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まとめ
・幽斎と顕斎の両方が必要
・物質はなんでも霊と体の両方で出来ている
・霊に供えるとその霊だけが届く
・だから2回同じ物はお供え出来ない(中身の霊がないから)
・供物は霊界にて想念の徳にとって延長・拡大される
・万物は神のものだが、神は人間に物を捧げられて喜ぶ
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○幽斎と顕斎
幽斎の法は、霊を以て霊に対するのであるから、神像も有る無く、宮舎も有る無く、奠幣も有る無く、祭文も有る無く、ただわが霊魂を以て宇宙の霊魂に対すればよいのである。要は真神を祈るの道である。
顕斎は、形を以て形に対するの方式であるから、神像も有り、宮殿も有り、奠幣も有り、祭文も有って、像神を祭るの道である。 顕斎は祭祀の道であって、神明に対し奉りてその洪大無辺なる恩徳を奉謝するの儀式である。
幽斎は祈祷の道でありて、神明に対し奉りて、公正なる願望を成就せしめ玉わん事を祈り、また神術の進歩発達して神人感合の妙域に到達せん事を祈るの大道で、真理蘊奥、万業の基礎たるべき神法である。
幽斎式は、前記の如く、霊を以て霊に対するのであるから、顕斎は不必要かといえば、決して不必要では無い。幽斎にして顕斎ならざるも非なり。顕斎にして幽斎ならざるもまた非なり。一方にのみ偏するは必ずしも真理では無いのである。
(本教 創世記 出口王仁三郎)。
およそ何処の国でも現代では神を祀るのにその国の文化、宗教なりの建物、神像、札、呪文など用いていますが、神は霊であるのだから霊に対してこちらも霊として向き合うのが正しいのではないか?と思う部分があり、物質的な祀り方に対してやや疑問を持っていた時期がありました。
日本であれば神社に神棚に神体に神札にお灯にお水や諸々の供物、そして祝詞ですが、霊である神に物質で向き合うことに、神様の方から見て果たして意味はあるのか?単純に人間側の自己満足ではないか?と思ったりするわけですが、出口王仁三郎は幽斎(霊的な祀り方)と顕斎(物的な祀り方)両方必要だと述べています。
西洋のシルバーバーチやインペレーターなどの霊訓ではあまり神を祀れという要望はなく、どちらかというと道徳性の向上に重きを置いていて、日本の日月神示や大本関連の筆先のように神を祀るということをあまり重視していません。
神は霊ですので、霊に対して霊として対する、つまり祈りを捧げるということに対して私は疑問を持ちませんが、霊に対して物品や金銭やお宮で対するということについて私が知りうる限りのことを述べてみたいと思います。
まず私たちが神前や祖霊などに何かお供えをするときにちゃんと霊的な物品として届いています。供物は物質ですが、物質は霊と体から出来ており、霊のみが霊界へ届きます。
木にも竹にも石にも道具にもそれぞれの霊が宿ってゐるのである。人間や動物ばかりでなく、総てのものに宿ってゐるのである。宿ってゐると云うよりは、霊と体とで一つのものが出来上がってゐるのである。一枚の紙の裏表のようなもの、表ばかりのものもない。裏ばかりのものもない道理。
又 物質界は、霊界の移写であり衣であるから、霊界と現実界、又 霊と体とは殆んど同じもの。同じ形をしてゐるのであるぞ。故に物質界と切り離された霊界はなく、霊界と切り離した交渉なき現実界はないのであるぞ。
地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、
(ひふみ神示)
問「幽界(天狗界)では煮炊きする時の鍋釜はどうしているんだ?」
寅吉「幽界(天狗界)には人間界にあるものは何もかもあります。もしない物で入用な時は地上の誰かの人家に行て黙って借り、用が済んだら返しにいきます。しかし借りているのは鍋の幽体だけであり、物質としての鍋は人家にそのままあるので人間たちには借りたことがわかりません。
問「天狗たちは食べ物を食べるのか?」
