和也と千鶴にまつわる、有りそうで無さそうなお話。
判決と彼女/甲楽わん
気が付くと木ノ下和也は、真っ暗な世界にいた。明かりも音も何もない。
(一体何だよ、ここは。一体どうしたっていうんだよ)
真っ暗闇に強い不安を感じていると、背後からコツコツと足音を立てて誰かが近づいてくる。
「だっ、誰か、いるんですか!?」
和也はぎょっとして身構えたが、その声を聞いてすぐに安心した。
「え?あなた、あなたもいるの…?」
聞き慣れた声の主は、和也が思いを寄せている女性、水原千鶴だった。和也は不安を吐き出すように水原に声をかける。
「水原、水原なのか?俺!俺だけど!」
「うん。でも、いったいココはどこなのよ」
「分かんねーけど。水原居てくれて、スゲー安心した」
「まぁ、はぐれるよりは二人でいた方がマシね。さすがに私も気が滅入りそうだったわ」
こんな意味不明な状況で、一人きりはきつすぎる。水原がいてくれて本当に良かった。和也はとりあえずの安寧を得て、ほっと緊張していた肩を下した。
しかし、ここがどこなのか分からない。出られる保証もない。何か出られる方法はないのか。
そう思って真っ暗闇の辺りを見回していると、急に光が差して、眩しさに目の前が真っ白になった!思わず両腕で顔を覆う。
「うぁ!」
「何!?」
和也と水原が声を上げて戸惑う中、それを引き裂くように高らかに女の声が響いた。
「ほっ、ほっ、ほっ。よく来てくれたぞ。諸君!」
和也は、はじめ眩しさに目がくらみ、その正体が誰なのか分からなかったが、徐々に輪郭がはっきりし始めた。
ひな壇らしき場所に、艶やかな装飾の施されたチャイナドレス風の衣装に身を包んだ女が、扇子を振るいながらこちらを見ている!その顔を見るとよく見慣れた人物だった。
「ゑ?八重森さん…?」
何これ?これを仕組んだのは八重森なんだろうか。
それに八重森の着ている服がおかしい。ぱっと見はコスプレに見える。チャイナドレスの胸元は開けて谷間がはっきり見えるし、スリットからは柔らかそうな太もも丸見えだ。というか八重森も片膝を前に突き出し、あからさまに見せている。普通にエロイ。しかし、奇妙なのは頭の上には短冊上の冠。明らかにチャイナドレスとは合っていない。というか、これはチャイナドレスというより、全く別のものに見える。閻魔大王のコス…?
「裁判を始めるっス!」
八重森がそう叫ぶと、一瞬にしてこの空間は法廷へと早変わりする。意味が分からな過ぎて、和也は戸惑ってしまった。
「今、かのかりの読者は大いに混乱しているっス!それもすべて水原さんのせいっス!」
「私、別に何かした覚えは…?ほら、人気投票だっていつもNo1だし」
「いいや。水原さんは、師匠の告白からずっと逃げ続けていましたよね。キスまでしておいて、『調べてみる』ってなんなんスか!?正直、その曖昧な態度に不満を募らせた読者も多かったはずっス」
「…!?」
「そう!読者は早く水原さんと師匠がイチャイチャしてるところが見たいっス!」
「だから、それは、待って欲しいって」
「あー、言いわけは聞き飽きた!!!今日こそ、判決を下すっス!」
八重森は水原の反論を押しのけると、高らかに右手を掲げた。その瞬間、天井から巨大な垂れ幕がどーんと降りて来る。
『恋愛裁判♡千鶴ちゃんは和也のことが好き?』
「…!?」
「…!?」
裁判で好きかどうか決めるなんて、あまりに強引すぎる。あまりの事態に、和也と水原は唖然とする。
「ちょっと、水原は『調べてみる』って言ってるわけだし、外野がとやかく言うことじゃねーっていうか!」
「そうよ。前に説明したじゃない!まだ恋かどうかなんて」
しかし、八重森の勢いは収まらない。
「そんなこと言ってるからダメなんス!このままじゃ、ずっと曖昧な関係から抜け出せないっスよ!水原さんが決められないなら、客観的な事実に元づいてウチらが決めるっス!」
何だよ、この状況!?気づいたら、和也と水原は法廷の証言台に立たされていた。
******
コンッと裁判官の八重森が木槌を鳴らした。
「これより開廷するっス!なお、判決が下るまで現実世界には帰れないので、おとなしく審議を受けるように」
証言台を挟んで、法廷の右側には『好き』派の座席が、左側には『好きじゃない』派の座席が設置されている。
