前回の続きです。

 

私の知る限りというごく僅かな例ですが、基本的に人間の守護神は過去に地上生活を送ったことのある人霊が多く(血縁者とは限らない)、自然霊(龍神など)が守護霊になっているケースは人霊に比べるとずっと少なく、比率的には僅かと言っても良いほどです。

 

 

一口に龍神と言ってもその格は様々で、むしろ私としては「龍」と「龍神」を厳格に区別して呼ぶべきと考えていますが、現代はまだまだ自然霊に関する研究・知識はほとんどゼロに等しいので便宜上まとめて龍神と呼んでいます。

 

 

神と呼んで相応しいものから、どちらかというと畜生の類いのものまで様々です。龍神が自分のことを語る文献は相当少ないですが、「妙山」と名乗る龍神が霊媒に懸かって人間と会話する面白い記録があります。

 

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妙山『私は籍が龍宮にあるので、毎夜一時から二時の間は、方へ出向くので代人(中西夫人)を離れます。』

『失礼ですが、あなたは今どういうお姿で居られますか?』

妙山『私は今人の姿をして居ます。龍体はとうに棄てました。といつてこれも勝手には出来ないのです。実は私はあと一年も修業すれば今迄の世界を離れて、一段と上の世界、ち神ながらの道に入れるのですからね……そうすれば、今見えない処も立派に見える様になれます。』

『人の姿といわれると、お召物等は?』

妙山『白い着物です。白といっても、未だ下の方には少し色がついています。これが真白になった時は神の道に入れるのです。』

『おはどんなにして居られますか?』

妙山『結ぶ事は許されないので、下にさげています。』

『お年配は幾歳位にお見えになりますか?』

 私があんまり無遠慮な質問をするので流石の龍神さんも僻易されたか、

妙山『それは浅野先生の奥さんに見ていただいた方がよいでしょう、オホホホホホ。』と笑ってしまわれた。

 

妙山龍神は籍が竜宮にあると述べていますが、龍神にも所属があるようで好き勝手に動いているわけではなく(少なくとも妙山龍神は)組織化されて動いているようです。

 

 

またこれは昭和6年の話ですが、服装を尋ねられて「白い着物です。白といっても、未だ下の方には少し色がついています。これが真白になった時は神の道に入れるのです。」と答えているように、この時点ではまだ神界に籍はなく、おそらく地上圏の幽界(半霊半物質の天国でも地獄でもないその中間の境涯)に属する龍だったのかもしれません。これは相当昔の話ですから、今は神界に籍を置いておられるに違いありません。

 

 

また竜宮の戒律?があるらしく髪を結ぶことは許されていないから総髪(そのまま下げている)と述べています。龍といえば厳しい修行を連想しますが、ほかにも色々戒律があるのではないかと推測されます。

 

 

妙齢の女性に年齢を聞くのは人間界ではあまり好まれる行為ではありませんが、年齢を聞かれて誤魔化す当りはなんとも人間味を感じてしまいます。龍がそういうことを気にするというのはまるで人間のような感性でちょっと意外だったりもします。

 

 

妙山『解わからんで困る事もありますよ。同じ番地に何軒と家のある場合等は殊に探しにくい。いつだったか、下駄屋というので、その商売を目標にしたため、他の下駄屋の人を訪うて来て大間違をやりましたよ、なあ岡田さん……。』彼女はアハハハハと笑って居られた。

 

(中略)

 

妙山『この代人の家に居らぬ時は多度山に居る事もありますし、何にしても用事が多くて忙しい。あちこちと飛び廻って居ります。霊代を出してある人の処は見舞わねばならず……。』

 

(中略)

 

妙山『霊の中には性が合わんものもあるので、そういう人は私にはどうも出来ません。長崎さんを御守護の龍神さんと私は気がよく合うので、あんまり二人して働き過ぎて失敗する位です。』

 

 

妙山龍神は人間のために働いて下さる立派な龍神様でとても多忙だと述べています。この辺りは西洋の霊訓でも似た寄ったりで、高い境涯に属し、奉仕の心を持っている霊ほど安閑とせずによく働くために忙しいという話はよく聞きます。たしかインペレーターの霊訓だっとと思いますが(違うかも)、忙し過ぎて約束の時間に遅れてきて詫びを入れるなんてこともあったりします。

 

 

 

多度山

 

 

多度大社

 

 

妙山龍神は竜宮に籍がありつつも、多度山にいることも多いと述べていますが、日本の霊的な書物を読むと、人間の守護神であるかどうかに関係なく、龍でも狐でも狸でも天狗でも大蛇でも大抵は山や川や滝など何処かに属して「〇〇の□□を守護する△△~」のような物言いが多いです。

 

 

もちろん物質ではなく「幽界の」という意味でしょうが、幽界の山や川や滝と対応する物質としての山や川や滝も対応しているという意味では実質同じ物として人間は扱うべきであり、人跡稀な山奥や古来から禁足地とされたきた山には自然霊がいくらか存在するのを見たことがあります。

 

人助けでその人が下駄屋というから下駄屋目当てで探したら別の下駄屋だったという失敗談なども述べていますが、「霊代を出してある人の処は見舞わねばならず……」と述べているあたりは個人宅の神棚の神札を祀るのも、それを目当てに見回りに来て下さるようです。

 

 

 

多分善神が祀られる神社ではたくさんの眷属さんがその神社の神札を神棚で祀っている家々にはある程度の見回りや心配りをして下さっているのではないかと思いますが、妙山龍神の言葉である程度それが裏付けられます。

 

 

また妙山龍神にも得意分野というか職分があり、色々なことが出来るようですが、中でも病気治療が得意なようです。

 

 

尚生死以外にも産土の神様のお世話に預かることは数限りも御座いませぬが、ただ産土の神様は言わば万事の切盛をなさる総受附のようなもので、実際の仕事には皆それぞれ専門の神様が控えて居られます。つまり病気には病気直しの神様、武芸には武芸専門ぶの神様、その外世界中のありとあらゆる仕事は、それぞれ皆受持の神様があるのでございます。

(小桜姫物語)

 

小桜姫物語にもありますが、私の知る限りでは人間の祈願や世話はまず産土様がお引き受け下さり、その後にそれぞれの職分の神様に伝達されるそうです。

ただ人間と霊との縁や協力関係が築かれてくると段々と直接の交渉もあるようです。

 

 

この辺りはただ神様と念じるのではなく、その分野の神様をはっきりと念じなければならないということを意味しています。

例えば虫歯になれば歯医者を、ピアノを習いたければピアノの先生を探しますが、八つ当たり式に誰でもいいから虫歯を治してくれ、ピアノを教えてくれというのがおかしいように、神様にも職分があり、またその神格や環境や協力関係などの様々な条件に左右されるのはほとんど人間の世界と同じです。


 

妙山龍神はかなり気さくな方なようですが、私の知りうる限りの龍神はもっと厳格というか世間話的なことは一切せず、寡黙な感じで必要なことだけを淡々と伝える感じです。もちろん冷たいということはなく、逆に愛情深いと感じていますが、この辺りは人間にも色々な人がいるように龍神様も同じなのかもしれません。

 

次回に続きます。