恐れるべきは死ではない。真に生きていないことを恐れよ。
――マルクス・アウレリウス
年の瀬は、いつも感傷的になる。
寒空の下で煙草を咥えながら考えるのは。
飼っていた犬のこと、ろくに家に帰ってこなかった母親のこと、面倒を見切れずに殺してしまった金魚のこと。
昔付き合っていた男の子のこと、ずっと友達だと思っていた同級生のこと、少しの間面倒を見ていた、自殺してしまった足が不自由な男の子のこと。
もはやこれからの自分の人生にほとんど関わらないであろう人間たちのことを考えて、自分の心と記憶を整理する。
これは必要な工程というわけではないだろう。ただ、脳が勝手に必要な工程と認識しているだけ。
冷えたコンクリートから漂う冷気が、靴を通って靴下から素肌を突くようだった。
ひとり。
ぽつぽつと街灯だけが光っている。煙草と真冬の匂いがした。
私は特別な人間ではない。それでも、この時間だけは特別な人間になれるような気がした。
誰でも持っている不幸や、割り切れない感情を心の中で混ぜ合わせて、煙草の煙と一緒に吐き出す。
その煙は、決して虹色に輝くことはないだろう。多めに見積もっても、ちょっとだけ汚い緑色になるだろうな。
それが空気中を漂い、どこか知らない誰かの肺の中に入ってくれればいいと思う。
でも、冬の空気は密度が小さいと聞いたことがある。密度ならきっと負けてはないだろう。
だから私の煙は、そのまま地面まで落ちていって、コンクリートの僅かな隙間に埋まって地中深くで眠ることになる。
携帯を取り出すと、時刻は2時を回っていた。クマのストラップが、さみし気に揺れている。
「このままお前も、深く眠ってしまえばいい」
「このままお前も、ふわふわと飛んでどこかの誰かの負担になればいいんだ」
「お前はなぜ、生きている?」
分からなかった。
街は人を隠す。
あと十数本は入っていたであろう煙草の箱を、コンビニのゴミ箱に捨てた。
店員は何も買わずにゴミだけを捨てていく私を見て何を思うだろうか。いや、きっと何も思うまい。思うはずがないのだ。
だって、私はただのエキストラ。一日に少なくとも二桁のお客さんが訪れるこの店で、一瞬だけ出て入っただけの私に何か思うことなどありはしないのだ。
携帯は電車の線路に捨てた。
他人の影響を受けて吸い始めた煙草も、SNSを見て一喜一憂することも、誰かの足跡をたどる生き方も、もう御免だった。
この世界に根付く巨大な社会構造の影響を受けない範囲など、限られていることも分かっている。
もはや私がどれだけ努力をしようと、どれだけ抗おうと、その範囲を超えることはない。
それに、きっとすぐにでも煙草を吸いたくなるし、通知が気になるし、他人の動向が気になってしまうだろう。
それでよかった。いや、それすらも生きる理由にしようと思った。
私が私自身であるために、私は歩き続けることを選択したのだ。
ビルの谷間に入ると、風が頬を突いた。薄暗く、道というにはあまりに狭い。
奥に光が見えて、それがゴールのように思えた。
私は光だけを捉えて、光だけを目指した。
始まり。きっとそこが始まりだ。
谷間を抜けると、一面に日の当たる草原だった。
緑色に光ったかと思うと、黄色にも見える。目をしかめれば、赤にもオレンジにも見えた。
草木の生い茂った臭いが鼻を掠める。なんと表現すればいいか分からなかったが、それは多分、生きた臭いだ。
「ここかな」
枯れ尾花が風に揺れている。空は綺麗な青空が広がっており、大きな雲がまるでクジラのように見えた。
それはひとつの時間の形であり、他の人から見れば動いているように見えるだろう。
私にはそれが、止まっているように見えた。
ただ、風が吹く。穂が揺れる。それだけの話。
私は地面に穴を掘り、そこに財布を埋めた。
「私は穂だったのかもしれません」
「いいや、風だね」
裸足になって地面を均すと、土の冷たさが足の裏を突いた。
生きている。私は今、生きていた。
生きているべきか、死んだ方がいい人間なのか、それすらも私の生きる意味とする。
私は、私自身が、私が生きるを定義する。
新たな年を迎えることが、こんなに楽しみになったのは久しぶりのことだった。