『好き』派の席には、いつ来たのか分からないが、栗林がスーツ姿で何やら書類を抱えて眼鏡を光らせていた。一方、その対面側に位置する『好きじゃない』派には青のリボンに制服の瑠夏が憮然とした顔で腕組みをしている。
いったい、どんなキャスティングだというんだ。確かに栗林は、水原が和也にキスしたのを見て、仕事以上の気持ちがあるんじゃないかと疑っていた。瑠夏は、水原が和也に恋しているなんて絶対に認めたくはないだろう。しかし、裁判を始めるとか、どんな状況だよ。
そして傍聴席を見れば、真剣なまなざしの和也の両親と和、木部の姿。どうやら判決を見守っているらしい。もし水原は和也のことが好きではないという判決が出たら、嘘をつき続けていたことは許してもらえないだろう。絶交は免れまい。
「なお、『好き』という判決が下された場合、晴れて二人は本物の恋人同士ということになるッス。しかーし!もし『好きじゃない』という判決が出た場合、二人にはただのレンタル彼女と客の関係になってもらうっス。今後、プライベートな関係は一切禁止っス」
「はぁ?プライベート禁止!?」
プライベートな関係が禁止となれば、実質、即刻失恋を意味する。あまりに急な話に和也の胸は不安でいっぱいになる。『調査』が始まったばかりの今、『好きじゃない』の判決が下される可能性の方がずっと高い。これから少しずつ距離を詰めようとしていた計画が水の泡だ。
「ふん。和也の彼女は私なんです!『好きじゃない』ってこと必ず証明して見せます!」
『好きじゃない』派の瑠夏は、威勢よく宣言する。そんな判決になったら、マジで終わりだ。
「心配するな、和也!千鶴さんの『好き』は、俺が証明して見せる!」
振り返ると、栗林が出っ歯の笑顔を見せながら、グッドラックと親指を立てている。そう言ってくれるのは嬉しいが、正直頼りない。その笑顔が、むしろ和也の不安を煽る。
隣の水原は、苦い顔で俯いている。水原もこんな裁判で決められるのは嫌で当然だろう。
和也は、『好き』の判決が下ってくれと願うしかない。いつか好きだと言ってもらえるように頑張るから、『好きじゃない』の判決だけは下ってくれるな、と願うしかないのだ。
裁判長の八重森が、またトンッと木槌をたたくと、裁判が始まった。本格的に審議が始まるようだ。
「本件は、被告人水原千鶴(本名、一ノ瀬ちづる)に関する審議となるっス」
「準備完了しております」
「こちらも、問題ありません」
『好き』派の栗林がまたキラッと眼鏡を光らせると、『好きじゃない』派の瑠夏がそれを撥ねつけるようにツンと強気な態度で答えて見せた。
「では、栗林さん、訴状を読み上げてください」
そう促された栗林が眼鏡を光らせる。ゴホンと一度咳払いをすると、普段のへなちょこキャラに似合わぬ落ち着いた口ぶりで話し始めた。
「被告人である水原千鶴は、レンタル彼女の仕事を通して木ノ下和也と出会いました。そして、お互いの祖母に本物の恋人同士であると嘘をつきます。当初の二人は言い争いばかりで、すぐに別れたということで終わらせると約束していましたが、海で溺れたところを和也に助けられたことをきっかけに水原千鶴の態度が軟化。その後2年に渡り、嘘の恋人関係を続けております。では、こちらをご覧ください!」。
そう言って栗林が、さっそうと法廷中央に設置されたスクリーンを指さす。
(いやいやいや、クリ、どんなキャラだよ…)
和也はそうツッコミを入れながらも、栗林が右手を差し伸べた方を見る。すると、その先のスクリーンに水着姿の千鶴と和也が映る。ハワイアンズでのキスシーンが何度もリプレイされる。ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ。
『うぉーーー!にやけが止まらん!』
『もう付き合っちゃえよ』
『千鶴ちゃん素直になって~』
傍聴席の千鶴推したちからコメントが飛んでくる。法廷は、『うぁー』だの『キャー』だの『最高!』だのと言った歓声で騒然となる。
和也は恥ずかしさから面を伏せてしまう。どうしてまた、こんなものを皆にさらされなければならないのか。しかも、何度もリプレイする必要ある!?
