さて、私の同志であり、友であり、私が守護を託されている貴殿に、最後に申しおきたいことがある。別れの挨拶ではない。これより後も私は常に貴殿と共にあり、貴殿の希望に耳を傾け、そして答えるであろう。

 

いついかなる時もすぐ近くにいると思うがよい。たとえ私の本来の住処が人間の距離感では遥か彼方にあっても、我らにとってはすぐ側にいるのも同然であり、貴殿の考えること、望むこと、そして行うことにおいて常に接触を保ち続けている。

 

なぜなら私にはその全てにおいて評価を下す責務があるからである。それ故もしも私が友として、援助者として、貴殿に何らかの役に立ってきたとすれば、私の下した評価において貴殿が喜ぶように私も貴殿のことを喜んでいるものと心得るが良い。

 

7つの教会の7人の天使のことを思い出し(上の立場も下の立場も共に喜び、共に苦しむという話)、私の立場に思いを馳せて欲しい。さらにまた、いずれの日にか貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。

 

(中略)

 

ともあれ、何事が起ころうと常に心を強く持ち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って事に当たることである。

私は常にすぐ側に居る事をつゆ忘れるでないぞ。

(ベールの彼方の生活)

 

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ベールの彼方の生活の記したオーエン氏の守護霊を名乗るザブディエルという霊からの自動書記による最後のメッセージです。守護すべき人間に対しての愛情溢れる文章ですが、物質世界に生きている人間にとっては一方的に守られる立場なので、守護神様(私はこの言葉を好みます)の仕事内容や責任について普通はあまり考えることがありません。

 

 

親と子、師匠と弟子の例えであれば私たちは子供あり弟子なわけですが、小さければ小さいほど子供というのはなかなか親の苦労や心がわからないものですし、生徒も教師の未来まで見据えた指導方針が分からないことは多々あると思います。

 

 

なぜこんなことをしなければならないのか?なんでこんな辛い思いをしなきゃいけないのか?というのは親と子、師匠と弟子の関係性においてはよくあることですが、子供や弟子が成長するに連れてそれが段々と自分のためであったことが分かってきます。

 

 

もちろん人間の場合は親や師匠が間違っている場合や愛情に欠ける場合もあるでしょうが、神界によって任命される守護神においてはそんな手落ちは無いはずです。

 

 

少なくともザブディエル霊の通信を読む限りは愛情深く、忍耐を持って、人間を良い方向に導こうという意図がありありと伝わります。

私の守護神様も同じく、私を本当の意味で成長させるために骨を折って下さり、私もそれを信じます。

 

 

それが辛いこと、苦しいことであっても、スポーツで上達したければ沢山の練習を積まなければいけないように、私の人生にもたくさんの試練があると思います。

 

 

私の場合は人生における様々な諸問題は人間性を成長させるための単なる課題に過ぎないと思っているのでどんなことが起こっても「今回の課題はこれか」と思うようになりました。もちろんその課題の意図するところは一体何なのか?どのような解決方法があるのか?自分のどんな欠点を補うためにこの課題が出されたのか?などわからないことが多々あります。

 

 

むしろ簡単にこなせるような課題であれば課題としての価値も意味もなく、難しからからこそそういった難問にぶつかるわけですが、それをひとつひとつ「心を強く持ち、辛抱強く、あどけない無邪気さと謙虚さと祈りの心を持って」首尾よく乗り越えていくことが私の人生への姿勢です。

 

 

幼稚園児には幼稚園児にふさわしい問題が、大学生には大学生にふさわしい問題が与えられますので、どの段階においてもその段階においては難問である(むしろ難問でないと意味がない)わけですが、いろいろ痛い目に遭いながら、戸惑いながら、悩みながら、少しずつ進んでいます。

 

 

一方的に守護される側の人間ですが、逆に守護神様側の立場からの言葉を考えてみると人間側も頑張らねばと思わされるようなものもたくさんあります。

 

 

 

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上層界においても地上界に近い境涯特有の事情を反映する問題が生じることがあるのである。また向上の意欲にかける地上の人間がむやみに他界した縁故者との交信を求めるためにその愛の絆が足枷となり、いつまでも地上的階層から向上出来ずにいる者も少なくないのである。