寅吉「天狗たちは自由自在なのでにいつでも食べたくなったらく食べたい物がすぐに前に現れます。特に(岩間山の)十三天狗は毎日村々から各々へ膳のお供えがあるので、それを私たち弟子までが食べても十分なくらいあります。しかし現世の供物は減ることなくそのまま現界にあります。(物質としての膳は)減っていなくても天狗の方はちゃんと(膳の霊体を)食べています。もし不思議に思うのでしたら私が山に行った際に、何か食べさせたいと思うものをお供えして下さい。こちらに来た時にそのお礼をします。
(仙境異聞(寅吉物語のこと))
平田篤胤
霊は万物に普遍してある。火鉢にも鉄瓶にも草花にもある。霊が脱けたら、その形を保つことがでけんさけ、崩れてしまう。非常に長い年月を経た土器が何もせんのにぐしゃぐしゃに潰れることがあるが、あれは霊が脱けたんや
(大地の母 出口王仁三郎)
問い。書物を読むとおっしゃいましたが、それも思念でできているのですか。
答え。すべての物体に霊的複製品があります。地上で書かれたものが複製されておさめてある図書館があります。必要が生じると、そこで調べ物をして知識を得ます。音楽も絵画もあります。地上にあるものはすべてこちらにもあります
(シルバーバーチの霊訓)
切りが無いのでこのくらいにしておきますが、まとめますと物質というのは霊と体の2つの要素から出来上がっており、お供えをするとのその中の霊だけが届きます。
お供えしたい対象に対して受け付けて下さるのは基本的に産土の神様で、○○の神様にとか○○の故人にという風に宅配便さながらに送って下さるそうです。
ただ受け付けて下さるのは産土様なのですが、どうもそういう仕事に携わる管轄の神様が別にいるようであり、お金であればそれ相応の物品に替えられたり、送られる先にそぐわない物品であればやはり適切なものに替えられるそうです。
物質は霊と体で出来ていることについてはあらゆる霊的な書物で述べられていますが、要するにその物品(金銭)の霊だけが(場合によっては適切な形に変じて)届くわけです。
つまり神様は物を食べないとか、お金を必要としないとか、そういう物質的な観点のみでなく「物質は霊と体の両方で出来ている」ということを理解すれば、全く無駄になっているわけではなく、ちゃんと向こうに届いていることがわかるはずです。
また一回お供えするのとその中身の霊が向こうへ行ってしまいますから、2回同じ物をお供えすることは出来なくなります。人間からは同じ物品に見えても中身の霊は向こうへ行っているわけです。
○想念の延長
霊界は想念の世界であつて、無限に広大なる精霊世界である。現実世界は凡て神霊世界の移写であり、又縮図である。霊界の真象をうつしたのが、現界、即ち自然界である。故に現界を称してウツシ世と言ふのである。例之一万三千尺の大富士山を僅か二寸四方位の写真にうつした様なもので、その写真が所謂現界即ちウツシ世である。写真の不二山は極めて小さいものだが、其実物は世人の知る如く、駿、甲、武三国にまたがつた大高山であるが如く、神霊界は到底現界人の夢想だになし得ざる広大なものである。僅か一間四方位の神社の内陣でも、霊界にては殆ど現界人の眼で見る十里四方位はあるのである。凡て現実界の事物は、何れも神霊界の移写であるからである。僅に一尺足らずの小さい祭壇にも、八百万の神々や又は祖先の神霊が余り狭隘を感じ玉はずして鎮まり給ふのは、凡て神霊は情動想念の世界なるが故に、自由自在に想念の延長を為し得るが故である。三尺四方位の祠を建てておいて下津岩根に大宮柱太敷立、高天原に千木高知りて云々と祝詞を奏上するのも、少し許りの供物を献じて、横山の如く八足の机代に置足らはして奉る云々とある祝詞の意義も、決して虚偽ではない。凡て現界はカタ即ち形の世界であるから、その祠も供物も前に述べた不二山の写真に比すべきものであつて、神霊界にあつては極めて立派な祠が建てられ、又八百万の神々が知食しても不足を告げない程の供物となつて居るのである。
(霊界物語 第21巻 総説)
玉串は神様に衣を献るの型である。すべて霊界に於ける事象は現界に於て型をせねばならぬので、玉串を捧げて型さへすれば、霊界では想念の延長で、立派な種々の色の絹と変じて、神様の御衣となるのである。松の梢につけて献るのであるが、其松は又想念の延長によりて立派な材木となり、神界の家屋建築に用ひらるるのである。