「嘘を隠すためとは言え、千鶴さんは既に和也とのキスを済ませています。好きでもない相手とキスなどできるわけがありません。これを証拠として提出いたします」
「異議あり!!!」
早速、栗林の訴状に『好きじゃない』派の瑠夏が食いついた。
「キスの一つや二つで騒ぎすぎですよ。あれは、和也を救うための悪手!ノーカンです!千鶴さんは、私にはっきり言ってました。和也とは、そういう関係にはならないって。全部、レンタル彼女のお仕事だって」
「いいえ。キスですよ。レンタル彼女としてできる範疇を越えています。恋心があるとしか思えない」
「違います!千鶴さんは、ただ想像を絶するお人好しなんですよ。和也みたいな、情けない人を放っておけないってだけです。キスはお客さんを守るためにしたことです!」
眼鏡の下から鋭い眼光を向ける栗林と、感情全開で立ち向かう瑠夏の間に、バチバチと激しい火花が散る。
この裁判は、どうなってしまうんだ。水原と付き合うなんて認めたくないという瑠夏の気持ちも分かるが、もし『好きじゃない』という判決が出てしまったらと考えると和也の心は穏やかではない。
「良いだろう、瑠夏ちゃん。それなら、僕にも手がある」
栗林は、ふふっと笑みをこぼすと、マッシュルームヘアの髪をサラッと掻き上げた。
「裁判長!証人尋問を要求します」
「栗林さんの要求を認めるっス」
「証人の、桜沢墨ちゃんです!」
栗林が高らかに墨の名前を呼ぶと、傍聴席から、おおおおっと歓声が起こる。白のブラウスに赤のスカートという、いかにもガーリーな出で立ちで、肩をすくめながら墨ちゃんが現れた。
「墨ちゃん、こっち向いて~」
「供給が足りんのじゃー!」
「墨ちゃん、天使♡」
予想外の登場に、傍聴席の墨推しからラブコールが飛ぶ。
墨は、きょろきょろとして余裕がなく、結局俯いてしまった。相当緊張している様子だ。
人見知りの激しい墨が大勢の人の前で証言などできるんだろうかと和也は心配になる。
「桜沢墨さん、あなたは千鶴さんの事務所の後輩で間違いありませんね」
墨がアタフタしながらも、こくりこくりと頷く。
「あなたは特に千鶴さんと仲が良く、一緒にお出かけすることもあった」
また墨がこくりこくりと頷いた。
「普段、千鶴さんは和也について話すことはありましたか」
墨は、相変わらずの調子で栗林の尋問に頷く。
「では、そのとき千鶴さんは、どんな様子でしたか」
「…とっても、楽しそう。映画作ってるときは、ホントに幸せそうで、私も嬉しかった」
その発言におおお!と傍聴席から歓声が起こる。確かに、水原と特別に仲のいい墨の意見は説得力がある。それが本当なら、好きとは言えないまでも、少なくともかなり脈ありだと言っていい。墨の証言次第では、判決は一気に『好き』に傾いてもおかしくない気がする。
「なるほど。あなたから見て、明らかに千鶴さんは和也に好意を持っていたと言うことですね?」
「異議あり!誘導尋問です!」
我慢ならないという様子で、『好きじゃない』派の瑠夏が吠えた。
「裁判長、栗林さんは、証人が緊張して上手く話せないことをいいことに、都合のいい証言を引き出そうとしています!」
「異議を認めるっス」
栗林はチッと舌を鳴らすと、渋い顔をして質問を改めた。
「では、質問を変えます。あなたから見て、千鶴さんは和也のことをどう思っていたように見えましたか」
「えっと…。ち、ちづる…」
そのとき瑠夏がしかめっ面で、墨を睨みつける。
「ぐぬぬぬぬっ…!!!」
「はうっ…!」
瑠夏の小動物を狩る猛獣のような鋭い目つきに、墨が目を白黒させた。マズい。眉を吊り上げあんな目つきで睨まれたら、まともにしゃべれるはずがない。案の定、墨は押し黙ってしまった。
「あ、う、あ、」
緊張のあまり、あ、う、と繰り返す墨は、ほとんどまともに話せる状態には見えない。その顔には『緊張』の文字がでかでかと張り付けられているようだ。
言いよどむ墨を見て、栗林もマズいと顔をしかめた。大丈夫と声をかけて落ち着かせようとしたが、墨は相変わらず緊張で真っ青、パンク寸前に見える。
「う、う、うーーー」
無言のまま、5分、10分と時間が消費される。傍聴席からは、『墨ちゃん頑張って』などの同情の混じった声援が聞こえ始めた。このままでは『好き』は証明できない。
「裁判長、桜沢さんは、事前の打ち合わせで、『和也と千鶴さんはまるで本物の恋人のようにお互いを大切に思い合っている』と証言していました」
「異議あり!栗林さんは、在りもしない桜沢墨さんの証言をでっちあげようとしています!」
「なんだと!君のせいで証言できなくなったんじゃないか!?」
「言いがかりはよしてください!」
「ぐぬぬぬぬ!」
「ふぬぬぬぬ!」
また口論を始めてしまった二人を見て、裁判長の八重森が木槌を鳴らした。
「静粛に!彼女さんの意義を認めるっス。栗林さんは、身勝手な発言を慎むように」
「くそっ」
「ふんっ、当然です。裁判長、証人が答えられないのであれば時間の無駄です。証人尋問を終えてください」
瑠夏の要求に、「尋問を終えてください」と八重森が言いかけたときだ。
「はっ!」
墨は何か思い出したように顔を上げると、背負っていたバッグから何やら取り出した。
何かと思って見ると、硯と筆だ。
「ふん、ふん!」
墨が手際よく硯の上で手のひらを動かし墨を擦る。緊張から一転、真剣な顔で筆を墨になじませると、広げた紙にするすると筆を滑らせる。
墨は文字を書き上げると、バッとそれを掲げた。
『相思相愛』
力強く、美しく整った文字。その筆筋には、一点の迷いも感じられない。明々白々。墨がここまではっきり『相思相愛』だと主張することに和也は驚いてしまう。本当にそんな風に見えてるのか?
