渡部亮次郎氏のメルマガ『頂門の一針』(令和元年9月13日)より転載(その2) | koreyjpのブログ

渡部亮次郎氏のメルマガ『頂門の一針』(令和元年9月13日)より転載(その2)

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NHK終戦報道は相変わらず問題山積

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           櫻井よしこ

 

毎年8月になるとNHKのいわゆる“歴史もの特集”が放送される。NHK

の歴史に関する作品には、たとえば20094月の「JAPANデ

ビュー」、178月の「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のよ

うに、偏向、歪曲、捏造が目立つものが少なくない。そのために私は

NHKの歴史ものは見たくないと思って過ごしてきた。

 

だが、今年はどうしても見ておく必要があると考えて視聴した。視聴した

のは「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」、「昭和天皇は何

を語ったのか─初公開・秘録 拝謁記」の2作品である。

 

前者は812日のNHKスペシャルで、戦前に10年間だけ発行されてい

「日本新聞」を取り上げている。後者は17日の放送で、初代宮内庁長官、

田島道治氏の日記によるものである。両作品共に役者を起用したドラマ仕

立てだった。

 

期待どおりというのは皮肉な表現だが、前者は想定どおりの「NHK歴史

もの」らしい仕上がりだった。後者についても多くの疑問を抱いた。

 

まず「新聞」の方だが、番組は暗い声音のナレーションで説明されてい

く。日本新聞は大正141925)年に司法大臣小川平吉が創刊し、賛同者に

平沼騏一郎や東条英機が名を連ねる。彼らは皆「明治憲法に定められた万

世一系の天皇を戴く日本という国を絶対視する思想を共有していた」との

主旨が紹介される。

 

明治憲法においても現行憲法においても国柄を表現する基本原理のひとつ

である「万世一系」の血筋が、まるで非難されるべき価値観であるかのよ

うな印象操作だ。

 

番組のメッセージは、創刊号で天皇中心の国家体制「日本主義」を掲げた

のが日本新聞で、その日本主義が日本全体を軍国主義へと走らせたという

ものだ。

 

不勉強の極み

 

だが、番組は説得力を欠く。歴史の表層の一番薄い膜を掬い取ってさまざ

まな出来事を脈絡もなくつなぎ合わせただけの構成で、どの場面の展開も

その因果関係が史料やエビデンスをもって証明されているものはない。飽

くまでも印象だけの馬鹿馬鹿しいこの作品を、NHKが国民から強制的に

徴収する受信料で制作したかと思うと怒りが倍加する。

 

日本全国に軍国主義の波を起こし、日本を戦争に駆り立てるほどの影響力

を発揮したとされる日本新聞の発行部数はわずか16000部程度だった。

しかも先述のように昭和10年までの10年間しか発行されていない。NHK

の主張するとおり、日本新聞に世論と政治を動かすほどの力があったのな

ら、言い換えれば、それだけ国民に熱烈に支持されていたのなら、なぜ10

年で廃刊に追い込まれたのか。

 

当時もっと影響力のあった新聞のひとつに朝日新聞がある。朝日は日本新

聞よりはるかに早い明治121879)年に大阪で創刊、9年後には東京に進

出、日本新聞創刊の1年前には堂々100万部を超える大新聞となっている。

朝日は満州事変などに関して極右のような報道で軍部を煽り部数を伸ばし

たが、なぜNHKは軍国主義を煽ったメディアとして日本新聞にのみ集中

したのか。不勉強の極みである。

 

この日本新聞の番組があり、815日をはさんで田島日記、即ち「拝謁

記」の方が放送された。二つの作品を対にした構成の背後には、軍国主義

の弊害を安倍晋三首相が実現しようとする憲法改正に結びつけ阻止しよう

とする意図があるのではないかと感じた。なぜなら拝掲記は昭和天皇が再

軍備と憲法改正を望んでおられた事実をかつてなく明確にしたからだ。

 

「拝謁記」の内容にさらに入る前に、NHKは田島道治日記の全容を公開

していないことを指摘しておきたい。私たちにはNHKの放送が全体像を

正しく反映しているのかどうか、判断できないのだ。

 

NHKは宮内庁記者クラブで田島日記に関する資料を配布したが、配布さ

れたのは日記全体ではなく、NHKが選んだ部分だけだった。田島氏のご

遺族が了承した部分だという説明もあったが、それはNHKが報道した分

にすぎない。新聞メディアをはじめ各社がその後報じた内容は、NHK配

布の資料が各社の持てるすべての素材であるために、NHKと基本的に同

じにならざるを得ず、NHKの視点を拡大することになる。

 

