ホルコン攻略教えます

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みなさんこんにちは!K-バヤシと申します。

 

早速ですが我々パチンカーは世間ではパチンカスなどと呼ばれているのをご存じでしょうか?所以はいくつかあるのですが、最たるものは何といっても北朝鮮へパチンコ店から資金が渡っているからです。

その資金で我が国を狙うミサイルや核兵器が作られている・・・・

だから我々はパチンカスなんですね~

 

だが少し待ってほしい!(朝日新聞風)

 

このことを小生の周りの人に聞いてみた。パチンカーだけでなく、そうでない人も含めて誰も知らなかったよ?小生はかつて8年間ほどパチンコ店を中心に多業種を展開する会社に勤めていたが、トップは知っていただろうが末端でそんな話題は出たこともないです。

つまり知らずに加担していたのであって確信犯ではないのです。

それで非国民扱いするなら次のはどうでしょうか??

 

①パチンコ・パチスロをやっている

②共産党や立憲民主党に投票したり応援する

③憲法9条を守ろう!改憲には反対だ!!

④将来世代につけを残さないために増税はやむなしだよ

⑤皇室の存続を考えたら女性宮家や女系天皇は必要だ

⑥我が国は侵略戦争をしたのだからチャイナ・コリアには謝罪と賠償が必要だ

 

などなど、こう考えている人もみんな非国民であり売国行為に加担していることになりますよね?

小生は①には該当するがそれ以外には該当しません。

①には該当しないが、それ以外には該当する人より、余程ましだと思いますが、どうでしょうか?しかも朝鮮系のパチンコ店には行きませんし、おかげさまで勝ってますので。

 

そこでこのブログの本題ですが、朝鮮系のパチンコ店には行くのをやめましょう。北朝鮮に送金しているのこいつらですから。目安は駅前や商店街の中にあるパチンコ店は朝鮮系の可能性が大です。これら一等地は戦前は当然ですが日本人の所有地でしたが、戦後な~んでか朝鮮人の持ち物になっているのです。

 

そしてやるからには勝ちましょう!勝ち方は小生が伝授します。

ただし、上記の①~⑥までは実態や歴史や仕組みを知らないからであり、それについての説明を記事にて書いていますので、読んでコメントをください。

 

16:00~

 

ホルコン攻略の入手方法

 

入門編:指定記事にコメントを入れる

 

応用編:入門編をクリアしたら次は3つの質問に答える

 

これだけです。

 

 

 

隣国の歴史シリーズは世界史の授業を受けた人には物足りないでしょうが、そんな方はさらっと流してください。

ここでは故岡田英弘氏の【読む年表 中国の歴史  WAC】をベースに書きたいと思います。

 

漢民族とは?

 

チャイニーズのことを漢民族などと呼びますが、チャイナには多くの言語があり文化も習慣も違う多民族国家です。毛沢東の最初の奥さんはすぐ近くの町から嫁いで来たのに、言葉が通じず筆談していたそうです。日清戦争に負けた後にようやく目が覚めたチャイナは、我が国に沢山の留学生を送り込んで来たのですが、やはりチャイニーズ同士で言葉が通じず筆談していたそうです。漢字はそんな多民族の共通のコミュニケーションツールとして使われたもので、漢字を使ってやりとりしている民族が漢民族なんですね。

ちなみに、我が国には「ひらがな」があり平安時代に藤原時平さんが公用文字として認めました。おかげで「フリガナ」が誕生して、難しい漢字も読めるようになりましたが、チャイニーズがこのフリガナの存在を知り採用したのも日本留学のおかげです。

藤原時平とライバルだったのが学問の神様と呼ばれる菅原道真ですが、個人的には藤原さんの方が貢献度は高いと思います。

 

黄河文明・長江文明

 

BC3000~BC2000年くらい。我が国では縄文文化の中期くらいです。500人くらいの集落だったと言われる三内丸山遺跡の時代です。

三内丸山遺跡は青森県ですが、沖縄の貝やら富山のヒスイ、長野の黒曜石などが発見されています。恐ろしい交易範囲ですね。

黄河文明の中心地は洛陽盆地ですが、ここが黄河の流れが一番緩やかで川を渡れる場所だったので、交易の中心になったようです。また、内陸部であるため必須品の塩が必要ですが、近くに岩塩があったのも選ばれた理由らしいです。古代人の交易は実にダイナミックに行われていましたが、交易の集積地に住みついたのが始まりみたいです。