「相思相愛、だそうですよ」
栗林は眼鏡を光らせ、したり顔だ。瑠夏は、反論が出て来ないのか、歯を食いしばっている。
「証人尋問は以上です」
栗林がそう締めくくると、傍聴席はすでに判決が下ったかのように騒がしくなる。
『そうだ、そうだ!誰が見ても、ラブラブだよ』
『和也、千鶴、おめでとう!』
『くっそ。なんで和也みたいなクズが千鶴ちゃんと…!おめでとう』
下されそうな『好き』の判決に、まさかまさかと思いながら、和也の胸は高鳴った。確かに八重森に水原は自分のことが好きなんだと言われたことはあった。そのときは、八重森の勝手な思い込みだと思っていた。でも、墨から見ても、『相思相愛』なのだ。2年もの間嘘の恋人関係を続けたり、キスをしたりするなんて、やっぱり『好き』じゃなければできないのかもしれない。水原はただ自分の恋心に気づけてないだけで、客観的に見たらそれは十分『恋』と呼べるものなのかもしれない。
証言台に立つ水原は、ずっと押し黙ったままだ。きっとこんな形で気持ちを決められてしまうのは抵抗があるだろう。でも、その気持ちが本当に『好き』なら、いつかちゃんと気づいてもらえるように自分が頑張るしかない、絶対に後悔はさせない、と和也は誓う。
「待ってください!」
瑠夏はそう叫ぶと、和也の腕をつかんだ。
「和也は渡しません!和也の彼女は私なんです。私たちだって、2年くらい順調にお付き合いして、キスまで済ましています。千鶴さんと違って、私は和也の部屋にお泊りしたこともありますし、ラブホテルに入ったことだってあるんだから!和也を世界で一番愛しているのは私なんです!千鶴さんが和也のことが好きだからって、付き合えなんて、私は絶対に認めません!」
トンットンッと瑠夏を否めるように、裁判長の八重森が木槌を鳴らした。
「静粛に!彼女さんが、師匠のことをどれだけ好きなのかは、よく分かったっス。でも、恋愛で大事なのはお互いの気持ちっス。師匠が好きなのは、水原さんなんス」
その言葉に瑠夏は、唇をわなわな震わすと、泣きべそになる。ひっくひっくと何度もしゃくり上げる姿に和也はいたたまれない。
「瑠夏ちゃん、ごめん!ここまで結論を先延ばしにしてた俺が悪いと思う。でも、でも、おれは、水原のことが…」
和也は瑠夏に目一杯頭を下げた。『好き』という判決なら、罵られても殴られても、謝るしかない。
「みんな、待って!」
「…?」
突然投げられた声がする方を見た途端、和也はぎょっとした。傍聴席の群衆を左右に分かち、見慣れたシルエットが証言台へと向かってくる。
「なんだか見ていられなくて、来ちゃった」
袖口にフリルのついた白のシャツに、イエローのミニスカート。ふわっとした笑顔を湛えた麻美が、そこには立っていた。
******
どこで着替えたのか分からないが、麻美はばっちりグレーのスーツに着替えたようだ。いかにも仕事ができる女の装い。
そんな麻美を、和也は緊張した面持ちで見つめていた。カラオケでの一件と言い、ハワイアンズでの一件と言い、和也と水原の関係に不満を持っていたのは、どうやら確からしいからだ。むしろ、レンタルしていることをずっと秘密にしておいて、責められない方が不思議なくらいだった。
「千鶴さん、大丈夫。私はあなたの味方だから」
麻美は、証言台の水原に近づいてそう声をかけると、『好きじゃない』派へと移動した。ということは、やっぱり麻美は、自分と水原と付き合うことに反対なんだろうか、と和也は思ってしまう。
「麻美ちゃん、マジ、何考えてるんだ…。ヤな予感しかしねー」
和也は小さく独り言ちる。
「では、麻美さん、話を聞かせてもらうっス」
裁判長の八重森に促されると、麻美はいつものアンニュイな雰囲気から一転、眉間を寄せ真剣な顔つきになった。
栗林に向け、ひとこと言わせてもらうと言わんばかりに、左手を振り上げる。
「まだ『好き』とは限らないわ!」
「そ、そ、それはどういう意味だ…」
その鋭い物言いに、栗林はたじろいだ。麻美は、キリッとした目つきで、さらに栗林を睨みつける。
「キスをした後、231話で、千鶴さんはこう話していたわ。『別に二回目でしょ?』『ああするしかなかった』って」
法廷のスクリーンに該当のシーンが映し出された。水原は、落ち着き払った顔つきで、淡々とキスをした理由を説明している。
「千鶴さんは、女優よ。キスの一つや二つ、大したことじゃないの」
「ふふふ。何を言い出すかと思えば…。キスは、恋人たちに許された極めて神聖な行為!好きでもないのにできるはずがあるまい!」
