「男社会の罠ってなに~?」

と共子のワイングラスとつまみを盛った皿を持ってきた沙羅が面白がって聞くと、波平も

「僕たちも、その罠にかかってたりするのかしら」と湯呑を口に運びながら、笑いを含んだ声でかぶせる。湯呑の中身はほうじ茶なのか、香ばしい匂いが漂ってくる。

そういえば、「彼、お酒がダメやねん」と沙羅から聞いた気もした。

沙羅との会話の90%は共子の愚痴と噂話と恋愛相談で、9%は沙羅からの歯に衣着せぬ感想で、1%の沙羅自身の話題のとき、共子は今しがた沙羅から言われた言葉によって慰められているか落ち込んでいるか、酔いが回って朦朧としているかのいずれかなので、ほぼ上の空なのだった。

「はい、沙羅の皿はまっさらよー」と親父ギャグを繰り出しながら取り皿を配る沙羅の端正な横顔を眺めながら、贅沢だな、と思う。この世の誰が、こんな美しい男のプライベートな話を上の空で聞き流せるというのか。

もっとも美形に目がない朝倉依子なら話も聞かず抑え込みに入るだろうが。

友人同士の二人のこと、沙羅にこれまでそのような危機は訪れなかったのか?ある時ふと疑問に思い沙羅に尋ねたら「朝倉と会うときは『対・朝倉仕様貞操パンツ』に履き替えるねん」とウィンクして答えたが、こわばった表情はまんざら冗談にも見えず、朝倉恐るべし、をあらためて実感したものだ。

「まず、男が働いて女が家で子供の面倒を見るというパラダイム自体おかしい。石器時代かよ、と」

草子の得意げな声で共子は我に返り、諦め気分でワイングラスに手をのばした。

中途半端なフェミニズム論を一説ぶったら気がすんで家に帰るだろう。

「重いものを持ち上げるような物理的な力の要る仕事か、男の性を売る職業じゃない限り、『男の仕事』は女もできることばっかりやん。『女の仕事』も同じ。むしろ、子育てなんて、体力のある男の方が向いてるで。OL的な仕事に適してる男もいっぱいいるはずやわ。料理人だって男の方が多いやろ?沙羅さんもそうやん」

「まあ、僕の場合は微妙やけどね」沙羅は目じりに皺を作り、草子は続ける。

「女が家庭に縛り付けられる合理的な理由は何一つないよ。それやのに子供を持った途端、女だけが仕事を辞めたり、キャリアアップを諦めたりせなあかんのはなんで?それはひとえに、『働き方』そのものが男の都合で成り立ってるからやねん」

そこまで話した草子は柚子胡椒ののった豆腐に、はしをスッとすべらせて小さな塊を切り分け口に運んだ。

「そっか。会社勤めだと、残業とか、夕方からの会議とか、取引先の都合に振り回されて遅くまで対応せなあかんとか、子育てしてない人間の働き方がスタンダードみたいになってるもんね」沙羅はサラリーマン時代を思い出しながら言う。

「そやろ。そんな働き方ができるのは独身か、子供がいても子育てしてない人間だけやねん。つまり、そもそも子育てを前提にした社会じゃないってことや。だから、女は子供を産んだら仕事を辞める破目になって、経済的に男に頼らざるを得なくなるから社会的な立場が弱くなる。すると社会はますます男の都合だけで動くようになる。この悪循環から抜け出さん限り、男女平等なんてお題目、鼻くそほどの価値もないわけよ」

「鼻くそって・・・」共子はそこだけに反応する。独身の自分には全くカンケーないからだ。万が一結婚できたら絶対専業主婦になるつもりだ。「夫の海外赴任」に同行するのが昔からの夢であった。草子の演説を聞き流しながら、夫の海外転勤が栄転であることをさりげなく匂わせつつ、「言葉もわからないいし、これから勉強しなきゃ」とさも困ったことのように主婦仲間に自慢する自分という夢想に耽った。

