死後の世界の飲食についてはシルバーバーチやホワイトイーグルなどの有名どころでは高い境涯ではしないけれど、地上に近い人間的執着が取れていないレベルの霊たちはするという文章をよく読みます。

 

 

西洋の霊界について語る本は大体概ねこの方向で、本来は肉体を失った以上食べる必要はないのですが、習慣で食に対する執着を徐々に減らすため、または高い境涯に昇るために徐々に食事量を減らす練習をしている記述などもあります。

 

 

日本の霊界について語る本でも小櫻姫物語では「こちらの世界へ来てからの私達たちは全然飲食をいたしませぬので、」と述べられていますし、小櫻姫様が守護する浅野多慶子夫人(浅野和三郎の妻)の息子である新樹さんが早死にし、死後、母を霊媒として通信をしていますが、父親の「飲食はやるか?」という質問に「何物も食べません」と答えています。

 

 

ただ小櫻姫物語では唯一水を飲む一幕があります。

 

飲みたいから飲む、という感じではなく客人をもてなすために霊界人は飲食を一切しないので手持ち無沙汰のため仕方なく…という感じです。長い死後の生活でも水を飲んだのはこの時のみとも述べています。

 


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 おきゃくさまがえたときに、こちらの世界せかいなにが一ばん物足ものたりないかといえば、それは食物たべもののないことでございます。それも神様かみさまのお使者つかいや、大人おとなならばかくも、うした小供こどもさんの場合ばあいには、いかにも手持無沙汰てもちぶさたはなは当惑とうわくするのでございます。
 致方いたしかたがないから、あのときわたくし御愛想ごあいそうたきみずんで二人ふたりすすめたのでした。――
ほかなにもさしげるものとてございませぬ。どうぞこのたきのおみずなりとあがれ……。これならどんなに多量たんとでもございます……。』
『これはこれはなによりのおもてなし……雛子ひなこ、そなたも御馳走ごちそうになるがよいであろう。世界中せかいじゅうなに美味おいしいともうしても、結局けっきょくみずしたものはござらぬ……。』
 指導役しどうやくのおじいさんはそんな御愛想おあいそういながら、おし少女しょうじょみずをすすめ、また御自分ごじぶんでも、さもうまそうに二三ばいんでくださいました。わたくしなが幽界生活中ゆうかいせいかつちゅうにもお客様きゃくさま水杯みずさかずきかさねたのは、たしかこのときりのようで、おもすと自分じぶんながら可笑おかしくかんぜられます。

(小櫻姫物語)
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しかし日本の仙人・山人・天狗や修験道系列の霊界通信では多いに飲食をしており、古事記に登場する素戔嗚尊、大国主神、木花咲耶姫神、磐長姫神などの高い位階の神々様が飲食をする(ような)記述がたくさんあり、ちょっと驚いたことがあります。

 

富田日記(前橋神女物語)から抜粋してみます。

 

 

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三日夕方、八幡大神より侍女来て、春女にまいるやうにいはるる故、千吉と伴ひ下女をつれて参り例の如く宮の前に拝み居たるに「宮内に入るべし」と詔玉ふ故、入て見れば此度出雲大神の姫神、八幡大神の御子神の御妻に来玉ふ事に定て、今日は其姫神始て御客に来玉ひて、大国主大神、氷川大神、石長姫命、日々津高根命、総社大神、三躰大神、猿田彦大神、天宇受売命、其余御名も知ざる神等あまた、宮内の黒々なるばかりに御客に来ておはしまして、御酒肴など有ていと賑ぎやかにて、八幡大神いと御心地よげにうるはしくましまして春女にも酒肴を賜り、又「水風呂に入べし」と詔玉ふ故、御湯室に入て見るに、いとうるはしき御湯殿にて御風呂は四角なり。

 

(神様たちが賑やかに宴会している場面でお酒と肴が書かれています。)

 

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又長壁大神よりは、五百文札と小さきキビシャウを賜りて此にて茶を入れて呑めと詔玉ひしとぞ。(此キビシャウを長壁大神つねに御茶を入れて呑せ玉ひし器なりやとぞ。)