「勘違いはいい加減にして!そう思っているのは、童貞だけよ!」
「ぐはっ!」
『童貞』という言葉に心を抉られたのか。栗林は、断末魔を上げてひっくり返った。
「キスをしたってだけで、勝手にあなたたちが盛り上がってるだけではありませんか?千鶴さんは、はっきり『大した事じゃない』って言っているんです。キスで証明できたなんて、恋愛経験の浅い、童貞たちの理屈だわ!」
「ぐはっ!ぐはっ! 」
「クリ!大丈夫か!?」
倒れこんだ栗林に駆け寄り抱きかかえると、先ほどまで鋭く輝いていた彼の眼鏡はひび割れ、泡を吹いて白目をむいていた。
「…童貞の気持ちが、リア充に分かってたまるかよ。ばたりっ」
「クリ…!クリ…!おい、起きろ!」
栗林はあまりのショックに意識を失ったようだった。
和也は顔を上げて麻美を見る。確かに、キスで大騒ぎしていたのは、和也自身とマガジン読者だけなのかもしれない。しかし、それだけでは和也は納得できなかった。
「麻美ちゃん、確かにキスしたからって『好き』を証明できたことにはならないかもしれない。だけど、水原はあの後、『調べてみる』って言ってくれているんだから。キスに何の意味もないなんて、思えない…」
「そうね。確かに、千鶴さんが今自分の気持ちを自覚できていないのは事実ね。でも、不思議に思わない?どうして千鶴さんは、答えを先延ばしにしようとするの?」
「え?それは、まだ調査中で、自分の気持ちがはっきりしないからじゃ」
「なら、なおのこと、付き合うべきじゃない?とりあえず付き合って自分の気持ちを確かめるなんて、よくある話でしょ?」
「それは…」
麻美の言葉に和也は反論できなかった。確かに、麻美の言うことには一理ある。とりあえず付き合うって選択は、とても合理的に見える。
「海で助けられたことや、映画のこと、おばあさんが亡くなったときのこと、千鶴さんは和くんに多くの負担をかけてしまった。だから、責任みたいなものを感じてるんじゃないかしら。はっきり断りたくても、断れないのよ。だから答えを引き伸ばしてしまっている。それは『好き』とは違う」
『責任感』という言葉に和也はハッとした。キスに舞い上がって、その可能性を考えようとしなかった。でも、確かに水原は『キスしたのは、自分に責任があるからだ』とも話していたのだ。優しくてプロ意識の高い水原なら、責任を感じていて当然に思える。
『調べてみる』と言ってくれたのは、麻美の言う通り、はっきり断れなかっただけの話なのかもしれない。
和也は水原を見た。水原は裁判が始まったときからずっと硬い表情のまま、無言をつらぬいている。水原は自分のことをどう思っているんだろう。やっぱり『好き』とは違うんだろうか。
「水原は、どう思ってるんだ…?やっぱり責任感じて?」
和也の問いに水原は、苦しい顔で押し黙っている。
「やっぱり、俺、水原の口から答えを聞くまでは諦めるなんて…」
水原のことを諦めきれず、和也がそう口にした時だ。傍聴席から、鋭い声が飛んできた。
「もう止めい、和也。これ以上姫に迷惑をかける気か」
振り向くと、和を含めて木ノ下家と木部が目の前に立っていた。
「そもそもお主に姫のような彼女がいることがおかしいのじゃ。姫は、とてもできたお方。責任を感じていたのなら、納得がいく」
「和ちん、たとえ叶わねー恋でも、恋したことは無駄にならねーよ」
「ばーちゃんも、木部も、待ってくれよ。そんなんじゃ、納得できるわけ!?」
傍聴席からは、千鶴推したちの悲鳴と怒号が聞こえてくる。
『和也しっかりしろよ!』
『麻美に論破されてんじゃねーよ』
裁判長の八重森が、トンットンッと木槌を鳴らした。
「判決を下すッス。残念ながら、水原さんの師匠への想いは、多くの負担をかけてしまった責任感である可能性が高く、『好き』とは言えないっス」
「待ってくれよ!まだ確かめないといけないことだって、きっとあるハズだろ!?」
「師匠!悲しいけれど、ここで決める約束だったはずっス」
「そんな…」
終わった、と思った。もうプライベートな関係はNG。これからまともに会うことすらできなくなってしまう。
こんなことなら、もっと早く自分の気持ちを水原に伝えるべきだった。そうしていたら、もっと振り向いてもらうチャンスがあったかもしれない。和也は悔しさに、拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「判決はまだ、待ってください!」