チャイナの皇帝とは商人の親分だと宮脇淳子先生は仰ってます。

 

夏王朝

 

BC1900年ごろと言われますが、らしき遺跡はあるのですが文字が見つかっていないため不明です。司馬遷(しばせん)が書いた史記の夏本記に出てくる王朝です。現在の浙江・福建・広東・ベトナムあたりの海岸沿いの民族ではないかと思われます。

 

殷王朝

 

BC1600~BC1046年くらいです。こちらは遺跡から出土した文字と史書に書いてあることが一致しており、存在が確定されている王朝です。我が国では縄文文化の後期になりますが26万人だった人口が16万人に激減している時代です【日本の起源は日高見国にあった 田中英道 勉誠出版 P77】寒冷化に伴う人口減だと考えられていますが、チャイナでもその影響はあったのかむごたらしい遺跡です。

この時代は甲骨文字で有名な占いの時代ですが、王が占いをするのですが生贄がいるんです。大量の頭蓋骨が遺跡から出土しています。首をちょんぎられて生贄ですわな。戦の勝敗を占っていたようですが、おそらく食糧不足で奪いに行ったのでしょう。この王朝を打ち立てたのは黄河より北に住む北狄(ほくてき)と呼ばれる遊牧・狩猟民族ですから。観光地で有名な万里の長城は彼らからの略奪を防ぐために作られたのです。足りないものは盗めばよい。今のチャイナ・コリアの原型がここにあります。北朝鮮の拉致という人を盗む行為も北狄の血が入っているからと思われます。

 

周王朝

 

BC1046~BC770年まで。我が国が弥生時代に突入したくらいです。さらに気温が下がったようで16万人から7万6000人まで人口が減ってしまったのよ・・・・特に縄文文化の中心だった関東が打撃を受けてピーク時9万5000人だった人口が8000人まで激減しています。

日本書紀や神社の祝詞(のりと)には日高見国なる国名が出てくるのですが、この国は縄文時代に関東から東北にかけて存在したらしい。

田中英道氏の推測では天皇家の祖先はこの国の王だったのではないかと?寒冷化に伴い南に移動した先が天孫降臨の舞台になる鹿児島や宮崎辺り。途中で猿田彦なる神が現れて道案内をするのですが、猿田彦神社は伊勢神宮のすぐ近くです。興味のある方は前著をどうぞ。

 

人口的なことは不明ですがチャイナでも殷の第30代の紂王が暴君だったので、武王が諸侯を率いて反乱し周を建国しました。武王は西戎(せいじゅう)と呼ばれた人たちで遊牧チベット人らしいです。

 

春秋・戦国時代

 

BC770~BC221年まで。日本書紀によると初代天皇陛下である神武が即位したのがBC660年ですからその頃のチャイナです。

2月11日の建国記念の日(紀元節)が神武天皇が即位した日です。

BC660年という年代については疑問視されていますが、ナガスネヒコを破った河内での記述と地質調査の結果から長浜浩明氏はBC70~BC33年説を唱えてます【国民のための日本建国史  長浜浩明 アイバス出版 P120】

 

ちなみに周は滅んでおらず西戎に蹴散らされて都を東の洛陽に移して細々と生き残ります(BC770年)これ以降を東周時代とか春秋時代と呼びます。この頃にチャイナでは鉄が生産されるようになり、農業生産は飛躍的に進歩しました。最低でも生産高が7倍!多く見積もると20倍くらいになったようです。余剰作物が出来ると今まで存在しなかった様々な専門職が出来ます。これは金融革命が起きた18世紀以降と同じ構図ですね。諸子百家と呼ばれる思想家が誕生しました。チャイナ庶民の道教やエリート層の儒教が生まれたのがこの時代です。

 

 

BC221~BC202年まで。アニメや映画でおなじみのキングダムの政が作った統一国家です。登場人物の実在はともかく面白いです。小生は河了貂が好きですね。特にこの登場シーンはいいです。

軍師になって帰ってくるシーン。アニメはもっと可愛いですね。

 

