく生命の存続やそこでの暮らしぶりがわかれば人間は死をそこまで恐れなくなるでしょうし、悲しまなくもなるはずです。

また死後に良い境涯へ進むために地上で善行を積むようになるとも思っています。

 

 

加えて善神・善霊の協力を得ることでより地上を良い世界に出来る手助けになるとも思いますし、逆に地上人が天国や霊国の役に立つこともあるのではないかと思います。

 

 

100年ほど前から徐々にスピリチュアル的な書物が増え始め、昨今では小さな運動が起きているような気もしますが、まだまだ社会の一般常識になっているとはとても言えない状態です。

 

真摯に霊的なことを学ぼうとしているというよりは、悪意はなくとも好奇心や身欲信心だったり、悪意を持ってスピリチュアルを食い物にした詐欺師も多く、また本人に悪意はなくとも慢心して適当なことを嘯いている人もたくさんおり、玉石混交といった感じです。

 

 

世の中を良くする、地上を天国のようにするには人間が死後の世界や神や霊についてボンヤリ、なんとなくではなく、明確に的確に科学的態度を持ってはっきりさせることが必要なのではないかと私は思っています。