もう一点、NHKは今回の放送を「初公開」「秘録」と宣伝するが、田島

日記は16年前の036月号と7月号の「中央公論」と「文藝春秋」で加藤恭

子氏が紹介済みだ。加藤氏が伝えたのは昭和天皇が頻りに戦争を反省し、

後悔されていたという点で、NHKの番組でもそうした思いを述べるくだ

りが俳優の重々しい口調で演じられている。

 

天皇の政治利用

 

16年前の「文藝春秋」には「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」として「昭

和天皇 国民への謝罪詔書草稿」全文も報じられている。この草稿は吉田

茂首相らの反対で、過去への反省の表現などが「当たり障りのない表現

に」(加藤氏)変えられたことを、加藤氏は、昭和天皇の思いを実現させ

るべく懊悩する田島氏の取り組みを通して紹介した。

 

NHK報道の新しい側面は、この点を昭和天皇と田島氏の対話形式で明ら

かにしたことだ。

 

他方、NHK報道で最も印象的なのが先述の憲法改正に関する点だ。これ

まで御製等を通じて推測可能だった再軍備と憲法改正への思いを、昭和天

皇は具体的に語っていらした。

 

昭和天皇は1952年には度々日本の再軍備や憲法改正に言及され、211

には「他の改正ハ一切ふれずに軍備の点だけ公明正大に堂々と改正してや

つた方がいゝ」と述べられていた。311日には「侵略者のない世の中ニ

なれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得己(やむを

えず)必要だ」と指摘され、5361日には米軍基地反対運動に「現実を

忘れた理想論ハ困る」と常識的見解を示された。

 

こうして明らかにされた昭和天皇のお気持を知って、日本国の在り方に責

任を持とうとするそのお姿には感銘を受ける。だが、国民も政府も慎重で

なければならない。日本は立憲君主国で、君主たる天皇は君臨はするが統

治はしない。何人(なんぴと)も天皇の政治利用は慎まなければならない

からである。

 

そもそも側近の日記がこのように、公開されてよいのかと疑問を抱く。こ

れまでも多くの側近が日記やメモを公開してきたが、天皇に仕えて見聞し

た、いわば職務上知り得た情報の公開には極めて慎重でなければならない

はずだ。公開されれば当然、私たちは強い関心を持って読む。しかし、そ

のようなことは、側近を信頼なさった天皇への裏切りではないか。こんな

ことで皇室、そして皇室を戴く日本は大丈夫か、国柄はもつのかと問わざ

るを得ない。皇室に仕える人々のルール作りが必要だ。

『週刊新潮』 2019912日号 日本ルネッサンス 第866

 

 

 

 

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「青い山脈」の頃

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   渡部 亮次郎

 

恥かしい話を書く。多分生まれて初めて観た劇映画が「青い山脈」であ

り、昭和26(1951)年の早春、新制中学を卒業寸前の15歳、教師引率で、町

の映画館で観た。

 

もちろん白黒。公開されて既に2年経っていたらしいが、それは今になっ

て調べて分かった事。町と言いながらド田舎だったのである。

 

昭和の御世。15歳まで映画も観られなかったとは万事、貧しかった。

もっとも戦争中は見ようにも映画が製作されてなかったらしい。

 

映画「青い山脈」(あおいさんみゃく)は石坂洋次郎原作の日本映画。

1949年・1957年・1963年・1975年・1988年の5回製作されたが最も名高い

のは1949年の今井正監督作品である。私の観たのがこれだ。

 

主題歌の『青い山脈』は日本映画界に於いて名曲中の名曲ともいえる作品

で、過去の映画を紹介する番組などでは定番ソングともなている。2007

1024日のラヂオ深夜便で久しぶりに聴いたので映画の事を思い出したの

である。

 

西條八十(やそ)作詞、服部良一作曲の名曲。映画を見たことが無い人でも

歌だけは歌える人が多い。また映画ではラブレターで「戀(恋)しい戀し

い」というところを「變(変)しい變しい」と誤記してしまうエピソード

は大いに笑わせた。

 

長編小説『青い山脈』は1947年に「朝日新聞」に連載。

 

東北の港町を舞台に、高校生の男女交際をめぐる騒動をさわやかに描いた

青春小説。また、民主主義を啓発させることにも貢献した。

 

私は新憲法は中学生ながらに全文を読んだが、民主主義の実際については

「青い山脈」に教えられた。

 