斯のやうに現界で型をすれば、霊界では幾何でも延長するのであるが、型がなければどうする事も出来ない。だから祖霊様にでも常にお供へ物をすれば、祖霊様は肩身が広い。多くの人に頒つて「晴れ」をせらるることは嘗て話した通りである。
玉鏡
現界にて常に行き通ふ山も霊魂の脱て行く時は一の仙界と見え、又肉体にて行く時は仙界のありとしも思はれず、三間ばかりの山の頂も霊魂のみにて行きたる時は百里もあるやうに思はれ、小き祠も数百畳の宮殿とも思はれ、狐狸にばかされた思ひをする事もあり。
(異境備忘録 宮地水位)
神徳のある神であればその徳によっていくらでも延長するようなことがよく霊的書物に登場し、一握りの米が米俵に変わったり、30cmくらいの小さなお宮が何百メートルもの大きな神社に変わったりするなど、物質界の物品がそのまま届くのではなく、霊界側の想念に応じて変化するようです。
地上世界では小さな取るに足らない物が、霊界では立派なものに変わるというのはよくあることで、例えば自宅で祀っている神棚は一般家庭であれば人間が中に入れって生活出来るようなサイズのものはありませんが、霊界ではこれが想念の延長によって立派なお宮になるということです。
少しばかりの米、塩、野菜、菓子などのお供えも、まさに祝詞にある「横山の如く八足の机代に置足らはして」というわけです。
玉串の布や紙も分量としては僅かですが、霊界ではそれを元に衣服を作ったり玉串の榊や松の枝を材木に家を建てたりするそうです。
宮地水位も幽界や霊界でこういったことを見て「狐や狸に化かされたような気持ちになる」と述べていますが、この辺りは霊の徳に応じて自由自在に拡大されるようにです。
○お下がり、直会
霊の低いもの程沢山食物を食べるから、かういふ霊への供物は後が不味ていけない。神様に御供へしたものは、ほんの少し食しあがつて後へ精気が入るから、それがお陰である。恰も美い香袋に手を触れると移り香が残るやうなものである。通りがかりの飲食店などの店に飾つてある鮓司などは、うまさうに見えるが、食べて見ると甚だ不味い、餓鬼の霊が味を吸ひ取つて行くからである。
(玉鏡 出口王仁三郎)
神様に献じた供物を自分も頂く「神人共食の儀式」として直会がお祭りなどで見られますが、神様は献じられたものを全部食べきり、使い切るのではなく少しだけお食べになり、お使いになるのでそのときに神様の気が入るそうです。
(食べると言ってもおそらく人間の食べるではなく、精気を抜くという意味だと思います。熊の黒の色素だけを抜くというやつです)
そのお下がりを人間が頂くことによって、いわゆるお陰があると出口王仁三郎は述べています。
この供物やお賽銭などに関して個人的には神様ほど気の利いたお方はいないように思っています。
未熟な人間であれば相手に一方的に損をさせて自分が一方的に得をするというようなことをする人がいますが、円熟した人格者はそういうことをしたりはしません。
常に相手に気を遣いますし、人情というものを理解しているからですが、人間ですらそうであるわけですから、ましてや神ともなれば人間に一方的に金銭や供物などを求め、搾取するようなやり方をするはずがありません。
大抵の場合は神様に献じた金銭や物品は最低でも同等のものとして、時と場合によっては2倍3倍のものとなって帰ってくるというのが個人的な経験談です。
人間から一方的に搾取を行う神は基本的には全部邪神であると考えて間違いありません。過去のめぐり(カルマ)の償却という意味がある場合もあるかもしれませんが、祀って人間が貧しくなるのは邪神であり、正神であれば神も人間も共に豊かになっていきます。
金を捨てろとか、その人の経済状況に見合わない寄付をしろとか、無理に人間から金銭を求めるようなものは悪魔である場合がほとんどで、神様は人間に無理なことを言うことは決してありません。あくまで人間が自分の出来る範囲で自発的に真心をもって行うということが大前提になります。
○神は供物を喜ぶか?