*キビシャウは急須のことです。

 

(長壁大神(木花咲耶姫神)が普段お茶を飲むときに使っている急須を春女が賜っています。)

 

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 岩長姫命鼓などうちてにぎにぎしくあそび居玉ひて、春やよくよく来れり、池の水は思ふままに呑べしと詔ふ故、手に掬みて呑に、いとうまき酒なり。瓶子に汲て持ち帰りて、おのれにも呑するに実に美酒なり。

 

(直接お酒を飲んでいるわけではありませんが、池にお酒があります)

 

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 二日、水風呂を立たるに、夕方於竹大神、於松二人来て、長壁大神も十五日ころには、氷川大神よりかへらせ玉ふにより、吾等は其御先供として今日かへり来しなり。

 おりよく水風呂たちて有故、湯に入りて帰らんというてお竹大神入らるる故、春女側より手拭にて背を洗流して奉りに側より余人が見ては只何もなき空を手巾を湯にひたして流がし、ひたしては流し幾度となく流し居るのみなり。


 さて何も奉るものなき故、茶わんに水を盛て奉るに、悦て呑まれ、其礼として其茶わんへ文久銭一文入てかへらる。(此銭をやまひ有とき水にひたしてそれをのめといはれしとぞ。)

 

(長壁大神(木花咲耶姫神)の侍女が水を飲みます。)

 

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さて今日侍女等幽宮(此幽宮と云は宮のおくに又別にある幽宮にて春女にのみ見ゆるなり。是は長壁大神にはかぎらず八幡大神にまれ凡て神々の宮には必顕世の宮の奥に又別に人に見へぬ幽宮有て神等は常に其幽宮に坐ますとぞ。)を払き清むるとて戸障子を残らず取のけてある故、よく奥の方迄見るに、いと大きなる宮にて御畳にて壁は金銀にてはりつけてあり、又大なる御厨あり

 

(長壁大神(木花咲耶姫神)の幽界のお宮の中に大きな台所があります。)

 

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いくらか抜粋してみましたが、神々が宴会をしていて酒と肴があるシーンがあり、直接飲食しているという記述はありませんが、宴会で酒や肴があれば飲食するのは当然と考えるべきですし、長壁大神(木花咲耶姫神)が普段お茶を飲むときに使っている急須を春女に渡したという記述や幽界のお宮に台所があるという記述や岩長姫神の池がお酒になっているなど、飲食を連想させる記述がたくさん登場します。

 

 

また記紀に登場する神様ではなく、元人間で仙境(霊界)に入った人たちの記述にも飲食の記述があり、こちらはかなりはっきりと飲食していることが書かれています。

 

 

 

有名なところですと「異境備忘録」「寅吉物語」「仙境異聞」「幸安神界物語」などがありますが、こちらはいわゆる仙人や天狗的な存在、もしくはその境涯に出入りする存命の人間たちの記録になります。

 

 

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 暫くして大雷鳴りはためき大雨降り来り、岩屋に入りて休息する間に十七天狗を始め寅吉も余も如何なる事出来つらんと恐怖してありけるに、杉山僧正坊日頃帯したる招雨剣を抜きて右手に握り十八人に鷲一疋を供して来り給ひて眼色に怒りを含みたまふに十七天狗は大に恐れたるに「寅吉の誤りなり」と申されて寅吉及び我を伴ひて古鷲に背負はせて常陸国岩間山に居たりて栗酒、柿酒に薯蕷にて作れる物を出して大に飲食したり。寅吉は其時隅にこもりて其酒宴の場へは出ざりければ「寅吉の誤りを赦し給へ」と云ふに「羽団扇は大切の物にて又其使ふ業は極めて大事なり。我が寅吉に暫時貸したるは生涯の誤りなり」とて「寅吉参れ」とて其場へ呼びたるに、寅吉は青き顔も少し直りたり。

(異境備忘録)

 

(杉山僧正(山人)やその他の天狗たち、または宮地水位が多いに宴会で飲み食いしています)

 