戦国七雄を束ねて初めて統一王朝を作った始皇帝。

実態は金貸し、絹や陶磁器工場の経営者、貿易商人からみかじめ料を取るヤクザです。現在の中国共産党やロシアのプーチンファミリーとやってることは同じでチンピラ国家です。もちろん河了貂には何の罪もありません(笑)文字や目方やお金を統一したのは良いことと思います。始皇帝は西戎つまりチベット人だと思われます。

 

我が国ではこの辺から本格的な鉄器文化が始まります。

水田耕作も九州から東へと広がる時期です。ちなみに稲作でも陸稲栽培は6000年前から行ってました。今でも東南アジアやインドの一部で見られる焼き畑稲作ではないかと推測されます。

 

前漢

 

BC202~AD8年まで。秦が滅んだ理由は厳しい法にあったという見方があります。秦の時代には儒家ではなく法家を採用しました。何せ皇帝が目の前で刺客に襲われているのに、周りの臣下はただ見ていたと言います。何故なら皇帝の居る座に近づくと死刑だから・・・

陳勝・呉広の反乱も悪天候に阻まれて、期日通りに目的地につけない。期日守らなきゃ死刑・・・なら暴れたる!!と反乱を起こします。すると同じような境遇の連中が申し合わせたように反乱を起こす。とにかくあちこちで反乱が起きて最終的に盗賊団のボスだった劉邦が秦を滅ぼし、上司だった項羽も滅ぼして天下を治めます。

 

とはいえ、前漢の周りには様々な王国があり貿易路が塞がれています。商人のボス皇帝としては困ります。そこでBC181年に即位した前漢の武帝は人口を半減しながら周辺国と戦争します。朝鮮半島で最古の王朝である衛氏朝鮮もこの時に滅ぼされました。衛氏朝鮮を作った衛満はチャイニーズです。劉邦から逃げて朝鮮に来たのに、劉邦のひ孫にやられた格好ですね。

 

この時代以降チャイナの人口は戦や内乱で激減します。1/3減ったとか半減したとかなら可愛いもんで、後漢の終わりには1/10になってますからね。とにかく人の命を軽く扱うのは今のチャイナと同じです。

肉屋に行くと普通に人肉が売られている・・・・そんな民族です・・・

 

 

8~23年まで。王莽という漢王朝の外戚に国を乗っ取られました。

外戚とは皇帝の奥さんの家系です。皇帝の嫁さんになったことで権力を振るうのですが、王莽は皇帝の座まで奪ったわけです。平安時代の藤原氏が皇室を乗っ取り天皇を名乗るようなもんです。たぶん民衆は誰が皇帝でもよかったのでしょうが、旧勢力との内乱に突入して人口の1/3を失う事態に突入します。

 

後漢

 

25~220年まで。前漢王室の生き残りである劉秀により王莽は打たれ、漢帝国が再興されました。105年には蔡倫により紙が発明されています。それまでは割った竹に書く竹簡や木簡、もしくは絹に書くなどしていました。欧州では羊の皮に書いていたそうですが、欧州人が初めて紙を見たのがモンゴル帝国拡大中の時代です。この時代の欧州は暗黒の中世時代で何もないド田舎でした。

 

この時代の我が国は水田耕作の広がりにより人口も増えて60万人までになりました。一方でチャイナは内乱の末に人口が1/3も減ってしまいましたので、いわゆる小さな政府へと作り変えます。儲からない遠隔地は切り捨て、お金の掛かる朝貢も控えます。朝貢は貢品の5倍とか7倍の返礼があったので周辺国がこぞって朝貢に来るんです。とんでもない財政負担です。そこで我が国に対しては委奴国王(いどこくおう)を貿易の窓口に任命して金印と紫綬を授けて、各自が勝手に朝貢に来るのを防いだのです。これがかの有名な志賀島で発見さえた金印だそうです。

金はメダルと同じで最高位の印です。朝鮮は土で出来ていたそうです。

 

三国時代

 

200~280年頃です。日本人が好きな三国志の時代ですね。

チャイニーズは制覇した魏の国の曹操が好きで、我が国は蜀の国の劉備義兄弟が好きみたいです。一騎当千なるエロアニメでは(笑)注目されない呉の国が主人公になっているので貴重です。

 

 

