金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。区別と順序さえ心得ておれば何様を拝んでもよいぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。金を拝み得ぬイコヂさが、そなたを貧しくしたのぢゃ。赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧は負け惜しみ。清豊になれよと申してあろうが。清豊こそ弥栄の道、神の道。

(ひふみ神示)

 

 

イエスはかように申しています。「誰しも二人の主に使えることができない。あなたは神と物神に仕えることが出来ないと。物神とは必ずしもお金や物のことではありません。世俗の心、これです。物神を崇拝する者は己の力量を信じます。自己を偉大な者と考えます。賢者は神のみが偉大であることを知っております。

(優雅な友。ホワイトイーグル)

 

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ひふみ神示で1番印象に残っているのは「清貧は負け惜しみ」という言葉です。もう何度読んだかわかりませんが、今でもこの言葉を読むと笑ってしまいます。

 

大抵西洋の霊訓ではホワイトイーグルのように神のみが偉大で金や世俗の心を捨てよ、金に囚われるな、神と物(金)の両方に仕えることは出来ない的なことを言っています。

 

 

 

物語の中ではよくお金持ちは悪人として描かれ、対して清い心を持った人は貧乏人として対照的に描かれることが多く、金持ち=悪いイメージで貧しくても清らかな心で生きている人は立派みたいな風潮があります。

 

 

そのくせ人間は金をみんな求めるわけですが、「清貧は負け惜しみ」というのは凄い言葉です。

神と物(金)の両方に仕えることは出来ないという西洋の霊訓に対してひふみ神示では全然違うことを言っています。

 

 

神と金と二つに仕へることは出来ん、そのどちらかに仕へねばならんと、今迄は説かしてゐたのであるが、それは段階の低い信仰であるぞ。影しか判らんから、時節が来て居らんから、さう説かしてゐたのであるが、この度、時節到来したので、マコトの道理 説いてきかすのぢゃ。神と金と共に仕へまつるとは、肉と霊と共に栄えて嬉し嬉しとなることぞ。嬉し嬉しとはそのことであるぞ。神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな。その次には霊の霊とも共に仕へまつれよ。まつれるのであるぞ。これが、まことの正しきミチであるぞ。今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。この道はアメツチの道ざと知らしてあらうがな。清くして富むのがまことぢゃ。地も富まねばならんのぢゃと申してあらうが。これから先は金もうけばかりも出来ん。今迄のやうな神信心ばかりも出来ん。神のミチを進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。理に外れて御座るぞ。人は罪の子でない、喜びの子ぞ。

(ひふみ神示)

 

 

 

西洋の霊訓にあるように神と金と二つに仕へること出来ないという信仰は段階の低い信仰であるとひふみ神示は述べており、神と金と二つとも得ること嬉しいであろうがな、肉と霊と共に栄て、神と金と二つともを得るのが真の正しきミチである、とも言っています。

 

 

たしかに霊的に進歩向上し、世のため人のために生きることと自分が貧乏であることは別問題です。世のため人のために清い心で生きているお金持ちがいても私はいいと思いますし、むしろ貧乏人より行動範囲は広く出来る事も多いのではないかと思います。

 

 

霊的に高い進歩を遂げている人=貧乏人で、霊的に未熟な人=金持ちというステレオタイプは明らかにおかしいと感じてしまい、現実問題としてもむしろ経済的に恵まれていない貧困層が住む町の方が治安が悪く、富裕層の済む町の方が治安が良い場合がありますし、個人レベルでも金持ちでも親切な人はいますし、貧乏人でも平気で犯罪を犯す人がいるのは言うまでもありません。

 

 

 

するべき苦労は人間性を磨くために、人間が好む好まざるにかかわらずしなければなりませんが、する必要もない苦労は別にしなくてもいいんじゃないかというのが私の考えで、「神の道を歩む=貧乏人確定」というのは明らかにおかしく、ひふみ神示の「清くして富むのがまことぢゃ」というのはとても共感できる言葉です。

 

 

 

霊的な書物に出てくる天国は大抵とても美しく豊かな場所であり、もしそれが地上にあったなら大金持ちの豪邸や美しい庭を思わせる描写がたくさんあります。

 

 

 