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問云、
大天狗たち、常に食物は喰ざるか。また喰ふものなきか。
寅吉云、
自由自在なる故に食物はいつと云ふ時なく食たき物は速に前に来るを食ふなり。殊に十三天狗は毎日村々より各々へ膳を供へる故に、其を我等弟子中までが十分に食ふことなり。然れども現世の供物は減ことなく其ままにて有るなり。減ことなくても天狗の方にては食ふなり。もし不思議に思ひ給はば我が彼方へ行たる後に、何ぞ食せたく思はむ物を棚へ供へ置給ふべし。此彼に来れる時其礼を申すべし。

 

 

問云、
食物をみづから煮炊きて食ふことはなきか。
寅吉云、
みづから煮炊く事もあり。然れど岩間山へは村々の信仰者あり、膳を供ふる故に、其にて沢山なれば煮炊きすることなし。
 
 
 
問云、
魚鳥五辛の類を食ふか。
寅吉云、
魚鳥ともに煮もし焼もし生にても食ふなり。ただ四足の類は神のきらひ給ふ故に、決して食はず甚の穢なり。凡て神のきらひと立ている事は推ことせぬがよし。魔道に入ると云ことなり。臭き物にてはねぎばかりは食ふなり。
(仙童寅吉物語)
(杉山僧正の元で修行していた寅吉の回答からは(鳥も生で?)普通に食べていることがわかります)

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明 問
 食物は如何。酒肉もありや。喰器は如何。
幸安 曰
 食物は木の実斗りを用ひ申候。器は陶器にて菓子鉢様の物也。幸安より此界の菓子を携へ行き、師仙君に贈り候事ありたれど、只見たるばかりにて食しは不致候。都て現界の火の入たる所は容易に手を附け申さぬ也。酒肴は専ら相用ひ候。又利仙君に妻妾ありやと問ふに、見不申候。
 
 
(木の実を食べると述べています)
 
明 問
 菓物は何を食べ候哉。
幸安 曰
 九州赤山には瓊柑と云ふ菓樹あり。其賞味甚旨き物なり。何時も実ありて常に食とせり。

 

(ここでも木の実を食べると述べています)

 

幸安 曰
 此後同八月八日当国熊野の高山と申へ行候、清離仙人と申に逢申候。此仙人は元欽明天皇の十四年癸酉の産にて、其後人間に出たる時の名常陸坊海存重行と申候。丹波の国に生れ、其父討死の後多年義経に仕へて抜群の忠功を為し、文治五年主君亡て後、又仙境に入たりと云ふ。当嘉永五年まで寿命は千三百歳に相成候。此仙人或時海上を歩行したるを見申候。食物は稗の飯を作り給べ、谷水を飲申候。又当山にては五色酒と申す酒あり。青、黄、赤、白、黒なり。此中なる赤き酒を飲み候事あり。味甚甘く殊れたり。

 

(お酒を飲むと述べています)

 

明 問
 仙境にては苦行を勤める事はなきか。
幸安 曰
 誠に恐ろしき行あり。私も所々山中谷々にて水火の苦行断食の勤めをさせられたる事多し。就中去辛亥年四月頃は富士山に登り、大雷雨中にて百日断食にて辛苦の大行仕候。甚難行苦しく御座候。夫より五月に至り当国熊野の火滝と申て猛火降り熱湯落る滝に入て百日断食にて焔熱苦行仕候。此難行致ては人界の事も打忘れ、身も魂も消失せ候かとも存候。
 然れども其場を出で候上は少しも疵無御座候。扨百日の定めに候へども、訳ある事か日数を短かく済ませ呉候。仙境に入候初めの程は好み事斗りにてあれとも、何分かこの苦行を致さでは自在の身に成不申候由、此苦患は彼境の修行斗りにあらず。前世よりの罪を償ひ致由承り候。
 大抵の人間は皆此苦行を得仕遂げずして人界に帰る者多く御座候。茲に至ては誰も人界の楽を羨み申候。人間は寿命短かく不自由にて心侭に成らぬ事多けれ共、斯る苦患の無きは結構也。併しながら苦行を仕おほせたるは通力自在にて中々人間の及ぶ事にては無御座候。
(幸安神界物語)