184年に起きた黄巾の乱を皮切りに三国時代に突入します。原因は重税と旱魃による飢饉です。財政難から位をお金で売る。地方の役人は出世したくて重税を掛ける。庶民は変な宗教に飛びつく。そして反乱へ・・・世界史によく出てくるパターンです。

230年の時点では後漢時代より人口は1/10になっていました。

自国民を殺した数では毛沢東の8000万人が最高でしょうが、人口比でいったらこの時代です。学生同士の喧嘩じゃないのよ・・・

 

我が国はこの時代にかの有名な卑弥呼や邪馬台国の時代です。

邪馬台国論争は下火になっていますが、故岡田英弘氏やその奥様でいらっしゃる宮脇淳子先生は邪馬台国に関する記述を、チャイナお得意の政治プロパガンダと看做しています。つまり嘘だよとね。

詳しくは【日本人が教えたい新しい世界史 宮脇淳子 徳間書店 P154~160】をご覧ください。

 

西晋

 

280~311年まで。西晋が三国を統一したのはよいのですが、人口減による人力不足で北方の遊牧民や狩猟民を移住させたことで、逆に彼らに滅ぼされました。生き残りが南に逃げて東晋を作ります。

 

五胡十六国

 

304~439年まで。三国時代から移住した北方系のほか周辺民族がチャイナで暴れます。五胡とはチャイナ周辺に住む異民族で北方系の匈奴(きょうど)鮮卑(せんぴ)羯(けつ)の3つと西方系の氐(てい)羌(きょう)の2つです。これらの民族が16の国を作ったわけです。

キングダムに出てくる美少女羌瘣はチベット系でしょうか?

 

 

我が国では古墳時代に突入しております。古墳といえば前方後円墳ですが、最古級の前方後円墳が奈良県の纏向遺跡(まきむく)に登場したのがこの頃と思われます。この遺跡からは全国の土器が発見されていることから、何かしら統一された国家が存在したのかも知れません。

 

南北朝時代

 

439~589年まで。北方系民族の鮮卑が北を統一して北魏を作ります。南は東晋が滅び宋が起きますが、南斉→遼→陳と変わります。

北方系民族の〇〇などと出てきますが、同じ民族が時代ごとに名前が変わるだけで、中身は変わっていない可能性が高いんです。

例えば北を統一した鮮卑族は最初は東胡(とうこ)と呼ばれたのですが、匈奴に親分を殺されて3つに分かれます。①匈奴に組み込まれる者②大鮮卑山脈(興安嶺山脈)に逃れ鮮卑と呼ばれる者③烏桓山(うがん)に逃れて烏桓と呼ばれる者みたいに。この時に勝った匈奴も南北に分列して北匈奴は鮮卑に仇討されて多くが組み込まれます。

北を統一した鮮卑も孝文帝の時代に徹底した混血策を取ります。男は漢民族の女を何十人と抱え、女は漢民族の男と強制的に婚姻させます。鮮卑はこの後に隋と唐の統一国家を作るのですが、もはや純粋な鮮卑じゃないわけです。今のチャイナがモンゴルや満洲や東トルキスタンでやっている民族浄化は大昔からの伝統なんですね・・・

 

我が国はこの頃からチャイナに遣使を出すのをやめています。第21代の雄略天皇の時代です。こんなチンピラ国家から学ぶことはないとなり、この流れが聖徳太子に引き継がれます。

 

 

589~618年まで。我が国では聖徳太子が活躍する時代ですね。

日本の歴史学会は反日の親中・新朝で有名ですが、彼らの中には聖徳太子不在説なるやつを唱える輩もいます。日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す、恙なきや。この有名な独立対等宣言を出したのが気に入らないのでしょうね。

 

三国時代から続いた大混乱の末、ようやく統一王朝が出来たわけですが、今のチャイナの1/3くらいの広さです。北にはトルコ人の作った突厥(とっけつ)なる大帝国があります。この頃には遊牧民お得意の分裂で東西に分かれています。トルコといえば現在は中東辺りにありますが、元々トルコ人はシベリアのエニセイ川辺りに住んでいたそうです。

ここは鉄鉱石の産地で突厥の前は鉄勒(てつろく)と呼ばれた時代もあり、せっせと製鉄業を営んでいたようです。【民族で読み解く世界史 宇山卓栄 日本実業出版 P149】

