讃岐の土豪である香西一族の面々が、歌を詠んでいる記録があるのをご存じでしょうか。最も古いものは、「白峰寺文書」の中に出てきます。応永21(1414)128日、讃岐守護で当時の管領でもあった細川満元が、法楽和歌会を催して、百首及び三十首和歌を讃岐国頓證寺へ納めています。その百首和歌の中に香西常建と香西元資の詠んだ歌があります。

 七夕

   かちの葉のたむけもうくる中になをうれしき君かみつくきの跡 (香西)常建

夜燈

   ともし火のきえぬ光や夜もすからひとりおきゐる友となる覧  (香西)元資

このように、香西常建は七夕の題で、香西元資は夜燈の題でそれぞれ歌を詠んでいます。常建の歌ですが、梶の葉(かちの葉)は、七夕の季語、そして水茎の跡(みつくきの跡)とは筆跡のことで、捧げられた梶の葉の中に思いを寄せる人の名と字を見つけて、香西常建は非常に喜んだという意味が込められているようです。もしかすると、その人と常建の関係がうまくいきますようにとの願いが書かれていたのかもしれません。非常にロマンチックな歌となっています。元資の歌は、夜中に目が覚めてみると、灯火が消えずに残っており、自分とその灯火を重ね合わせているようです。香西元資はこのとき何か思案にふけっていたのでしょうか。

出典『大日本史料』第七編之二十、434-470ページ。

 

文明17年と18(1485,6)225日に、細川政元が山城国北野社(北野天満宮)において、法楽和歌会を催しています。その和歌会に香西彦次郎長祐が参加しています。残念ながら香西彦次郎長祐の歌は記されていません。

出典「二月二十五日一日千句御発句御脇第三」

『大日本史料』第八編之十七、83ページ、同第八編之十八、220ページ。

 

延徳3年(1491)33日に、細川政元は馬の買い付けのために奥州(実際は越後)へ赴きます。その旅に香西又六元長や冷泉爲広らが同行しています。その途中の311日に、加賀国白江荘(シライ)に至ります。細川政元が道端の桜を見て歌を詠みます。それに続いて、冷泉爲広、香西元長、上原元秀、鴨井元朝、波々伯部元教も続けて歌を詠みます。どんな歌でしょうか。

細川政元は「諸人ノ詞ノ種ト開出る花ハウキ世ノ春ト友カハ」と詠みます。それに対して冷泉爲広が「ナカメステヽ此一本ハスクルトモ詞ノ花ヤ跡ニノコラン」と続けます。次に香西又六元長が「山高ミヒトエニ春ノ色ナラテ雪ニ花サク遠近ノ里」と詠み、さらに、上原元秀が「行末ノホトコソシラネ今ハヽヤ心ヒカルヽ花ノ面影」と詠みます。続けて鴨井元朝が「面影ヲ心ニフカクトヽメスハイカテ過マシ花ノ下道」、波々伯部元教五が「一本ニ心ハトメシ道ノヘノ袖モヽスソモ花ヲ分ナハ」と次々と歌を詠みます。

次に、「山ニ残雪アリテ花モ又開ケレハ」と細川政元が詞を発します。続けて冷泉爲広が「花ニノミ心ウツサハ消カテノ雪ヤヒトヘニ我ヲウラミン」と詠み、鴨井元朝が「一シホニ心ウツセト消ヤラテ花ノ色カル峰ノ白雪」と続けます。なんと、細川政元一行は即席の歌会を催していたのです。それで、細川京兆家内衆の歌に対する関心は、非常に高かったことが窺えます。

『冷泉家時雨亭叢書六十二巻、爲広越後下向記』

 

明応元年(1495811日に、香西藤五郎元綱が歌会を主催します。この藤五郎元綱は、下香西家の香西元定の父親に間違いないでしょう。歌会が行われた場所は、讃岐ではなく、山城国内と考えられます。この歌会に『松下集』の作者である僧の正広も参加しています。正広の歌は三首載せられているのですが、香西元綱の歌は載せられていません。これから、香西藤五郎元綱も讃岐と山城を行ったり来たりして、時々歌会に参加していたことが明らかになります。

出典「松下集」『新編国歌大観』第八巻357ページ。

 

『身延文庫本『雑々私用抄』及び『甚深集』の紙背文書について』(『立正史学第五十一号』所収)の中で、桃浩行先生は、香西又六一座の連歌会に言及し、次のように述べています。

  901号文書の百韻連歌懐紙の名残りの折は、句上げを掲げて「元長二、元秋一、元能一、方上一、内上一、筑前一、禅門一、宗純一、氏明一、秀長一、泰綱十二、元堯七、(・・・七人略す)長祐十二、業祐一」とし、句数は少ないながら、香西又六元長を筆頭とし、彦六元秋、孫六元能(注、孫六元秋、彦六元能が正しい)四人置いて、真珠院宗純と香西兄弟が上位に並び、一人置いて生夷左京亮秀長の名が見える。さらに伊地知鉄男氏の教示によれば、長祐は香西彦二郎長祐であり、この一座の文芸作品は、年代は不明ながら、この背紙文書の世界を一堂に会して見せた好個の記念物というべきであろう。

『立正史学第五十一号』56ページ。

  桃先生は、歌の内容そのものは紹介しておられません。いずれかの日に、この連歌会の内容が明らかになることを期待したいと思います。

 

  最後になりましたが、香西宗可(伊賀守佳清)が、追善のために詠んだ歌があります。これは個人の方が所蔵されています。その内容は以下の通りです。

 

     秋八月十九日

   花林昌春信女

     追善

                         香西宗可 喩す

  ながき世のふけ行までもしたひつる月ぞうらめしかくれいるやま

  むしの音も秋の別れやなげくらんいま身のうへと袖しぼるなり

  あすまでと世をな頼(たのみ)そ宣(あきら)なき露のいのちのかぎりしられず

  見ずしらぬ人も馴(なる)れバこひしきにしたしき中のわかれかなしも

  公も神も皆かりの席に住ながらさきだつ人ぞ哀れなりけり

  ふしてミつ起きてもつらき世中をはらい棄たる身やうかむらん

 

花林昌春信女とは、香西宗可の後妻であった、日比の四宮隠岐守の娘だと思います。死んだ妻を思い出しながら詠んだ歌のようです。どの歌からも、なんとも悲しく、生きるのがつらい気持ちがひしひしと伝わってきます。自分の代で長く続いた家が没落し、しかも最愛の妻を失って、悲嘆に暮れている香西宗可の心境をよく表しているようです。この懐紙は、大庄屋を勤めた植松家が、大正時代に没落したときに他の人の手に渡ったのでしょう。

このように,香西一族の文芸活動について見てみると、今まで知られていなかった香西一族の新たな面が見えてきて、面白く感じるのではないでしょうか。