(断食の行があることを述べています)

 

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仙人と言ってもいわゆる幽界の高い境涯にいる神人のことであると思われますが、彼らの境涯にも高低はあるものの普通に飲食を行っています。

 

 

これらの文献には修験道や仙人にお約束の断食の修行の下りがよくありますが、そもそも断食の行が仙人や山人や天狗には存在するということは、食べることが当然という風に受け取れます。

 

 

小櫻姫様や新樹霊、あるいはシルバーバーチやホワイトイーグルなどは飲食は一切やらないと言っているので、断食の行などは余裕というか行として成立しません。そもそも食べない存在に食べないことを修行とするのはおかしいです。

 

 

さすがに獣などは低い境涯を除いて倦厭される傾向にありますが、寅吉霊は鳥を食べると述べています。

 

 

また食べるということは排泄物も当然あるわけですが、幸安神界物語にはトイレの記述があります。

 

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明 問
 幽界も厠ある由承り候。付ては幽界の人も人間の如く両便も致候哉。
幸安 曰
 仙境の人も物喰ふ故、両便も致候。常に厠に行き候に其中を覗き見候処、井戸の如く深くて底くらく、何とも相分り不申候。二便は消失せてなくなり申候。

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小便、大便はあり、厠(トイレ)の底は井戸のように深く底は見えず、便は用を足した後は何処かへ消え去ってしまうと述べています。

 

 

 

排泄についてはJ.S.M.ワアド著の幽界行脚には下記のような記述があります。

 

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『今迄第五層について話している事柄は、大体第六層にも当嵌あてはまりますが、此度このたびこの二層間の相違点に移りましょう。五層にる人間は六層の人々にくらべると、遥かに物質的で食べる事や寝る事を生前通りにやります。勿論むろん食物といっても幽界での食物です。実は食物や睡眠はもう彼等に全く不必要なのですが、無智の結果生前の習慣を続けてるという訳なのですね。』

 ワアド。『どうもの幽界に不必要な食物が有り得るとは考えられないが……。』

 レックス。しかにいさん、家屋に幽体がある以上、食物だって幽体があるといえましょう。矢張り地上で食物が消滅すると幽界へ現われるのですよ。』

 ワアド。『科学的立場から見て、幽界民が食物をとった場合に、生前通りの結果が起るものだろうかね?』

 レックス。にいさん、実に僕もね、科学のために犠牲を払って幽界食物の試食をして見ました。一度食べて見ると忘れて居た食慾が急に動き出して、だんだんと増大して行くのです。それから遠慮のない処を云うと、排泄物はいせつぶつが出る様になった事が変でした。処が叔父さんからこの試験は危険性があるからめる様にとの忠告を受けました。その理由は、この習慣が附くと自然幽界の食物では満足が出来ず、現界の強烈な刺激を求める様になり、憑依によってこの食慾を満そうとする欲望が起り、遂にはこの邪道に陥って身を滅ぼす者が多いとの事でした。

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普段は食べない食べ物を霊的な実験のために死んだ弟が無理に食べて存命の兄に報告する場面ですが、死後の人間は食べないという記述は富田日記(前橋神女物語)「異境備忘録」「寅吉物語」「仙境異聞」「幸安神界物語」では登場するものの、霊界通信全体としては飲食は低い境涯の霊が行うものであり、地上的執着や習性や抜けてくると食べなくなるというのが霊界通信の基本的な傾向です。

 

 

ただ富田日記(前橋神女物語)は記紀に登場する尊き神々ですし、「異境備忘録」「寅吉物語」「仙境異聞」「幸安神界物語」は基本的に他界した地上人や存命の地上人が出入りする霊界について述べており、仙人・天狗が登場することも多くこの辺りが飲食を考察するキーワードなのかもと思われます。

 

 

 

適当なことを述べて間違った説を社会に出すのは害毒であり、また罪でもありますので、何も断言することは私には出来ませんが、これらの書物がまるきり嘘を言っているとは思えません。