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なみ彼方あなたに、かすみうへいてゐる黄金わうごんかはらぎんはしら真珠しんじゆ瑪瑙めなう珊瑚さんご瑠璃るり琥珀こはく硨磲しやこなど七宝しつぽうちりばめたる金殿玉楼きんでんぎよくろう太陽たいやうひかりまたたきて、六合りくがふてらばかりの荘麗さうれいしめしてゐる。やうやくにしてふねひとつのしまいた。地上ちじやう一面いちめんかれたる金銀きんぎん真珠しんじゆ清庭すがにはがある。ひがしもん巨大きよだいなる真珠しんじゆもつかためられ、西にしには瑪瑙めなう神門しんもんみなみ瑠璃るり神門しんもんきたには硨磲しやこ神門しんもんもつかこまれ、東北とうほくには白金はくきんもん西南せいなんには白銀はくぎんもん西北せいほくには黄金わうごんもん東南とうなんには瑪瑙めなうもんつくられ、そのに、やつくぐもんおのおのめづらしき宝玉ほうぎよくちりばめられ、その壮観さうくわん美麗びれいなること筆舌ひつぜつつくところではない。

(霊界物語19巻)

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シルバーバーチやベールの彼方の生活でも天国の建物の豪奢さや素晴らしさや美しさがよく述べられていて、高級霊が薄汚いスラム街のようなところに住んでいるという話は全くなく、むしろ地上でいうところの大金持ちが暮らしているような美しい環境で暮らしているようです。

 

 

確かに位の高い神様や天使がみすぼらしいボロ小屋に住んでおり、暗黒面に堕ちた地獄のガリガリ亡者たちが麗しい宮殿に住んでいたらおかしいな?と思いますが、天と地は合わせ鏡であり、天にあるものは地にもある、言い方を変えると霊界にあるものは物質界にもあるわけで、「地も富まねばならんのぢゃ」というのは納得出来ます。

 

 

 

なぜ清い心を持ち神の道を歩む人は貧しくなければいけないのか?、金持ちであることはまるで悪であるかのような風に描かれるのか?、なぜ神と金と両方を得ることは出来ないのか?理由はいろいろありますが西洋の霊訓やキリスト教などが述べているいわゆる清貧はどうも私には違うように思えます。

 

 

 

「今迄の信仰は何処かにさびしき、もの足りなさかあったであらうが。片親がなかったからぞ。天に仕へるか、地に仕へるかであったからぞ。」というのはまさにその通りで順番と区別さえ間違えなければ神と金を両方得てもいいんじゃないか、現実問題として高級霊たちはみんな(地上でいうお金ではありませんが)美しい暮らしを手に入れているわけで、地上で言うところの神と金を両方得ているように思えます。

 

 

シルバーバーチやホワイトイーグルが薄汚いみすぼらしいボロ小屋に住んで、清貧を気取っているというなら話は別ですが、全然そんなことはなく、むしろ自分たちのいる高い境涯の美しさや豪奢さを述べ、逆に自分の家すら持てないホームレス霊が蔓延る低い境涯や地獄、または地上を陰鬱で嫌だと言うことすらあるほどです。

 

 

天も富み、地も富む。霊も物質も両方豊かになる。これが一番良いと思います。少なくとも私の感覚ではそのように感じます。

 

 

よく物語に出てくるような貧しいながらも清く美しい心を持ったシスターが、自分の持っている僅かな物を貧しい町の人に奉仕の心で分け与えたりする様な(感動の)場面がありますが、そのシスターが大金持ちであれば、人を助けるのにもっとたくさんのことを短時間且つ大規模で出来るはずです。なぜそれがいけないのか?

