神示や霊訓関連を読んでいると、自分のしたことの責任をすべて自分が負うという記述と、他人の責任を負ったり、他人に自分の責任を負わせたりという記述が見られて、神から見てこのことの真相がどうなっているのかわからないままでいます。


責任は個々において背負うというのが摂理です。摂理の下においては、あなたは他人の行為に責任を負うことはありません

あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあって初めて正直であり、道徳的であり、論理的であり、公正であると言えます。それ以外の説は全て卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。摂理は完璧なのです。
(シルバーバーチ)

この文章は人間として納得の出来る内容として、自分のしたことの責任について自分が責任を負うという考えです。自分がしたことの責任を他人のせいにするのはどう考えても公正とは言えず卑怯であると感じます。


また他人が自分やほかの誰かに責任を被せたりするのもやはり同じです。


しかし、ひふみ神示やシルバーバーチのほかの部分では以下のように述べている部分もあります。
 

 

その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。
春の巻 第二十四帖



-広い意味において人間は他の全ての人に対して責任があるのではないでしょうか。世の中を住み良くしようとするのはみんなの責任だからです。

 「仰る通りです。その意味においてはみんなに責任があります。同胞としてお互いがお互いの番人(創世記4・9)であると言えます。なぜなら人類全体は〝霊の糸〟によって繋がっており、それが一つに結び付けているからです。


シルバーバーチの方は地球全体に対して一人ひとりが責任があると述べていますが、この文章だけだと他人の責任を自分が負ったり、自分の責任を他人に負わせてしまったりするのかどうかがよく分からないままです。

 

ひふみ神示では明らかに一家の誰かがやったことは一家の誰かに、人類の誰かがやったことは人類の誰かに、その報いが来ると述べ、善人が苦しむ理由であり、神の恵み・試練であるとも言っています。

 

つまり私たちが何か苦しみや悲しみを受けるとき、それは必ずしも自分自身の責任ではなく、他人の責任を負わされていたりすることがあり、

逆に誰か他人が苦しんでいるときは、自分の責任を被せてしまっている場合があるということになります。

 

 

---自分の人生の責任が自分の守護神に負わされるという話の流れで---


「なぜその方が私の責任を取らなくてはならないのでしょう。一人一人が自分の人生と仕事に責任を取るべきです。そうじゃないでしょうか」


「たしかにおっしゃる通りです。ですが残念ながらそれだけでは済まされない事情があることを、私たちもこちらへ来て知らされたのです。つまりあなたが地上でなさったこと、あるいは為すべきでありながら為さずに終わったことのすべてが、単にあなた一人の問題として片づけられないものがあるのです。守護の任に当たられたその方も、あなたの幸せのために何かと心を配られましたが、思い通りになったのは一部だけで、全部ではありませんでした。こうして地上生活を終えられた今、その方はその地上生活を総ざらいして、ご自分の責任を取らねばなりません。喜びと同時に悲しみも味わわれることでしょう」


「私には合点がいきません。他人の失敗の責任を取るというのは、私の校正の概念に反することです」


「でも、あなたは地上でそれを信者に説かれたのではなかったでしょうか。カルバリの丘でのキリストの受難をあなたはそう理解され、そう信者に説かれました。すべてが真実ではなかったにしても、確かに真実を含んでおりました。私たちは他人の歓びを我がことのように喜ぶように、他人の悲しみも我がことのように悲しむものではないでしょうか。守護の方も今そういうお立場にあります。あなたのことで喜び、あなたのことで悲しんでおられます」

 

 

ベールの彼方の生活では、自分の人生の責任を自分の守護神が負わされると聞いて反論する部分がありますが、この通りであればシルバーバーチの言う「あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありません」という言葉と矛盾するように思えます。

 

 

シルバーバーチの表現はあくまで自分の責任を他人に負わせるのは卑怯だから、自分の人生の責任は自分で持ちましょうという心の姿勢を責任逃れをしようとする人間たちに述べているのであって、霊界側から見ると必ずしも自分の責任は自分だけのものではなく、他人に負わせてしまうことがあるのではないか?と思えます。

 

 

つまりシルバーバーチ風に言うなら私自身の責任を他人に負わせる手段が確立されているということですが、自分の責任から逃れたいという卑怯な心からではなく、霊的な真理として本人の知る知らない関係なくそういった摂理が働くのかもしれません。

 

地上では他人の責任を自分が負ったり、またその逆も非常に多くありますが、霊界でも地上で部下や子供がした失敗の責任を上司や親が取るのと似たようなことがあるように思えます。

 

 

ほかにもシルバーバーチはインディビジュアリティー(大我)とパーソナリティー(個人)の話で、類魂の誰かが得た経験や知識をほかの類魂が受けることがあるという話の流れで、

 

 

みんなグループソウル(類魂)に属しているとなると、仲間の良い体験の恩恵を被ると同時に、よくない体験の悪影響も忍ばねばならないのでしょうか。

その通りです。それが全体に寄与するものと思えば、それもありがたい体験です。

と言う事は、私が今苦しい思いをするのは必ずしも私自身のせいでは無いわけですね?