552年に突厥帝国を作るのですが、この年が現在のトルコ共和国の建国日になっているんですね。

 

 

618~907年まで。実際は則天武后なるおばさんが690~705年まで国名を周としてチャイナ唯一の女帝になっています。また、755年の安史の乱以降は節度使と呼ばれる地方の駐屯軍司令官の方が力が上になっており、室町時代末期の我が国みたいになっていて、やはり五代十国という戦国の世になるのが流れです。300年近い長さはあくまで形式的なもんです。

 

隋の煬帝が高句麗遠征に失敗して、更に南方の揚州で腑抜けになっていると、同じ鮮卑族の李淵が東突厥の力を借りて隋を滅ぼします。

その東突厥も唐により630年には滅ぼされ配下に入ります。

西のチベットはまだまだ強いです。この頃には吐蕃(とばん)なる国を作り、唐は征服をあきらめて吐蕃の娘と婚姻関係になり友好策に転じます。チベットがダメになるのは明朝以降であり、宗教にかぶれ国防を他国に依存してからです。我が国にとっての教訓です。

 

この頃の日本においての重大事は663年の白村江の戦いです。

我が国は朝鮮半島南部に任那(みまな)という直轄地を持っていましたがこれを新羅に奪われ、友好国の百済までもが新羅に滅ぼされます。

生き残りが百済復興を唱えて我が国に援軍要請をしてきます。これに応じて兵を出しましたが唐・新羅連合軍の前に惨敗します・・・・

更に高句麗までもが滅ぼされて半島は新羅の手に落ちました。

我が国はこれを機に地方分権の寄せ集めだった国から、大和朝廷を核とする中央集権に向かったと考えられます。

日本という統一国家名称と、それを統治する天皇の名が現れるのがこの大事件以降です。天皇の名は恐らく608年の国書で用いた天皇から取り入れた名称ではないでしょうか?

 

五代十国

 

907~960年まで。黄河流域の中原と呼ばれる地に後遼→後唐→後晋→後漢→後周と次々に勃興しますが、ほとんどはトルコ人が作った王朝だった。中原の周りには10カ国が作られた。

 

我が国ではほぼ同時に東西で2つの反乱が起きています。

935年の平将門の乱と939年の藤原純友の乱です。この程度の反乱はチャイナでは日常的で記録にも残りませんが、朝廷は上へ下への大騒ぎです。この反乱の10年くらい前には大陸で渤海が滅んで契丹なる国が出来ます。契丹の跡目争いに負けた方が渤海国の跡地に東丹国を作りますが、その東丹国が我が国に使者を送ってきます。恐らく援軍要請だったのでしょう、朝廷は使者を追い返します。なにせ平安時代は完全な平和ボケで非武装国家だったのです。援軍どころか外敵が来たらアウト!の時代ですよ・・・チャイナが大陸ファーストだったのも幸いです。

 

 

960~1276年まで。1127年に金という国に北の領土を奪われて国土が半減し、それ以降を南宋と呼びます。建国者の趙匡胤はどの民族かわかりません。我が国もミトコンドリアDNAを見ると多数の集団が日本列島に来たのがわかります。しかし、縄文時代や弥生時代のDNAを現在も引き継いでおり、我々の祖先はこの時代から日本列島で暮らしており私たちはその子孫だとわかります。幸せです。

 

 

これを見ると関東にはいろいろな所から来た様々な遺伝子集団が仲良く暮らしていたのがわかります。チャイナはこの時代には自分の祖先が何者かわからなくなったようです。そんな中で周辺国からカツアゲされる体たらくでした。北の遼(契丹)と西の西夏に毎年大量の貢物をお届けして、侵略しないで下さいと頼みます。

 

お金で安全保障を維持しているチャイナらしからぬ態度ですが、その分経済活動が活発になります。唐の町は夜になると人が居ませんでしたが、宋の町では深夜2時まで市が開いており、早朝の4時からまた市が開く状態です。経済が大きくなればモノやサービスとの交換手段であるお金の量も増やさねばバランスが取れません。チャイナは伝統的に銅銭を使っていましたが間に合わないので鉄銭も作ります。でも足りないのでついに世界初の紙幣が登場するわけです。

遼や西夏はカツアゲしたお金で宋から物資を買うのですが、巻き上げた以上にお金が出ていき貿易赤字になったそうです。

 