 

 

 

嘘とは言わなくても誤謬や誤解はないとは言い切れませんが、みなそれぞれ自分が見聞きしたありのままを述べているのであり、その境涯においては事実と考えるべきなのではないかと思います。

 

 

山人や天狗は地上に極めて近い境涯に住んでいるので食べるのもわかりますし、多分ですが半霊半物質の幽界に属する人たちなのではないかと思います。

 

 

 

死後完全に幽体が崩壊して霊体となり物質要素がない境涯である霊界に進むと食べなくなるのでは?と思いますが、それだと富田日記(前橋神女物語)に登場する素戔嗚尊、大国主神、木花咲耶姫神、磐長姫神などの高い位階の神々様が飲食をする説明が出来ません。

 

 

 

富田日記はストレートに飲食している描写はなく、みな間接的な描写ばかりですが、ひょっとしたら高位の神々様は分御魂して分身を低い境涯に使わして、それらの分身の方の神様が飲み食いしているのかもしれません。あるいは飲み食いしているのではなく、その精だけを吸収しているのかもしれません。

 

 

 

基本的に日本の霊界通信でも西洋の霊界通信でも「通信が可能な、またはしたがる霊は地上に近い境涯におり、完全に地上圏を離れて天国や霊国に進んだ霊は地上人とは通信したがならない」という趣旨のことを述べています。

 

 

死後、地上に未練たらたらの霊や浄化しきれず地上的生活を営んでいる霊は地上人と交信したがりますが、交信したところで地上に近い境涯にいるので大した霊界の情報は得られません。かといって遠く天国・霊国まで進んだ霊からは有益な霊界の情報があるけれど、今度は遠すぎて交信が不可能に近くなる、またはもはや地上とは関わり合いになりたくないような気分になるそうです。

 

 

もっとも特別な使命がある場合は別なのですべての霊界通信=低俗なものということはなく、高度で高尚なものもたくさんあります。

 

 

結局死後の世界の飲食はよくわからないままなのですが、地上臭が抜けない低い境涯では必要なくても食べること排泄もあるけれど、向上するにつれてなくなり、完全に地上圏から離れて天国・霊国へ進むと完全に飲食・排泄は消えるという風に多くの書物を読む限りは印象を受けます。

 

いわゆる山人・天狗などの霊は半霊半物質の幽界的存在?なのかもしれず、そうと仮定するならば半分は物質的存在なわけですから食事を取るのも納得出来ます。

 

 

私はいわゆる記紀に登場する高い境涯の神様に拝謁したことは一度もありませんが、漠然としたイメージで天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神が地上的な意味での飲み喰いをしているとはちょっと考えられませんし、そこまで行かなくても完全に地球とは異なる世界に到達すれば地上的な意味での飲み食いはしないのではないかと思われます。

 

 

もし私が存命中に霊界に出入りすることが出来ても、地上的な意味で飲み食いする境涯であれば、そこはあまり高い境涯ではないのかな?と思っています(あるいは洋の東西で違うのかもしれませんが…)。

人間はいずれ誰もが死にますので、答えは死ぬまでお預けですが、願わくば死後は地上的な意味での飲食はしたくないものです。

 

 

ちなみに「ではどうやってエネルギーを摂取しているんだ?」という疑問に対する回答としては、

高い境涯の霊たちは周囲から呼吸のような感じで霊的な生命力を吸収しているそうです。ひふみ神示にも歓喜を食べるという記述がありますが、エネルギーを摂取することは当然必要ではありますが、排泄が必要な肉体的または地上的なイメージでの飲食ではないようです。

 

 

天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の造化三神(天祖)も出口王仁三郎の記述ではこれらの尊き神々も「呼吸」していると述べており、ただその呼吸は人間のいう空気を吸っているわけではなく、神々にとっての呼吸であり、やはり生命ある以上呼吸し、それによって外部から活力を得ているようです。

 

 

そう考えると究極の存在である全知全能は一体呼吸やエネルギー摂取などをしているのか?必要なのか?等と考えてしまい、全知全能の生活は計り知れないものがあります。