子供は親の言葉を躊躇なく受け入れ、それを金科玉条とする。

それが実は譬え話であったことを知るのは大人になってからのことである。人類も神の啓示を同じように扱ってきた。比喩的表現に過ぎぬものを言葉どおりに解釈してきた。誤りだらけの、しかも往々にして伝説的記録に過ぎぬものを数学的正確さをもって扱ってきた。かくして今なお嫉妬に狂う神だの、火炎地獄だの、選ばれし者のみの集まる天国だの、生身のままの復活だの、最後の審判だのという愚か極まる教説を信じ続けている。これらはいわば幼児の観念であり、大人になれば自然に卒業していくべきものである。霊性において成人せる人間はすべからくそうした幼稚なる概念を振り棄て、より高き真理へと進まねばならぬ。

然るに現実は、原始的迷信、愚か極まる作り話がそのまま横行している。想像力に富める民族が描ける誇張的映像がそのまま事実として受け入れられている。数々の空想と誤謬と真理とがまさに玉石混淆となり、より高き真理を理解せる理知的人間にはとても付いて行けぬ。そうした支離滅裂の寄せ集めを一つに繋いでいるものは他ならぬ信仰心である。われらはその信仰心を切断し、信仰心のみで無批判に受け入れて来たものを理性でもって検討し直せと言っているのである。きっとその中には人類の幼児時代より受け継がれた人間的産物を多く見出すであろう。煩わしく且つ無益なるものに反撥することであろう。が、同時に、その残りの中に理性に訴えるもの、体験によりて裏付けされたもの、そして神より出でしものを発見するであろう。(インペレーターの霊訓)

 

インペレーターもシルバーバーチも既存の宗教の迷信や現代人の理性に合わない内容を批判しています。

 

シルバーバーチなどの霊訓関連も自分(霊側)の言っていることに理性に反すること、低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒否してくださいとよく述べており、いかに高級霊の言葉でも鵜呑みにせず、よく吟味し理性で判断し、納得した上で実行しなさいと言っています。

 

 

ひふみ神示や大本でも「審神者せよ」という言葉がよく出てきます。

 

霊の言うことだからと言って、あるいは立派な人物の言うことだからと言ってそのまま鵜呑みにするのは危険であるのは当たり前ですが、そうは言っても上手いこと心の隙や欲望を突かれてコロっと騙されてしまう人がいるのも事実です。

 

 

日常生活でもそうですが、平常心なら引っ掛かるはずもなく、理性を働かせれば明らかにおかしいと思う部分があるはずなのに、なかなか欲が先行したり、平常心が失われて、いざその場面に自分が立つと引っ掛かってしまうなんてことは多くの人に言えることだと思います。

 

 

いわゆる高級霊たちが地上に働きかけて行っている霊訓や神示の類いも、人間は盲目的に信じたりせずに、理性で考え、疑っても良いと思いますし、私自身もそうだったりします。

半信半疑だったり、実感が持てなかったり、ホントか~?と思うようなこともありますが、じっくり自分の中で検討するしかありません。

 

 

インペレーターは自動書記の中であまりにも霊媒のモーゼスが自分たち霊団のことを疑うので、要約すれば「自分たちが邪霊・邪神の類いかどうかは自分たちの通信の内容を見て判断して欲しい」と述べていますが、今は過渡期に当る時代なので人間が疑ってしまうのも無理はないと思われます。

 

疑って、疑って、遂にもう信じるしかないという部分に至らないとなかなか人間は心から打ち込むことが出来ません。高級霊たちも疑われたくらいで怒ったりはしないと述べていますし、霊訓や神示の類いを疑る人はどんどん疑って欲しいと思います。

 

 

ただし、疑わしいから内容を検討すらしない、無視するのではなく、ちゃんと中身を見た上で、自分の心に正直に理性的に判断して欲しいと思います。その上でシルバーバーチやインペレーターやひふみ神示らを偽物と思うなら、それはそれで構わないと高級霊たちも述べています。

 

 

キリスト教はイエス・キリストへの信心を告白すれば誰でも天国へ行けると述べていたり、仏教では南無阿弥陀仏とさえ唱えていればどんな悪人でも極楽に行けると言ったりしていますが、それが正しいなら凶悪犯罪者も聖人君子も同じように天国に行けるわけで、死後の世界での報いという意味では実生活で真面目に生きるのは無意味ということになってしまいます。