その声に、和也は振り返る。叫んだのは水原だった。
「話します、本当のこと…!」
ずっと押し黙っていた水原が口を開いた瞬間、傍聴席のかのかりファンから、怒涛のような歓声が起こった!
『来たー!!!!』
『待ってたぞ!ぶっちゃけちゃえ!』
『千鶴ちゃん、頑張れ!』
(水原…!?本当のことって、いったい?)
水原は俯いたまま肩を震わせ、瞳を何度も瞬かせた。かなり緊張しているように見える。
「いつまでもカッコつけてる方が、よっぽどダサいわね…」
水原はそう呟くと、また顔を上げた。何か決意した顔にも見える。隣で見守る和也も、栗林も瑠夏も、木ノ下家も木部も、水原が何を言うのか、固唾をのんで見守った。
「私が和也さんに支えられてきたのは事実です。だから責任を感じないわけではありません。でも、この気持ちは、それだけでは説明できません」
「ちょっと待って、千鶴さん!208話のとき、和くんは『お客さん』だって言っていたじゃない!?」
「それは、麻美さんを怒らせたくなくて、仕方なく答えたことです。あの状況では、とても『特別だ』なんて言えませんでした」
「くっ」
麻美が苦虫を噛んだ瞬間、傍聴席のアンチ麻美から歓声が上がる。
『ざまぁみやがれ』
『麻美は出ていけ!』
『千鶴ちゃん、言ってやれ!』
巻き起こる大歓声の中、水原は心決めるように、一度ふぅと息を吐き出すと唇をきゅっと結んだ。
(水原、やっぱり俺のこと…!)
プライベート禁止の判決が下りそうになって、水原は反論を始めたのだ。お客ではなく『特別な人』だとはっきり言ってくれた。和也ほどのニブチンでも、今彼女が言おうとしていることが何か予想は付く。まだ決まったわけじゃないだろと自分に言い聞かせるが、もう彼女が言いそうなことは一つしか思い浮かばない。否応にも心臓の鼓動が早くなる。
水原は頬を赤く染めながら、桜色の良く整った唇を開くと、緊張した声色で言葉をつづけた。
「私、本当は…和也さんのこと…」
その瞬間、けたたましい爆発音とともに法廷が煙に包まれた!なんだなんだと驚いて周りを見渡すが、状況がつかめない。法廷は、わー、きゃーという阿鼻叫喚が響き渡る。
「ふざけんじゃないわよ!ちづこ!あなたレンタルでしょ!?」
麻美の怒号が法廷に響き渡った。
「和くんたぶらかして、ずっと嘘つき続けて、好きになっちゃったから付き合いますなんて、許されると思ってんの!?」
煙の中から、ワインレッドのドレスに姿を変えた麻美が現れる。しかし、その首は蛇のように長く、部屋いっぱいにぐるぐるとトグロを巻いていた。明らかに、人間の姿ではない。
「水原!大丈夫か!?」
「ごめんなさい。私…」
和也は水原の肩を抱きかかえるが、二人とも恐怖に足が震えて、まともに逃げられる状況ではない。
「あれは、嫉妬の悪魔、リバイアサンっス!!まさか麻美さんが悪魔に取りつかれていたなんて!」
裁判長の八重森が叫ぶ。嫉妬の悪魔だとか言われても、何が何だか分からない。
麻美は長い首をくねらせ、体を震わせる和也と千鶴にゆっくりと顔を近づけると、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「ふふふ。和くんのこと好きだって言うなら、証明してみせてよ」
「証明…!?」
「麻美ちゃん、やってること、意味分かんねーって!」
麻美が鋭い眼光を光らせたその瞬間、世界は再び闇に包まれた。
******
「マジでワケが分かんねー」
「ここはいったい…?」
気づけば、和也は水原とともに別の場所に飛ばされていた。辺りは真っ白な壁。四方を壁に囲われた小さな部屋の中のようだ。こんな部屋に閉じ込めて、麻美の目的は何なのだろうか。
なぜか水原はいつものパーカー姿から、いつぞやの温泉旅館で見た浴衣姿になっていた。現実世界に戻れるかも分からない危機に他ごとを考えている余裕はないはずなのに、その隠しきれていない胸のふくらみと、しっとりした黒髪に、和也の目は引き寄せられる。いつになく色っぽい。
和也が気になったのは、部屋の中央に意味ありげに置かれたベッドだ。不自然なほど空間に馴染んでいない。
そのとき和也は既視感を覚えて、あたりを見回した。
「…っ!」
振り返った先の壁に掲げられたそれを見つけた和也は、自分たちが置かれた状況を知って絶句した。
『セッ〇スしないと出られない部屋』
ここは、えっちをしないと出られない部屋。
(無理!無理!無理!無理!麻美ちゃん一体何させようとしてんだよ!?)