我が国は平安時代から武士政権の鎌倉に突入しています。

平清盛が宋の繁栄に目を付けて、せっせと貿易に励みます。この時に輸入品としてもたらされたのが宋銭です。宋で飛銭という紙幣(手形)が流通したことで宋銭の輸出が始まり、我が国も貨幣経済へと突入します。宋銭は当時流行していた経筒や鎌倉の大仏にも使われました。通貨として使えなくても銅製品として需要があることが、かえって通貨の流通を促進したのかも知れません。江戸幕府が自国通貨を製造するまで我が国の通貨は輸入物だったんですよ。

 

元(モンゴル帝国)

 

1271~1368年まで。チンギス・ハーンがモンゴル帝国を建てたのは1206年ですが、現在のチャイナの領土を継承したフビライ・ハーンが1271年に国名を大元にしています。これは元の年代です。

 

 

欧州が版図に組み込まれていないのは、我が国やエジプトのように戦って追い返したからではありません。ズタボロに負けていますが、当時の欧州には何もなかったので占領されませんでした。この当時の文明と経済の最先端はイル・ハン国のある中東イスラム世界とインドとチャイナです。欧州はキリスト教によって古代ギリシャやローマの文明が排除されて、何もない暗黒の中世なる時代になってます。欧州ではこの頃から十字軍遠征でイスラム文化やインド文化に触れ、モンゴル帝国の広がりで中央アジアやチャイナの文化に触れ、これらを上手に吸収して発展させることで世界の中心になっていきます。

ルネサンス→宗教改革→大航海時代→金融革命→産業革命と道のりは長いですが、モンゴル帝国が東と西を繋いだのが始まりです。

 

モンゴルと言えば元寇ですが、そちらは朝鮮半島の歴史で書きます。

1342年以降、黄河が氾濫してその治水工事に民衆が駆り出されます。そんな民衆が白蓮教の教えにハマり1351年に反乱を起こします(紅巾の乱)反乱軍の首領を殺した朱元璋がリーダーとなり現在の南京を占領し、首都である大都への運河を止めて兵糧攻めにします。

元は大都を捨てて本来の居住地であるモンゴル高原に帰り、以降は北元として引き続きチャイナを侵略し続けます。遊牧民族に国家運営は無理で、従来の欲しくなったら奪い取る!に戻ったのでしょう(笑)

 

 

1368~1636年まで。建国者の朱元璋は乞食坊主から紅巾軍に入り、あれよと出世して皇帝の座まで上り詰めた。しかし周りは紅巾軍の先輩や同僚なので皇帝と言いながら側近はタメ口だった(笑)そこで難癖付けて昔の仲間を粛正して帝位を築く。しかし、1399年の靖難の役で反乱軍に帝位を奪わる。奪ったのは朱元璋の側室の子だったが正当性のない即位だったので皇帝となった永楽帝は苦しんだ。

 

我が国は室町時代に突入しており3代目の義満の時代です。義満は雄略天皇以来行っていなかったチャイナへの朝貢を狙っていた。朝貢自体が儲かるし、朝貢しないと正規の貿易が出来ない。チャイナの混乱を知っていた義満は2通の国書を持っていた。永楽帝が反乱に成功した場合と、失敗して建文帝が防衛した場合の2通だ。先にも書いた通り永楽帝は勝ったが帝位を簒奪したので悩んでいたところ、義満の歯の浮くようなおべんちゃらの国書に大喜びしたそうです(笑)

室町時代はこのように一瞬で敵味方が入れ替わるのは普通だったそうで、楠正成みたいな一本気で生真面目な人間では生き残れない。

 

明によって南の領土を奪われて北へと避難したモンゴルですが、その後も明の領土を荒らしまわります。1449年に起きた土木の変では皇帝がとっ捕まり人質にされる始末です。これでビビった明は万里の長城を作り直します。もともと長城は秦の始皇帝の時代の物でしたが、それよりも南に移動させて引きこもります。150年間も長城作りをしたそうです。

 

 

いつものように北方遊牧民族にいじめられて、さらに豊臣秀吉による唐打ち(朝鮮出兵)に脅かされて、とどめは失業者出身の李自成が率いる盗賊団に追い詰められて、最後の皇帝は自分で首をくくった。乞食坊主の作った国が同じような素性の男に滅ぼされる・・・皮肉な国だった。