超絶大金持ちであれば地上の貧困問題を一掃することだって出来るはずです。

 

 

その方が絶対に良いと思うのですが、西洋の霊訓は神と金と両方に仕えることは出来ないと述べています。

 

 

私は神示にあるように順番と区別さえちゃんとしていれば「神」と「金」と両方を拝んでも良いと思います。

 

 

霊と体と5:5であるべきです。但し霊が上で体が下です。

陽と陰と5:5であるべきです。但し陽が上で陰が下です。

男と女も5:5であるべきです。但し男が上で女が下です。

神と金も両方拝んでも良いですが、もちろん神が上で金が下です。

 

 

誰だって神を得て、さらに豊かな暮らしが出来たら嬉しいはずです。

 

 

清貧は美しく、「富んでいる者が神の国にはいるよりはらくだ(ヘブライ語で太いロープのこと)が針の穴を通る方がもっとやさしい」とイエスが言いますが、金持ちだからこそ出来ることが地上物質界にはあり、富を善用し、世のため人のために尽す人は貧乏人よりもより多くの活動が出来るはずです。

 

 

神ばかり良くて人が苦しむのは間違っているし、逆も同じです。人間には清貧と言いつつ貧しさを与えながら、天使や神様たちは豪華な暮らしというのはちょっとどうなの?とも思います。

 

 

普通に考えれば清貧と呼ばれる人も豊かになったら嬉しいでしょうし、富を得ても利己に走らず誘惑にも負けず、富の善用をするならさらに素晴らしいと思います。貧乏人には出来ず、富を持つものしか出来ない人助けの方法は実際に存在し、それは神の喜ぶ仕事でもあるはずです。

 

 

普通に考えれば現代では生きていくのにお金が必要なのは当然であって、スピリチュアル的なことを学ぶためにひふみ神示やシルバーバーチなどの本を買うにもお金が掛かりますし、パソコンやスマホで見るにしてもパソコンやスマホの本体だけでなく、通信インフラも無料ではありません。

 

 

神棚で神を祀ったり、有名な神社を参拝するのにも何かとお金が掛かりますし、他人のために何かをしようとする時にもまとまったお金が必要なことはあるはずです。

 

 

こういうことは人間側よりもむしろ霊の側がよくわかっていると感じることがあり、適度に適切な分のお金は現代では絶対に必要であって、むしろお金を毛嫌いせずに必要で大切なものとして扱うべきです。金が好きなら金を拝んでも良いと述べられていますし、順番と区別さえしっかりしていれば、金に限らず、俗的なことが好きでも別に良いはずです。

 

 

俗的なことは霊的な段階が進歩するにつれて段々と消えていく傾向があり、無理矢理押さえつけるよりも気の済むようにしてやるのが一番良いのかもしれません。

 

神と金と両方に仕えることは出来るはず、というか現代社会で生きている人は全員そうであるはずです。

 

この辺りはシルバーバーチやホワイトイーグルたち西洋に現れた高級霊とは相容れない考えかもしれませんが、感覚的には「清くして富むのがまこと」と言う日本の神様の方に共感出来ます。少なくとも私はどちらか片方だけでなく、両方とも、もっと言うなら一部だけでなく、何もかもが幸福に良くなっていくことが正しいことのように思えます。

 

 

 

まぁ実際のところは金が第1という人はどちらかというと地獄寄りに籍を置いていますし、地上生活は言ってみればうたかたの夢みたいなものなので、地上生活で巨万の富を得ることにあまり意味はありません。単なる試練というべきでしょう。

 

 

貧しさは人間にとってある種の精神修養であり、人は苦難を通して成長していくものですので、金持ちの安楽な生活よりも貧しい中での苦労した生活の方が人間的成長の観点から得るものは多いはずです。

 

 

僅か数十年の地上生活でひたすら地獄行きの準備をすることほど馬鹿らしいことはなく、地上におけるお金などゲームの中のコインとあまり変わりありません。(しかしゲームの中のコインはゲームでより良い結果を出すための道具として必要なわけですから軽視してもいけません。)

 

 

そもそも現在の地球という風に条件を限定して良いのであれば、自分だけが金持ちになるよりももっと困っている貧しい人たちのために出来ることがあるはずです。

 

 

地上世界を少しでも良くすること、自分の身と楽を捨ててでも他者に親切に優しくすること、物質的なことよりも霊的なことを上位に置くこと、高い境涯の神(霊)となるべく繋がりを持つこと、そのように生きていけば良いのであって、生活に必要なお金は神様側から与えられるはずです。

 

 

神の道を歩む者(今風に言うならスピリチュアルに生きる人)は絶対に何が何でも無条件に貧乏で苦労しなければならない、お金を持ってはいけないという固定観念があると、その状態を自ら作り出してしまうから、それが良くないとひふみ神示は言っているように思えます。