麻美の『証明してみせてよ』とは、このことだったのか、と理解する。水原とえっちをしてしまわなければ、現実世界に戻れないと言う状況に、和也の心臓はバクバクと張り裂けそうになる。
浴衣姿の水原を横目でちらと見た。
『水原♡』
『和也さん♡』
『ちゅっ、ちゅっ』
『あん、あはーん』
「だあああああああああああ!」
和也は水原から目を逸らす。妄想が否応なしに膨らんでしまい、すでに股間の辺りがむず痒い。身体が出来上がってしまっている。
和也はまともに水原と顔を合わせられず、背を向けたまま、彼女に頭を下げた。
「マジ、ごめん。ホント、ごめん」
水原を巻き込んでしまったことに、申し訳なさでいっぱいになる。
「とにかく、なんか出られる方法があるか調べてみるから!」
水原とシてしまうなんて、少しでも想像したら、和也は頭がパンクしそうだった。水原にそんなことをさせられるはずがない。邪念を打ち払うためにも、とにかくこの部屋から脱出できる方法を探すしかない。
勢いをつけ壁を蹴り飛ばしてみる。四方のどこかに壁が薄く、破れることろがあるかもしれない。
しかし、返ってくるのは痛みばかりで、壁は微動だにしない。
四方のひとつひとつを確かめ終わったところで、息が上がり身体が動かなくなってきた。
「マジ、これ、どうすれば…」
「ねぇ…」
「え?」
呼吸がまだ整い切らないうちに、和也の袖を水原がつかんだのが分かった。
(ヤバい。今水原見たらますますどエロイ妄想が膨らんじまう。つーか、俺のアレがもうタッちゃっているし、こんな危機に下心見せてたらゼッテー嫌われる…っ。ピンチすぎるだろ!?)
水原を直視できない和也は、背を向けたまま答えるしかない。
「麻美ちゃんも冗談きついよな。でも、安心して。何とかするから。それに誰か助けに来てくれるかもしれないし」
和也は、ぶんぶんと頭を振って妄想を振り払うと今度は天井を見上げた。壁がダメなら天井だ。一か所一か所探っていけば、出口が隠されているかもしれない。
「天井とかに、案外出口が隠されてるかも。なっ。諦めずに、とりあえず出られる方法探ってみようぜ」
「ううん。私の話を聞いて欲しいの…」
「…え?」
その言葉に、妙な緊張が走る。
「あなた私のこと好き?」
思いもよらない水原の問いに、ドクンドクンと訳の分からない鼓動がする。背中越しから聞こえる水原の声は低く、震えていて、とても冗談で言っているようには思えなかった。
(まさか、まさかな…?)