それは保守的な母親の影響かもしれなかったが、「女の幸せ路線」から脱線しまくりの妹も、逆の意味で「影響」をうけているのかもしれなかった。

「子育てしながらバリバリ働いてる女もいるやん、って言う人もいるかもしれんけど、そんなん環境に恵まれた人だけや。若いじじばばがいて、子供の世話を任せっきりにできるとか、ダンナが突然変異的に子育てに目覚めたイクメンとか。じじばばに頼れない、特別な能力があるわけでもない女の方が大多数やねん。そんな女が普通に働ける社会にならんとあかん。『男並みに』働く必要なんてないってことにみんな気付くべきやわ」

「なるほどね。そのへんの不自由さは男がシングルファーザーにならないと、理解できないかもしれませんね」波平が神妙な顔でつぶやくと、沙羅は、湯呑を両手で囲むようにしている彼を見つめた。

「西村さんには息子がいるねん」

「えーっ」共子は素っ頓狂な声を上げ、ワインを吹き出しそうになった。

波平は20年以上前、幼なじみの女性と結婚して、子供も一人もうけたが、やはり、「本当の自分」を隠し通すことはできず、ほどなく離婚に至ったという。

共子は内心<波平に負けた・・・>という敗北感に打ちのめされていた。波平ですら結婚した過去があり、子供までいるという現実はショックだった。

「へえー、子供作れたんや!それで?離婚して?息子さんは?」

草子は不躾な興味を隠さず尋ねる。

「僕が引き取りました。彼女は僕との結婚生活を清算してまったく新しい人生を生きたいって言って」間近で見ると彫りが深く、異国人のようにも見える波平は相変わらず伏し目がちに、控えめな声で話した。

「小さいときは必死でしたよ。僕はフリーで仕事してたから、なんとか時間をやりくりして。中学上がるまで実家の母親にもだいぶ頼ったなあ。子供もしんどかったと思うけど。今は東京の大学に通ってますわ。僕は一人息子やったから、それでもまだ楽やったんかな。草子さんみたいに3人育ててたら、苦労も多いでしょ?」

「そりゃもう、大変!毎日戦争。小さい頃のことなんて、あんまり覚えてないもんね。必死過ぎて。ウチなんて、パパがあんなんだからさ。ママ雑誌とか見たら、子供の成長に余裕で向き合って楽しんでる人たちばっかりで落ち込んだわ。私、全然出来てないわって。今は少しマシかな。上の子は思春期やし、真ん中は理屈っぽいし、末っ子は我儘放題やし、好みもばらばらやから、喧嘩も多いけど、女ばっかりやから比較的落ち着いてるかも。男の子はいつまでもガキで大変みたいやね」

「そうやねえ。甘えん坊というか。ウチは特に母親がいなかったから僕も甘かったし。小学校までは一緒にお風呂も入ってたしね」

「へ~かわいいね」

波平と草子が子育て談義に花を咲かせている間、沙羅は新しいおつまみを作りにキッチンに立った。共子も空いた皿を持ってあとに続いた。こじんまりしているが使い勝手のよさそうなキッチンで、カマンベールチーズを小さな木のまな板の上で切りながら、沙羅が小声で問う。

「ねえ、どう?僕の平井堅」

磯野波平ではなく平井堅という認識だったのか。濃い顔は繁華街で職質される方面の外国人にしか見えないのに。というか、あの頭髪モンダイはそっちのけなのか。

期待いっぱいの顔で返事を待つ沙羅に、共子は目をそらしながら答える。

「そやね。ええ人そうやん」

「でしょ?優しいし。今度は続く予感がするねん」

夢見る乙女の表情に、共子は苦笑する。

男運がないことにかけては、沙羅も自分といい勝負だ。この数か月は月替わり定食のごとくであった。男にも女にもモテるのは昔から変わらない。大学時代は自分がゲイであることを、周囲にひた隠しにしていて、親友の共子をある種、「女除け」として使いながら、恋愛は大人しめに楽しんでいた。あの頃に比べたら、今は一目でゲイとわかるカップルもよく見かけるようになったし、欧米ほどではないものの、かなりオープンになってきたから、沙羅も相手を探しやすくなったのかもしれないが、それでもヘテロの恋愛と違って不自由なのだろう。付き合い出しても、うまくいかないことが多かった。