「あの」
声をかけられた。振り向けば、そこには見知らぬ男性がいた。
「……はい?」
「スマホ、これ」
彼はおずおずと手を出すと、そこには私の携帯があった。
私がそれを見て目を丸くしていると、彼は続けざまにこういった。
「すみません。気持ち悪いと思うかもしれません。でも、少しだけ僕の話を聞いてもらえませんか?」
「……いいですよ」
私は携帯を受け取ることもなく、ただ彼を見つめた。
「僕、散歩してて。雑誌読みながら。ティーンズだったんですけど」
「はあ」
「そしたら、貴女がスマホを投げるのが見えて」
「それで?」
私はなるべく嫌悪感が伝わるように語気を強めて言った。
「ほらこれ、キーホルダー付いてるじゃないですか。クマの。これ、僕も持ってるんですよ」
「……そうですか」
彼はそのキーホルダーを、まるで最愛の人を見るかのような目で見ていた。太陽に照らされて映る彼の顔は、白いような、少し茶色いような。
風に揺れる彼の髪は、揺れているように見えた。
「だから、大事にした方がいいですよ」
まるで手品師のように、彼は携帯からキーホルダーを外した。そしてそのキーホルダーだけをこちらへ投げた。
「うわ、投げないでください」
キャッチした私を見て、彼は屈託なく笑った。
「へへ、よかった。大事にしてくれてるんじゃないですか」
「携帯は返してくれないんですか?」
「え、返してほしかったんですか? なかなか受け取ってくれないから、腕が疲れちゃって」
そういって彼は携帯もこっちへ投げた。
「だから投げないでくださいって……うわっ」
携帯は私の手のひらでひとつ跳ねて、先ほどまで私が踏み固めていた場所にそのまま突き刺さった。
まるで墓標だ。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
「……まあ、元々捨てたものですし」
「というか、ストーカーみたいなのでやめた方がいいですよ、こういうの」
精いっぱいの嫌そうな顔をして彼を見た。彼はまだ屈託のない笑顔を浮かべている。
「そうですよね、すみません。ていうか、実は返す気もなかったんですよね」
「は?」
私はまた目を丸くした。今なんて言った?
「ほら」
彼は空を指さした。そこにはクジラのような形をした雲があった。
「あれを追いかけてきたら、ここに出たんです。そしたら貴女がいたので、ついでに」
「今相当おかしいこと言ってるの分かってます?」
彼はけらけらと笑った。
「じゃあなんで捨てたんですか」
「捨てたかったからです」
「じゃあなんで受け取ったんですか」
「投げられたからです」
「じゃあ僕の理由も充分じゃないですか。ただ見た、拾った、貴女がいた。ただそれだけです」
これには私も返す言葉がなかった。
というか、あまりにも目の前にいる男が奔放すぎて笑うしかなかった。
見たところ同い年か少し上くらいだろうか。多めに見積もっても大学生くらいの男性に見える。
「そうですか。それじゃあ私はこれで」
「ちょっと待ってくださいよ。スマホ、受け取るんですよね?」
彼は墓標を引っこ抜く私を指さして言った。
「はい、一応そのつもりです」
「実は僕、バンドメンバーを探してるんですよ」
「……冗談ですよね? 私は楽器なんて触ったことありませんよ」
「僕も」
ずっと会話の主導権を握られているようで、腹が立った。
「もう本当に帰りますから」
「……分かりました。もしも気が変わったら、クジラを追いかけてください。多分ですが、僕はそこにいると思いますから」
私はそうそうに立ち去ろうとして、彼の隣を抜けた。
ずっと笑っていた彼の顔が、その瞬間、空の雲を見上げる時だけは真剣な表情をしているように見えた。
何がそんなに彼を惹きつけているのか、それだけは気になったが、私は私の好きなように生きると決めたのだ。
私が好きなのは、夜。伽藍のような静けさ。薄暗さ。
バンドなんてのは、そういったものの正反対だ。少なくとも私はそう思う。
「もしも気が変わったら、ね」
「変わることなんてない」
少なくとも私がエマでいるうちは。
……エマってなんだ?