 

これとは逆に、同じく地上にありながら、旺盛な向上心を持って謙虚に、しかも聖なる憧れを抱いて守護霊と向上の道を歩み、いささかも足手まといにならないどころか、かけがえのない援助となる者もいる。

(ベールの彼方の生活)

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地上でのあなたの使命の達成のために主の命を受けて、あなたを守護し責任を取って来られた方です。

 

なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人一人が自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか。

 

たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを私たちもこちらへ来て知らされたのです。つまりあなたが地上でなさったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう。

 

私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の公正に反することです。

 

でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。私たちは他人の歓びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます。

(ベールの彼方の生活)

 

 

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肉体がこの世では大切であるから肉体を傷つけたら苦しめたらその守護神は、それだけのめぐり負うのだぞ。霊々と申して肉体苦しめてはならんぞ。

 

人民喜べば神嬉しきぞと申してあろが

(ひふみ神示)

 

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守護神と人間の関係性が一体どのようなものであるのか?霊訓関連を読む限りでは単純な指導はもちろんですが、中には守護神自身が地上経験を間接的に積むために人間の守護をするということもあるようです。

 

生徒が首尾良く一人前になれば師匠は喜び、子供が立派になれば親は喜ぶでしょうし、逆のことが起これば師匠や親にはそんな風に育てた責任があるという風に考えることも出来ます。

 

 

私はどちらかというと私のことは私の責任であるという考え方をしますが、進歩した霊は他人も自分であると感じるようになり、親もまた子供を自分の分身のように感じることあるので、他人はもう一人の自分であるからには、その失敗は自分の責任でもあるという風に考えるのかもしれません。

 

 

程度問題ではあるものの、自分の指導が至らないからということもあるのでしょうが、逆に首尾良く人間が守護神の感化を受けて進歩向上すれば、守護神様の助けになることすらあると述べています。

 

 

ひふみ神示にも臣民が喜べば神も喜び、臣民が苦しめば神も苦しむと述べられていますが、人間と守護神様は浅からぬ霊的な因縁があり、その責任を完全に分離して考えることは出来ないのかもしれません。

 

 

私の場合は世話される一方で心苦しいので、せめて少しくらいは守護神様のお役に立ちたいとも思います。

 

 

神示や霊訓関連では高級霊たちも悲しむことがあると述べていますが、子供が罪を犯したことを悲しむ親のような気持ちなのかもしれません。親の気持ちを本当に理解するには自分が親にならないとわからないわけですが、子供はそんなことは知らないので好き勝手に振る舞うことが多いです。

 

 

ザブディエル霊は

「いずれの日にか貴殿も今の私と同じように、自分の責任において保護し指導し監視し援助し、あるいは人生問題に対処し、正しい生き方を教唆すべき人間を託されることになることを知りおくがよい。」

と述べています。

 

 

つまり、私たちも死後それだけの能力があると神界から見做されたならば誰かの守護神になる可能性もあるわけです。

 

 

それが地球上であるかどうかはわかりませんが、そう考える守護神様は未来の私であり、守護されている私は未来の私が守護する人間ということになります。

 

 

私が守護神様の立場なら、自分の指導が上手く功を奏して人間が立派になってくれたら嬉しいです。これは地上でも親や師匠がそうであるのと同じはずです。霊界においてはきっとそれ以上の何かがあるのではないかと思いますが、守護神様の立場に思いを馳せるとしっかりしなければという気持ちになったりします。

 

 

わからないことがあれば聞けと思うでしょうし、必要以上に甘やかしたりはしません。まぁ死なない範疇であれば、ちょっとやそっとの苦労はむしろ本人のためになるのでさせた方が良いでしょうし、出来るだけ効率良くそこから学ぶべき教訓を得て欲しいとも思います。

 

 

守護神側を逆に助けるようなことは求めませんが、せめて一人の人間として霊的に覚醒し、地上において多いに人の役に立つ立派な能力と人格を持った人間にしてやりたいと思います。

 

 

そして今私がそう考えているように、私の守護神様もそのように考え、そしてそれ以上のことを私に対して考えているに違いありません。