 

ひったくり犯や詐欺師もキリストや釈迦を信じていれば、天国・極楽に行けるならこの世で悪の限りを尽くして、死ぬ寸前にキリスト教徒や仏教徒になれば天国に行けるわけですから、今風に言うなら「コスパの良い宗教」ということになります。

 

もっと言うなら「南無阿弥陀仏」と唱えながらの犯罪であれば、死んでも天国・極楽行きなわけですから、常日頃から「南無阿弥陀仏」と唱えつつ、殺人、強盗、窃盗、詐欺、etc、を犯せばオールオーケーというわけです。仏教とはなんと素晴らしい宗教なのかと思います。

 

 

少なくとも私の理性としては、そういったことや懺悔するだけですべての罪が許されるとか、イエスが人類の罪をまとめて背負って死んだから人間に罪はないとか、おかしいと思ってしまいます。

 

最近流行のオポノポノも心の姿勢に関係なく唱えるだけで潜在意識がクリーニングされて幸福に向かっていくとのことですが、特定の響き意味や効果があることは認めますが、「人殺しを楽しませてくれてありがとう」「詐欺に引っ掛かる馬鹿な人たちを愛しています」みたいな犯罪者でも心の姿勢や日常の行いに関係なく「唱えるだけ」で幸福になっていくというのですから、正直ちょっと変だなと思ってしまいます。

 

 

宗教をただ信仰したり、ただ唱えるだけで、天国へ行けたり幸福になれるのはとてもお手軽で、実にコスパに優れていますが、普通に理性で考えてみると「それっておかしくないか?」と思ってしまうわけで、現代人の多くはこういったことに騙される人が減ってきて、宗教そのものが意味を失ってしまっているように思えます。

 

少なくともまともな知性や常識を持っていれば、キリスト教や仏教が言っていることはおかしいと思うでしょう。子供なら騙せるかもしれませんが、私にはそんな不平等で悪辣な存在を信じることは出来ませんし、インペレーターも神をそんな風に下卑た存在にしたキリスト教を批判しています。仏教のことは詳しくわかりませんが、どう考えてもおかしいことを言っているので似たようなものなのでしょう。

 

 

霊訓や神示関連も同じで、読んでから判断することが何よりも大切だと思うのは、通信者が誰なのか、あるいは人間の創作物なのか、といったことは別問題として内容そのものは非常に合理的で理知的で誠実からです。

 

 

霊媒であるモーゼスがあまりに疑ぐり深くインペレーターにあなたたちが本当に善霊であるというなら証拠を見せてくれ、言った時の対応が非常に印象的なのでご紹介します。

 

 

その時イエスはエルサレムでハヌカー祭に出席していた。その折そこに集まれる民衆が“もしもあなたがキリスト神だと言うのであれば、その明確な証を見せてほしい”とイエスに迫った。彼らは今のそなたと同様に疑念を晴らすための何らかの“しるし”を求めたのである。そこでイエスはわれらと同じく、自分の説く訓えとその訓えによりてもたらされる業(わざ)の中に神のしるしを見てほしいと述べた。またそれを理解する備えのある者――イエスの言う“父の羊たち”――はその訓えの中に父の声を聞き、それに答えたも同然であると述べた。が、質問者たちはそのような回答を受け入れることが出来なかった。なぜなら、彼らにはそれが理解できず、信ずる心の準備が出来ていなかったからである。備えある者はイエスの言葉に従って永遠なる生命と進歩と生き甲斐を得た。

 

 

インペレーターの霊訓によればイエスが地上いた頃に、彼はいわゆる神の教えを説きましたが当時の人たちは「だったらそれが神の言葉であるという証拠を見せてくれ」と言ったそうですが、イエスは自分のいう教えとその教えがもたらす事実を見て欲しいと述べ、民衆の多くはそれを受け入れなかったと述べています。

 

 

現代においても、霊訓や神示が本当に神霊からの良い通信であるなら2000年前の民衆が求めたのと同様にその「証拠」を見せろと多くの現代人は考えるでしょう。そしてそれに対する回答はやはりイエスと同じ回答になると思います。

 

 

通信者が誰なのか?その身元が確かな者であるという証拠は得られないかもしれませんが、まずは、その内容を私たちは理性によって判断すれば良いのだと思います。