そう認識なさることで安らぎを感じになるのであれば、そうお考えになられて結構です。
 

 

シルバーバーチの霊訓にたまに出てくる回答丸投げですが、これを責任?と述べて良いのかどうかは難しいですが、自分が属している類魂の誰かの恩恵を自分の努力なしで得られたり、逆に自分がししまったことで類魂の誰かに迷惑をかけてしまうということがあると述べていて、このやりとりはひふみ神示と同じことを言っています。



つまり「個」の単位がインディビジュアリティー(大我や類魂)であり、パーソナリティー(個人)ではないということですが、これを読むと、自分の責任を大我や類魂の誰かに負わせてしまったり、その逆もあり得るのではないかと思います。

 

大きな意味で地球人類全員は類魂のなのかもしれませんし、家族関係も類魂ではなかったとしても霊的な家族関係があったり、ほかに何らかの霊的な繋がりがあればこそ地上で家族として生まれてくるわけですから、 ひふみ神示の「人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。」という言葉も納得ができます。


間違っているかもしれませんが、「個」の単位を人間の言う一人の人格、シルバーバーチの言うパーソナリティーで考えるのではなく、類魂あるいはそれに類似する霊的な何かの団体関係単位が「個」の単位になり得る場合も霊界ではあるのかもしれません。


つまり私たちが苦しんだり悲しんだりする原因は、私たち人間の言う一人の人格という単位の外(類魂の誰か)にある場合もあることになります。


逆に私たちに嬉しい事や楽しいことがあった場合は、(類魂の)別の誰かのおかげであるということもあり得るわけです。

 

そう考えるとシルバーバーチの言う他人に責任を負わせる手段は無いというのはやはり心構えの話であって、霊的な真理ではない、あくまで方便としてそう述べているようにも思えてきます。

 

もちろん霊界において、あるいは神の眼から見てどのように映るのかは私には分かりません。ただそういうこともあり得るのではないか?と言う風に考えておいた方がよさそうです。

 

そうなると個人(パーソナリティー)の日常生活の行為が、私たちの言う他人(インディビジュアリティー、類魂、大我の別の誰か)に負わせてしまうことになり、また負わされてしまうことになるということになり、自分でしたことの責任は自分で取りつつ、他人にも負わせてしまうということになります。

 

 

そう考えると、類魂の誰かに迷惑掛けないようにプレッシャーを感じたり、逆に自分がしたことではないのに他人に迷惑を掛けられることに不満を持つ人が現れるかもしれません。

 

 

しかし、これは地上で家族関係や国家、組織、学校、家族、親族などのあらゆる団体に属している人にとっては当たり前のことであり、愛情が発達した人ほど他人を自分のように思うようになるので、逆にそれがその人にとって試練になる場合もあると思います。

 

 

例えば下(部下、子供)の責任を上(上司、親)が取るというような考えであれば、その究極の責任は全知全能にあるわけで、下々の者たちが問題を起こした場合に中間管理職的な神たちに責任を取らせて全知全能は何もしないということがあるのかという疑問も起きます。

 

平社員が行ったミスの責任を、その平社員をしっかり指導・管理出来なかったとして中間管理職が取るなら、その中間管理職をしっかり指導・管理出来なかったとしてもっと上の、つまり社長・会長的な立場の人間取るべきです。

 

もっと言うなら、その社長・会長的な立場の人間をちゃんと指導・管理出来なかった神々様にも同じ事が言えますし、さらに言うなら究極的には万物の創造者・支配者である全知全能に辿り着きます。

 

そもそもミスを犯すような不完全な存在に設計したのは全知全能ではないか?とも思えます。やろうと思えば、人間や神々を完全な存在に出来たはずなのに、それをせずにミスを犯すような低次の存在作ったわけですから、ミスする可能性を最初から作り、放置した責任が全知全能にもあるように思えます。

 

 

あくまで人類や一家という括りの問題であり、上には普及しないのかもしれませんが、霊的な真理・摂理と言ってもシルバーバーチなどの霊訓関連やひふみ神示などですべてが示されているわけではなく、あくまでホンのちょっとだけ開示されているに過ぎません。

 

ある人にとっては素晴らしい啓示に見えても、別の人にとっては過ぎ去った段階であるということがあるわけで、ほかにも幾つかありますし、これからも疑問が起きると思いますが、こういった疑問を完全に霊訓や神示などの書物だけで解決出来るわけではありません。

 

 

現時点ではこういったことの真相を知りたければ守護神に直接聞くしかなさそうです。

 

 

ともあれ全知全能は完全で完璧であるはずですから、私がちゃんと理解していないだけですべてが上手く定められ、回っているはずです。

 

類魂というものを私はあまり深く理解していないのですが、多分霊的な親族関係というものがあり、より高次の存在がより低次の存在に責任を持つという範疇も完璧に定まっていると信じるしかありません。

 

 

シルバーバーチもある一定のレベルを越えたら「わからなくても信じるしかない」という領域になると述べていますが、私にとってもほかの問題・疑問も含めて、それがわからないままでも「全知全能がすべてを完璧に、公正に、平等に、愛を持って、取り計らっていると信じるしかない」という感じです。

 

 

これが間違っていたら宇宙も霊界も崩壊するような気がします。盲目的に信じるのではなく、たしかな知識や常識や倫理観を持って臨み、それでも宇宙の真理を肉体を持った人間がすべてを理解出来るわけがないので、分かる範囲まで精一杯努力した上で、その時点で届かないことは「信じるしかない」という風に思えます。

 

 

シルバーバーチはそういった「信じるしかない」という不確定で不明瞭なことも、段階が上がって霊的に進化した時に、自分が信じてきたことは間違っていなかったことがわかったという体験を何度もしてきたので、いままで大丈夫だったのだから次もきっと大丈夫だろうという風に信じていると述べていましたが、私もこれを積み重ねていくしかないような気がしています。