出口王仁三郎の言葉に「惟神中毒」や「依頼心」という言葉があります。
霊界物語に面白い部分があったので抜粋してみます。
宗彦『これはこれは何神様かは知りませぬが、よくマア現はれて下さいました。私は是れより山頂の岩窟に割拠する鬼婆を言向け和す為に参ります。どうぞ御守護を御願ひ致します』
笑童子『アハヽヽヽ、七尺の男子が……而も宣伝使の肩書を持ち、岩窟の鬼婆を退治せむと、此処まで勇み進んで登り来乍ら、人の助けを借らうとするのか。ハツハツハ可笑しい可笑しい、依頼心の強い男だなア』
宗彦『誠に汗顔の至りで御座います。さう仰しやれば……さうですが、何事も神様にお任せ致して進むので御座います』
怒つた顔の童子、面ふくらし目を剥き、
童子『惟神、惟神と口癖の様に言ひやがつて、難を避け易きに就き、自分の責任を神様に転嫁し、惟神中毒病を起し、大きな面をして天下を股にかけ、濁つた言霊の宣伝歌を謡ひ、折角の結構な世の中を濁す奴は貴様の様な代物だ。チツとも足元に目が付かず、尻が結べぬ馬鹿者だ。それでも誠の道の宣伝使かい。貴様の様な穀潰しが沢山に世の中に、ウヨウヨと発生やがるものだから、世界の人民が苦むのだ、エーエー腹立たしい。神を笠に着たり、杖に突いたり、尻敷にしたり、汚らはしい、盗んで来た熊の皮を俺達の背中に乗せよつて、ケツケツけがらはしいワイ。尻敷にしてやつてもまだ虫が承知せないのだ。コラ斯う小さい子供の様に見えても、至大無外、至小無内、千変万化の結構な神様のお使ひだぞ。貴様の量見次第で、閻魔ともなれば、鬼ともなり、大蛇ともなつて喰て了うてやらうか。イヤ背筋を立ち割り鉛の熱湯を流し込んで、制敗をしてやらうか。三国ケ岳に大蛇が居るの、鬼婆が居るのと吐して、言向け和すの、征服するのとは何の事だい。鬼婆も大蛇も、鬼も悪魔も、貴様の胸に割拠して居るのを知らぬのか。鬼婆を言向け和さうと思へば、貴様達の腹の中の鬼婆から先へ改心さして出て行きやがれ。大馬鹿者奴。ウーン』
ほかにも様々な箇所で出口王仁三郎は惟神中毒と言って、自分が願ったことを惟神と言いつつ、十分な努力をしないで神様にやってもらおうとしたり、神への依頼心の強い人間や神を頼みに難を避け易きに付こうとする人間を戒めています。
宗彦(後の国依別)が神様にご守護願いますと言うと、「ハツハツハ可笑しい可笑しい、依頼心の強い男だなア」と戒められてしまいますが、
このように人間はよく人生上の諸問題に臨んだ時に神頼みをすることがあります。
人間が自分で出来ることまで神様にお願いするのは神様を杖に使うことであり、神様に責任を着せることでもあるので、自分が楽するために小間使いのように神様を使うのは論外ですが、何処までが人間に出来ることなのか?という線引きは相当難しいと言えます。
神へ縋る心、つまり依頼心を持つことを戒めているわけですが、もちろん人間の力ではどうしようもないことはたくさんあり、そんな時は神様を頼るのは致し方ないわけですが、例えば仕事の諸問題、家庭の不和、地域や国レベルの実に様々な問題に対して、果たして人間は何処から神様を頼っていいのか?がよくわかりません。
仕事が上手く行きますようにと神様にお願いする場合、人間が全力で働くことは当然としても、全力で働いてそれでも駄目なら神を頼れということになりますが、何処からが人間の限界かが難しいところです。
究極的には人間は死ぬまで頑張れますし、自分では限界まで頑張っているつもりでも死や破滅というラインで考えるならば、本当の限界はもっと先にあるはずです。
一見破滅に見えても、命さえあればなんとかなったりしますし、病気で寝たきりになったとしてもひょっとしたら快復するかもしれません。
自分で出来ることを神様に頼るのは失礼に当り、それを出口王仁三郎は戒めているわけですが、限界というのを人間の力で見極めるのは極めて難しいのが実情です。
出口王仁三郎の言葉は当時の大本教徒に対して述べられた言葉ではありますが、これは神を意識するすべての人間にも当て嵌まると思います。
神様に頼ることを「依頼心の強いヤツ」と戒められてしまうなら、少なくとも人間はちょっとやそっとでは神様にお願い出来ないことになってしまいますので、実に難しい問題です。
神様には神様の計画・考え・目的があり、神様側が自発的になさることに関しては人間側が依頼しているわけではないので責められる謂われはないわけですが、出口王仁三郎の言葉を聞く限りは人間はちょっとやそっとでは神を頼ってはいけないという印象を受けます。
そのくせ出口王仁三郎は「神を力に」真を杖になんて言ってるわけですが、彼なりの線引きも正直よくわからなかったりします。
少なくとも人間に出来ることのラインを極限に据えるなら、自分の最低限の生存も含めて神様にお願いをするのは依存心ですし、他者のためと言っても他者が助かることが自分の精神的・物質的利益に繋がるならやはり同じことになりますので、原則人間は神様に祈願をこらすことは出来なくなります。