 

 

最近は引き寄せの法則とかスピリチュアルなんとかで現世利益が得たいと言ってそういうセミナーなどに参加する方もいますが、何と言ってもこの世は金が一番という考えはどちらかというと邪神・邪霊系に近いので注意が必要です。

 

 

金ではなく神が一番であり、金は地上生活でしか使えない概念です。利己と保身のみに生きることは地獄へ通じる道であり、他者への愛は天国への道です。

 

 

しかし、現世利益が第一でも、それはそれで悪いことではありません。それはその人の霊的な進歩段階がそういう段階にあるということであって、小さい子供がその子なりの玩具を欲しがるのと同じで大人になると子供の頃に欲しかった玩具に段々と興味がなくなってくる時がきっときます。

 

 

地球で言うならなんとか戦隊なんとかマン(戦隊もの)とか着せ替え人形とか、メンコでもベーゴマでもミニ四駆でもおままごとセットでもゲームでも何でも良いですが、人間性が成熟してくるとだんだんと下らない低級な物に思えてきます。

 

 

そういうものに夢中なら、気の済むまでやらしてやったら良いと思います。現世利益大好きなら現世利益を気の済むまで徹底的に追求させてあげるべきです。そのうち飽きてくるか、下らないことのように思えてくるか、そういうことが人間を本当の意味で成長させるものではないことがわかってくるはずです。

そうして回り道した経験がいつか役に立つことがあるかもしれません。

 

 

現世利益は人間が地上で生きていく上で欠かすべからずものであり、何をどう考えてもある程度までは必要です。

 

 

スピリチュアルブームで現世利益(特にお金や名声などを得ること)を説いてセミナーなどをする人・参加する人がいらっしゃいますが、そういう人たちも救ってやらねばならないですし、そういう人たちを後ろで操っている地球内・外の霊たちもまた救ってやらねばなりません。

 

 

ミニ四駆が好きという精神的に未熟な子供だからと言ってその子供を切り捨てることは出来ないように、金や物で自己の欲望を満たすことを第一とする人たちを未熟だからという理由で見捨てることは出来ません。

 

 

何十年か、何百年か、何千年か、何万年か、さらには何億年も掛かるかもしれませんが、そのうち自分だけの欲望を満たすことに飽きてくるはずです。報いを受けるうちに学びを得ることもあるでしょう。

 

 

しかし困っている人を助けたり、苦しんでいる人のために何かをしたいという他者への愛や奉仕は飽きてくることはありません。地球においてはこの点においてやれることが山ほどあります。

 

 

現世利益は重要ですし、それを通して人間的に成長することもありえます。しかしこれを第一に説く霊や人はどっちかというと地獄的であり、自分の身と楽を犠牲にしてでも他人への愛や奉仕を説き、そして実践する人は天国的に思えます。

 

 

地獄と言いましたが、波動が低いという意味であって、実際は地獄はないので未熟という風に言った方が良いかもしれません。

 

 

金も物も各自の身分相応に、そして仕事の必要に応じてあればそれで良いわけで、完全に無視してホームレスになるのも良くないですし、金金金と金ばかりでも良くないので、中庸というか、バランスというか、上手いことやるのが大切なのだと思います。

 

 

主神はどんなに未熟なものだろうと決して見捨てないはずですから、人間は「神の道を歩むなら絶対に貧乏じゃなきゃいけない」とか「断捨離してホームレスになるぞ」とか「お金は汚いもの」とか「金持ちは全員悪人で神の道から外れている、貧乏人こそが神から選ばれた人物」なんていう固定観念を持たずに、各自の分に応じてやっていけばそれで良いのだと思います。

 

 

 

真に他者への愛と奉仕の心を持って神の道を歩むなら、長い目で見れば絶対に富んでくるはずです。それはすぐに現れるかもしれないし、何十年も後かもしれないし、ひょっとしたら死後や再生時の人生かもしれませんが、他者への愛や奉仕が神によって見過ごされることはありません。

 

 

金は現代における豊かさの目盛りの1つですが、かつて地球で自己の身と楽を捨てて他者に奉仕した人たちが今霊的に高い境涯にいて豊かさを享受しているように、そういうに風にならないなら深く省みよ、ということだと思います。