二人が居間に戻ると、草子の演説が再開されていた。

「企業のトップになってたり、国会議員になってたり、一見『進歩的』に見える女はもっと性質が悪い。彼女たちはあくまで男が作ったルール内で出世したわけで、古いパラダイム下で認められてる女は、新しいパラダイム下で自分は勝てないってわかってるから男社会を変えようとはしないねん。って、いうようなことを文芸評論家の斎藤美奈子が上手に書いてたわ」

「受け売りかいな」

共子はカマンベールの蜂蜜がけを口に放り込みながら、茶々を入れる。草子は共子とは似ないぱっちりした二重瞼の大きな目をさらに見開いて言い返す。「まさに私が常々理不尽に思ってることを美奈子がズバッと喝破してたんやん」

「美奈子って、トモダチか。まあ、あんたの気持ちはわかったから今日のとこは早よ帰り」共子は姉らしく諭す。「それに、なんぼセンセイがすぐ帰るのわかってても、子供置いて出てくるのはやめや」

「まさか、置いてきてないよ。ベビーシッター頼んだし」

そうだったのか。木下はほったらかしと言っていたが、母親が家にいないことをそう表現したのだ。草子風に言えば硬直した古い価値観の権化のような男だから。

「でも、草子さんみたいなお綺麗な女性が、フェミニストとして表に出たら世の中の見方も変わりそうやね」と波平は草子に同調する。新参者としての気遣いなのか、本心なのか、常に伏し目がちなその表情から読み取るのは難しかったが、「お綺麗」は本心だろう。姉から見ても40にしては劣化していない。

いつだったか自分に纏わりついている会社の後輩が送って寄越したと草子に見せられたメールにはこうあった。

<長い睫に縁どられた大きな瞳と、なだらかなカーブを描く鼻、情熱的な厚い唇が絶妙な配分で並んだお顔は、まるで澄んだ水に、花びらや、雪片や、ひらひらと泳ぐ金魚を浮かべて作ったかのように美しい>

その後輩は女子だという。思い込みの激しさが集約された安っぽいポエム的文面に、草子は「コピーライター失格やろ」と苦笑しながら削除はしなかった。理屈っぽいのかオープンマインドなのか、クールなのか情深いのか判断しかねる性格で、後輩女子が言うほどの美人ではなかったが男女問わず人を惹きつける魅力があるのは確かだった。姉妹の容貌にほとんど共通点はないが、父親譲りのやや四角張った輪郭のみがかすかに血のつながりを証明していた。

「そやねえ。有名なフェミニストの先生方は皆さん、さもありなん、って顔してはるから説得力ないよね」本人が聞いたらしばらく立ち直れないようなコメントだが、沙羅が真顔で言うと可笑しかった。「それで、結局なにが男社会の罠なわけ?」

「つまり、さもありなんってお顔のフェミニストばっかりをメディアに登場させて、女が無意識に『男女平等』に嫌悪感を抱くように仕掛けてることじゃない?」場に慣れたらしき波平がおどけて答えると、みんなが笑った。


草子の「家出」は午後9時に終了した。「明日早いし帰るわ」と何事もなかったように席を立つ妹に、共子は拍子抜けするやら腹が立つやら、まあ、なんだかんだ言ってもこの子は母親なのだと一人気持ちを収めた。

「気をつけてね。おばちゃんはひったくりに狙われやすいから」

旧友の現実的だが気の滅入る忠告に送られて表に出ると、風は止んで、辺りはしんと静まり返っていた。