「水原、それ、どういう意味?」
「とにかく答えて…」
「もちろん、好き」
「女の子として?」
「女の子として」
「瑠夏ちゃんとか、麻美さんよりも?」
「ああ。言っただろ…?10年でも20年でも待つって」
「ずっと傍にいてくれる?」
「ああ。支えたい、君のこと。これからもずっと」
そう答えると、背中越しの水原は和也の腰にすっと腕を回し寄りかかった。背中に触れたその唇から、温かい呼吸が伝わってくる。
「いいよ…しよ」
あまりの急展開に、和也の脳は理解が追いついていない。脳みそがパンク寸前だ。しようというのは、エッチしようということで、本当に合っているのか。でもそれ以外考えられない。それにあの雰囲気は、告白にしか思えない。しかし、水原がそんなことを言うのはありえない、とも思う。
「いや、俺、その、えっと…」
動揺に目をぱちくり瞬かせ、まともに言葉が出て来ないまま振り返った瞬間、水原に顔を引き寄せられると、唇を唇で塞がれた。
「ん゛!」
そのまま押され、二人でベッドに転がり込む。
「待って、水原!」
和也が抱き着いた水原の肩を掴んで引き離すと、水原と目が合った。馬乗りになった水原は、恥ずかしいのか顔を真っ赤にして、和也を見下ろしている。
呼吸が感じられるほど水原の顔が近い。身体が触れている。和也の心臓は爆発しそうだ。
「おっ、俺ら、調査中だろ?付き合ってもないのに、こんなこと!?」
「ううん。本当は、ずっと前から好きだったの」
「ん゛!」
また、水原に唇を塞がれた。
柔らかな唇に、和也の脳は溶かされていく。もう水原は和也のものなのだ。そのふくよかな胸も、柔らかな唇も、心も。
水原の体温に、和也の意識は白濁していった。
******
「どエロい夢だったな…」
目覚まし時計の音に目を覚ました和也は、枕を抱きかかえながら、そう独り言ちた。夢だとは言え、思い出すとどうしてもニヤケが止まらない。
夢は己の願望の表れだ、なんて聞いたことがあるが、間違いないと改めて思う。水原に告白されて、キスされて、押し倒されるなんて、まさに和也の都合のいい願望そのものとしか思えない。
それにしても、裁判だとか、『セッ〇スしないと出られない部屋』とか、妙に生々しかった。色付きフルカラーで、においや肌感覚まで感じる夢なんて、初めて見たと思う。悪魔化した麻美が首を伸ばして近づいてきたときには本当に殺されると思ったくらいリアリティがあったし、水原の濡れた唇の感覚や、胸の触り心地…、おっと。和也はそこまで考えて、また蘇った夢の記憶に顔を赤らめる。
今日は水原の舞台を見に行く日だったことを思い出す。こんな夢を見てしまったのも、その後隙あらばデートに誘おうなんて考えていたせいなのかもしれない。
和也は、人差し指を唇に近づけると、そっと触れた。
「ん゛…」
ハワイアンズでの水原とのキスを思い出す。
(いかん。いかん。調査中、調査中)
和也は自分にそう言い聞かせ、ヤリたい願望でいっぱいの頭をポンッポンと叩いた。
******
「最悪…!?なんで私がこんな夢見ないといけないのよ!?」
目覚まし時計の音に目を覚ました千鶴は、抱きかかえていた枕を投げ捨てると、そう叫んだ。恥ずかしくて思わず手のひらで顔を覆う。夢だとは言え、思い出すと鼓動が高鳴る。身体が熱い。手のひらで首元に触れると、まだ顔が赤く染まっているのが分かる。
まだ重ねた唇の生温かい感覚や、少し筋肉質な彼の腕に抱かれた感覚が身体に残っている気がする。
「あー、もうっ。調べてみるって、言ってるじゃない!」
和也に告白して、無理やりキスをして、押し倒すなんて、自分でもどうしてあんな夢を見てしまったのか、理解しがたかった。和也には、好きだなんて言っていない。『調べてみる』と言っているだけだ。別に付き合っているわけではない。
(別に私は、あの人とそういうことしたいわけじゃ)
千鶴はむぅと頬を膨らませる。
こんな夢を見てしまったのも、和也を舞台に誘ってしまったのが関係しているのかもしれない、とも思う。最近たまたま読んだ恋愛小説にああいうシーンがあった気がする。きっとそれのせいだ。そうに決まっている。
千鶴は、人差し指を唇に近づけ、そっと触れてみた。ハワイアンズでの和也とのキスが蘇ってくる。あのとき千鶴のことが大好きだと彼が言ってくれたのを思い出してしまう。またトクトクと心臓が走り始めるのが分かった。
納得はいかないが、見てしまったものは仕方がない。
「…ま、いっか」
千鶴はそう言って口元を緩めると、また頬を赤く染めた。
(おしまい)
【あとがき】
はいどーも!甲楽わんです。かのかり楽しんでますか?『判決と彼女』いかがだったでしょうか。ふむ、エロい。
このお話は、千鶴は和也のことが好きかどうかの裁判を八重森さんがしていたら面白いよねー、なんて冗談から生まれました。
千鶴だって、あまり考えてることは和也と変わらないと思ってます。やっぱり好きな人とは、シたいでしょう(にやり)。