 

 

1636~1912年まで。北方狩猟民族である満洲人ホンタイジがモンゴル民族の王が持つ玉璽を受け継ぎ、満洲・モンゴル・高麗系漢人(モンゴル時代に拉致された朝鮮人)の3部族の長になり清を建国した。その8年後に明が滅びその領地を受け継ぐ。その後はチベット仏教とイスラム教を保護し現在のチベットと東トルキスタンを保護国化する。

清朝は一国ではなくモンゴル人・ウイグル人・チベット人・漢民族そして満洲人の連合王国です。久しぶりに万里の長城以南に住む漢民族の国であった明も、やはり300年弱で滅んでしまった。チャイナの国は300年が寿命なんです。中国4000年の歴史???なにそれ(笑)

 

我が国は徳川260年の泰平に甘んじている時代です。限定貿易である鎖国が良かったのか?悪かったのか?は意見が分かれるところですね。戦国時代辺りから欧州人が世界中をうろちょろして、弱いところは植民地化されてます。我が国もチャイナも強かったので植民地にされなかったことは確かです。平和は叫んでもダメで軍事力で買うんです。これが世界史の常識ですね。

 

 

これは英国人が書いた風刺画です。1793年にマカートニーなる英国人が清に貿易を求めに来た時です。清朝絶頂期の乾隆帝の80歳の誕生日でした。お祝いにこじつけて貿易をせがみますが、英国から買うもんないから帰れと言われすごすご帰る結果でした。ここまでは清朝の方が上です。お隣のインドもまだ独立は保ってますがヤバイです。

欧州ではフランス革命がすでに起きてますから、しばらくアジアには目を向けませんが、この47年後に起きるのがアヘン戦争ですね。

 

我が国は徳川家斉の時代です。このお方は実に50年も政権の座にいましたが、政治に全く関心がなく子作りばかりしてます。実に53人も作りました。臣下はみな養子先や婿入り先ばかり探しています。庶民は化政文化で浮かれてます。ヤバイです。

 

1840年 アヘン戦争 1851年 太平天国の乱 1856年 アロー戦争 1862年 イスラム教徒の乱 1884年 清仏戦争 1894年 日清戦争 1900年 義和団の乱 1904年 日露戦争

内乱に対外戦争に最後は自国領土で他国が勝手に戦争してる(泣)

しかも故郷の満洲で・・・・

そして1911年の辛亥革命でついに清朝は終わりを告げます。もしろ71年間も内外と戦って持ちこたえたのですから、チャイナの力を甘く観てはいけませんね。戦乱に慣れているのと負けることに慣れている、これがチャイナの強みなんですよ。

 

中華民国

 

1912~今日まで。多くの書物で辛亥革命は孫文が起こしたとありますがこれは嘘です。孫文はそれまでに10回革命を起こし全て失敗しており、当時は米国にいたんです。新聞で知って戻って来たに過ぎません。ロシア革命時のレーニンやトロツキーと同じです。革命を成功させたのは日本の士官学校で教育を受けた軍人達ですが、有名人で英語もしゃべれる孫文を総統に担いだに過ぎません。中華民国は独立当時は南部の17州だけでそれ以外は清朝の領土でしたが、袁世凱と協力して最後の皇帝溥儀を退位させて清朝の領土を得ます。しかし袁世凱の死後は各地で軍閥が台頭しバラバラになります。いつものチャイナのパターンですね。

 

 

1922年のワシントン会議の際に米国が「チャイナを我々の仲間に入れましょう」といったときに、フランスさんが「チャイナ?それ誰のこと?」と尋ねたところ各国は???だったそうです。

 

我が国は1931年に出先機関の関東軍が張学良(緑色の領土)を追い出して満洲国を建てます。当初日本政府は反対していたのですが、5・15事件で犬養毅首相が暗殺されると、斎藤実内閣の内田康哉外務大臣が焦土演説を行って国連を脱退して満洲国を承認します。

リットン調査団(つまり英国)は相当我が国に配慮したのですが、内田という馬鹿がそれを理解出来ずに脱退しました。責任が松岡洋右に転換されてますが、松岡の上司である内田康哉の失策です。

 