仕事が上手く行かないとか、人間関係に不和があるとか、人類に大難があるとかと言っても、死んだ後にはまた必要に応じて再生があるわけですから、死とか破滅は極限のラインにはならないわけで、これはほとんど人間から神様へお願いすることは良くないことだと言っているに等しく感じます。
仮に現行の地球が滅んで生命の一切が消えたとしてもまた作り直せば良い話なので、そう考えると限界などないように思えるわけです。
もちろん神様が地上世界を運営しているわけですから感謝はしなければいけませんし、また神様側からのご命令があれば従わなければいけませんが、人間側から神様を頼ってお願いはすることを「依頼心の強いヤツ」と言ってしまう出口王仁三郎の言葉は色々と考えさせられるものがあります。
神様の計画、目的、意図に沿って世界は動いているので、人間はあれこれ言わない方が良いのかもしれません。
また自分のお願いを一切神にしないことは我を捨てることでもあります。
信心深い人ほど神を頼る気持ちは強いはずですが、神を頼ることは「依頼心の強いヤツ」なわけですから難しい部分です。
となれば、指導を神霊に乞うわけにもいかず独りで精神統一するしかありません。但し守護神様や指導霊様側が自発的に計画・意図を持って人間側に接触する場合は、こちらからお願いしているわけではありませんので別になります。
惟神とは文字通り神様の心のままに、という意味であって「私の願いを叶えて下さい」という意味ではありません。
出口王仁三郎のように神様から直接命令を受けているならともかく、自発的な意志に基づいて何かをするなら、二言目には神様ご守護願いますとか、神様〇〇お願いしますのように、助けて、守って、これやって、というのは普通に考えればおかしいですし、一般常識で言えば人間は可能な限り自分の力で頑張るべきです。
そしてその結果、自分の思い通りに行っても行かなくても、神様はそれを見そなわし、それが人間にとって有益であれば守護して下さるでしょうし、そうでなければ人間視点から見た場合には不利益を被ることもあるでしょう。
しかしそれは神様から見れば人間にとって本当に良い意味で成長を促す試練であり、神様はきっと人間にとって一番良いようにして下さると信じることです。
ギャンブルで勝ちたいとか、仕事が上手くいくようにとか、異性と結ばれたい・縁を切りたいとか、みなそれぞれ多種多様な願いがあるでしょうが、自分で十全の努力をしつつ、結果がどうであれあとは神様にお任せするというのが惟神なのだと思います。
神様には神様の計画があり、その計画のまま進めるのが一番良いはずなのですが、人間の願いによって計画を曲げたり遅らせたりして下さることが度々なはずです。
人間は人間として自分の力を磨きつつ、努力を怠らず、依存心を捨てて、何が起ころうともそれがきっと今の自分にとって一番必要なことであり、最善のことだと信じてすべての物事を処理していくべきです。惟神とは人間の願いを叶えることでもなく、楽をさせてもらうことでもないはずです。
しかし全知全能の神を前にして、力も心もか弱い人間にとって、依頼心を持たないことは難しいです。これも私の弱さであり、未熟さなわけですが、神を頼れないというのは神の道を進むに際してとても心細く感じます。
とは言え、毎日進んでいくしかないわけで生きようが死のうが、泣こうが笑おうが、すべては神の御心のままにということになります。
もちろん神と人は親と子ですから、子供が多少のわがままを言うくらいは親神は許して下さるはずですし、本当に困ったと自分が判断したときはお願いしても良いはずです。そのラインを何処に見定めるのか?という問題です。
お金が欲しいとお願いしておきながら、人間として仕事をするわけでもなくただ寝ているだけなのはいわゆる悪任せであり、そういうのを戒めているのかもしれません。
あくまで物語の中の一節であり、どうとでも受け取れるのが霊界物語の難しい部分です。
貧困に喘ぐ人がお金が欲しいと神に願うことや病気に苦しむ人が健康になりたいと願うこと自体は悪いこととは思えませんし、仕事が上手くいくように祈願するのも私には当たり前のように思えます。自分の環境・状況を良くするために常識のレベルで人間は努力するべきだと思いますが、神に頼るのも私は決して悪いことだとは思えません。
人間の力には限界があるわけですから、神様に頼るしかないことも多々あります。
そもそも出口王仁三郎が霊界物語で述べているだけであって、あまり真に受けずに人それぞれ自分が正しいと思うように生きていくべきですので、依存心の強いヤツと言われても別に気にする必要は無く、思うがままにやればいいような気もしています。