ヨル『バラモン教だつて、三五教だつて、祭に二つはないだないか、別に神様は人間の乞食でもあるまいから、醵出したものを以て生命を保ち玉ふ様なお方ではないが、すべて愛の心が起れば、人間は神様に何なりと上げたくなるものだ。又神様は人間を愛し玉ふ時は田もやらう、畔もやらうといふお心にならせ玉ふものだ。年よりの親が息子や娘に土産を買ふて来て貰つたり、又孫が仮令少しの物でも、これをお爺さまお婆アさまに上げたいと思つて買つて来たと聞いた時は、其爺さま婆アさまは、仮令僅少なものでも、どれ丈喜ぶか知れぬだないか。せうもないものでも、息子が買ふて来てくれたものだとか、孫が遥々買ふて来てくれたとか、送つてくれたとか、会ふ人毎に話して喜ぶだろう。そして僅二三十銭の物を孫がくれると爺さま婆アさまは臍繰金の十円も出して、孫にソツとやるだないか。愛は愛と相応し、善は善と相応するものだ。それだから、祭を真釣合といふのだ。決して爺さま婆アさまは吾子や孫に、土産を買ふて来て貰はうと望まない……と同様に神様は決してお供へを望み遊ばさない。けれど其子や孫が土産をくれた時の心と、くれない時の心とは、其時の愛の情動の上に於て、非常な差等のあるものだ。それだから神の愛に触れむと思ふ者は神を愛さなくてはならぬのだ。人間として何程心を尽しても、神様に対する御恩報じは金額物品を以て、其真心を神に捧ぐるより、外に手段も方法もないだないか』
(霊界物語 第21巻 総説)
神にささげるには、自分に与へられたものの中から ささげねばならんぞ。むさぶり取ったり横取りしたり、自分のものでないもの、もうけたカスを神にささげて威張ってゐるが、それはささげ物にならん。神は受け給わんぞ。泥棒のお残りちょうだいは真平ぢゃ。自分のもの先づささげるから弥栄えるのぞ。おかげ万倍間違ひなし。
不和の家、不調和の国のささげもの神は要らんぞ。喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。
(ひふみ神示)
神様にも色々な神様がいますが、真正の神はただ一柱であり人間の親ともいうべき存在です。
例えば祖父母や父母が小学生の子供から父の日でも、母の日でも、敬老の日でも、誕生日でも、何でもいいですが、何かプレゼントをもらったとしましょう。まだ小学生ですから自分で稼いだお金であるはずもなく元々は祖父母や父母からもらったお金であったはずです。
つまり金銭的、物質的な視点からのみであれば、祖父母や父母が子供に渡した小遣いが物に変わって自分に返ってきているだけですので、言ってみれば自分で購入したのと同じです。
しかし多くの場合小さい子や孫が少ないお小遣いから自分のために何かをしてくれること喜ぶものです。例え一輪の花でも、数百円の物品でもです。
神様に対する供物もこれと全く同じと考えて構いません。
祖父母や父母は決して小さな子にプレゼントを強要したりはしませんが、子供が自ら真心を持って、例え僅かなものでもくれることを喜ぶように、神様も人間に対して同じ態度を取ります。
この例えがすべてであるように思えますが、「喜びの捧げもの米一粒でもよいぞ。神はうれしいぞ。」というのは虚偽でも何でもなく事実であると思います。
まとめますと、供物も賽銭もみな神様や祖霊に届いており、無駄になっているわけではありません。もし真面目にお供えをしている人がいれば、相手が邪神で無い限り必ず返礼があるでしょうし(それは死後かもしれませんが)、絶対に無駄になったりすることはありません。
物質的な視点だけで見ればわからないのも当然かもしれませんが、ちゃんと向こうにちゃんと届いています。