世界文化遺産


華城は正祖(朝鮮第22代王)の孝行心が築城の根本となっただけでなく、党争による党派政治の根絶と強力な王道政治の実現のための遠大な政治的抱負が込められた政治構想の中心地として建てられたものであり、首都の南の国防要塞として活用するためのものであった。

華城は總理大臣蔡濟恭の総括の下、趙心泰の指揮で1794年1月に着工し、1796年9月に完工した。築城時に擧重機、ロクロなどの新機材を特殊に考案・使用して巨大な石材などを運んだり、積むのに利用した。

華城は築造以降、日帝強制占領期と朝鮮戦争を経て城郭の一部が破損・損失したが、1975~1979年まで築城直後に発刊された"華城城役儀軌"に基づき、ほとんど築城當時の姿に補修・復元して現在に至っている。

華城は中国、日本などに見られない平山城の形態であり、軍事的防御機能と商業的機能を兼ね合わせており、施設の機能が最も科学的、かつ合理的であり、また実用的な構造となっている東洋の城郭の白眉であると言える。




歴史的背景


正祖大王は父である思悼世子に対する孝行心と民のための政治改革のために、そして引退後水原で余生を送るために、国力を総動員して水原という新都市を建設し、華城行宮を新築し、華城を築いた。


物資調達


華城を築城するために石、レンガ、木材などの多くの資材が必要であった。正祖は華城を築く直前に、資材運びを楽にするための道路を新たに作った。そしてこれらの資材を簡単に運ぶために新しい荷車を作り、重要資材を規格化して荷車に積むのにも一定の法則を立てた。これらの方式は正祖以前の時代と違う、新しい学問である実学的影響により作られたと見られる。


擧重機


華城をさらに安全に、速く、簡単に築くために、丁若鏞により韓国の実情に合わせて考案されたのが擧重機である。

當時の土木技術水準を考慮すると、このように秀麗、堅固ながらも比較的少ない経費で、また2年半という短い期間で城が完成できたのは、計画當時から実学者である溪柳馨遠や茶山丁若鏞などの経綸と知恵を合わせ、背負子から擧重機などの韓国固有の各種器具までを活用したからである。




美学の都市華城

正祖により計画的に造成された新都市水原は、18世紀の朝鮮の新しい学問である実学の影響を多く受けた。実学とは民の生活に役立つ実質的な学問を意味するものであり、農業、商業、科学などの発展を導いた。この実学により、華城築城の際の機械や器具の開発と活用は民の労を減らし、また、経費を節減して工事期間も短縮した。


民のための華城


華城には正祖の愛民精神がふんだんに込められている。設計を変更してまで、民の住宅を崩さずに城内に取り込んだこと、労働者に人件費を支給したこと、さらに暑さをしのぐ滌暑丹、体を保護する濟衆丹などの丸薬を授けたこと、蒸し暑さと人件費未払いによる工事の一時停止などは愛民精神の所産である。民を心から愛さずしてはあり得ないことである。




華城施設の特徴

東西南北の四大門を建設し、すべての城門は保護する瓶の形のような甕城が設置してある。また、適材適所に城壁から突き出して敵を制圧できる雉城を置き、墻の高さを高くして兵士を保護しようとしていた。要所要所に秘密の門を設置して非常事態に備え、南北水門を置いた。さらに、軍事的な威厳を示す將臺を東と西に建設した。

大砲を装置する砲樓を作り、城壁にを設置した。