中華民国の総統となった蒋介石は、ソ連の手先である毛沢東を追い詰めますが、部下のはずの張学良に裏切られて手を組む羽目になります(西安事件 1936年)毛沢東の狙いは蒋介石と日本を戦わせて疲弊させ、最後は自分がチャイナを乗っ取る作戦です。後に毛沢東は日本軍のおかげで建国できましたとお礼を述べています。1937年から敗戦の1945年まで行われた支那事変(日中戦争)は、毛沢東の仕業で間違いないでしょう。その作戦にわざと乗ったように見える近衛文麿もソ連のスパイ説があります。近衛の側近はソ連のスパイや共産主義者で溢れていましたからね(ゾルゲ事件 1941年)

 

蒋介石は日本との戦闘においては連戦連敗でしたが、同盟国の米国が日本に勝ったので戦勝国の仲間になれました。負けることに慣れているチャイナの強さ発揮です。戦勝気分もつかの間、仲間のはずだった毛沢東との内乱になり(国共内戦)、支那大陸から追い出されて台湾に逃げ込みます。それでも国連の常任理事国だったのですが、1971年にその座も日本と戦ってもいない毛沢東の中華人民共和国に奪われます。その原因を作ったのは実は我が国なんです・・・・・米国がソ連に対抗するためにチャイナと手を組んだと言われてますが、米国にそんな決断をさせたのが我が国なんですよ・・・・すんません、ほんと。

 

中華人民共和国

 

1949~今日まで。蒋介石は確かに我が国との戦いでボロボロでしたが、それでも国共内戦は蒋介石に軍配が上がると当初は思われていました。毛沢東が勝てたのは米国が蒋介石への軍事支援を打ち切ったからで、それをさせたのが米国内にうじゃうじゃいたソ連のスパイと共産主義者だったのです【朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作 江崎通朗 PHP新書 第4章】ソ連の工作恐るべし!

毛沢東は建国間もなくして朝鮮戦争(1950~1953年)に駆り出されます。スターリンの命令です。この戦争は我が国の目と鼻の先で行われましたので、福岡では空襲警報が鳴り響きます。追い詰められた韓国は山口県に臨時政府を置くことまで検討してます。

 

朝鮮戦争はソ連・チャイナの後ろ盾の北朝鮮と米国を中心とした17カ国の国連軍の戦いです。我が国は国連軍の後方支援ですから実質的に参戦しているようなもんです。相手はそう見ていますので日本国内で手先の共産党員と朝鮮総連がテロ行為で大暴れしてます。全部で265件の事件を起こしてます【朝鮮戦争と日本・台湾「侵略」工作 江崎通朗 PHP新書 P288】憲法9条があるから戦争に巻き込まれないのだ!!は嘘で十分に巻き込まれましたとさ(苦笑)

 

世界中がこの戦争に目を奪われている間に、毛沢東はなんとチベットを侵略してます。チベットは宗教かぶれの平和ボケでしたので、あっ!という間に占領されました。さらに韓国大統領の李承晩は味方である日本から竹島を占領してます。我が国は自衛隊の前身となる警察予備隊というちゃちな装備しかないうえ、それどころでないのであっ!という間に奪われました。米国もそれどころでないので見過ごします。

毛沢東も李承晩もしてやったりです。

 

毛沢東はその後、大躍進政策(1958~1961年)と文化大革命(1966~1976年)で自国民を6500万人くらい殺してます【共産主義黒書 コミンテルン・アジア編 クルトワ・ステファヌ他】このめちゃくちゃな毛沢東を最後まで褒め称えていたのが朝日新聞ですね。

 

 

左翼は子供を利用します。反日左翼新聞社の「朝日小学生新聞」や「毎日小学生新聞」では出鱈目な政権批判を繰り返し子供たちを洗脳してますよ。毛沢東は紅衛兵を作り、ポルポトはクメールルージュを作りました。子供が大人を弾圧して殺す世界です。日本共産党も60年安保や70年安保で学生を煽りました。現在でもチャイナは我が国の大学内に孔子学院を作ってます。海外では工作機関として排除されてるやつです。北朝鮮の信奉者が大学には沢山いて拉致にも関わっているようです。生徒を騙して北に送り込んでいるようです。

日教組は毛沢東やポルポトと同じです。