1949年に原節子主演で映画化され、大ヒットとなった。その3ヶ月前に発

表された同名の主題歌も非常に高い人気を得た。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

石坂洋次郎(いしざか ようじろう 1900125日―1986107日)は、

小説家。青森県弘前市代官町生まれ。戸籍の上では725日生まれになっ

ているが、実際は125日生まれ。

 

弘前市立朝陽小学校、青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校

の前身)に学び、慶應義塾大学国文科を卒業。1925年に青森県立弘前高等

女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務。

 

1926年から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学

校)に勤務。1929年から1938年まで秋田県立横手中学校(現在の秋田県立

横手高等学校)に勤務し教職員生活を終える。

 

『海を見に行く』で注目され、『三田文学』に掲載した『若い人』で三田

文学賞を受賞。しかし、右翼団体の圧力をうけ、教員を辞職。戦時中は陸

軍報道班員として、フィリピンに派遣された。

 

戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり、

「百万人の作家」といわれるほどの流行作家となる。数多くの映画化、ド

ラマ化作品がある。

 

他に、『麦死なず』『陽のあたる坂道』『石中先生行状記』『光る海』など。

 

「青い山脈」では作者は青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中

央高等学校)の教師であった。当時疎開中の女子学生達から聞いた学校生

活をこの小説の題材にしたと思われる(「東奥日報」2005815日新聞

記事による)。

 

この記事は間違っている。現在の青森県立弘前中央高等学校の教師であっ

たのは1925年(大正14年)であって「当時疎開中の女子学生達」とは何の

ためにどこから疎開してきたのか。東奥日報の我田引水もいい加減にしろ。

 

閑話休題。1949年版映画のスタッフ。監督:今井正、脚本:今井正、井手

俊郎、音楽:服部良一。作曲を電車の中で、数字で作曲していたら、折か

らの闇物資を売買する闇商人に間違えられた、という作り話のようなエピ

ソ-ドがある。

 

主なキャスト 島崎先生(女学校の教師):原節子、沼田校医:龍崎一郎

、金谷六助(旧制高校生):池部良、寺沢新子(女学生):杉葉子、 ガン

ちゃん(旧制高校生):伊豆肇、 笹井和子(女学生):若山セツ子、梅太

郎(芸者):木暮実千代だった。

 

2007年、『映画俳優 池部良』が出版される。20072月、東京池袋の新

文芸座のトークショーにて、その本の編集者から「青い山脈の時に31歳で

したが…」と池部が質問され、

 

実は1916年生まれで当時33歳なのに『青い山脈』の18歳の高校生の役を

渋々受けたことや原節子先輩からガリガリに痩せていたため「豆モヤシ」

という迷惑なあだ名をつけられたり、原節子の尻をデカイと本人の目の前

で口を滑らせたために 張り手を食らいそうになったりといったエピソー

ドを話している。

 

「ウィキペディア」による誕生日は1918211日(建国記念の日)89

 血液型B型となっているが、池袋の新文芸座のトークショーでの「実は

1916年生まれ」だとすると92(2008年6月現在)になってしまう。映画俳

優協会の理事長としてご活躍中ということで不問にしよう。

 

この作品は藤本プロと東宝の共同作品となっている。著作権の保護期間が

終了したと考えられることから現在激安DVDが発売中(但し監督没後38年以

内なので発売差し止めを求められる可能性あり)。出典: フリー百科事典

『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

この映画を観た当時は大東亜戦争の敗戦から未だ6年。人口数千人の町に

よく劇場があったものだが、小中学生の映画鑑賞は禁じられていたし、カ

ネも持っていなかったから観たいとも考えなかった。

 

出来て間もない中学校では野球に夢中。3年になったら主将に指名され

た。投手で4番打者。校舎の中では生徒会長でもあったから忙しかった。

家では教科書を広げる事はなかった。

 

中学校も間もなく卒業という春、秋田は3月と言っても当時は雪の降る日

があった。ゴム長靴にアメリカ軍払い下げのオーバーを着て寒さに耐えな

がらの映画鑑賞。

 

生まれて初めて観る映画だったはずだが、あらすじも画面も、未だに思い

出せるところをみると興奮はしていなかったようだ。後年、父親を映画に

誘ったら「暗くて厭だ」との感想。

 

明るくとも見える映画といえるテレビがド田舎にも普及したのは「青い山

脈」を見てから10年以上経っていた。ましてあの頃、テレビ会社(NHK)に入

(記者)するとは夢にも思わぬことだった。

 

恥かしくて退屈な思い出話。御退屈様。20071025執筆