東海埠頭♪
野外ダンスに行ってきた!
流通せんたーで降りて。。
モノレール乗ってるとき石垣島のこと思い出して、いちいち恋しかった

流通せんたー着いてからの
現場着いて、コンビニのうどんむさぼって
楽しかったあー

んで、練馬区ルーと千葉クルーのみなさまに息が詰まりそうになりながら、挨拶をして
みんな強面で、わてペコペコしてた

それから、あやちゃんのお気に入りのチョコレート占いにひたすら付き合う。。
初めて会ったボスの友達が、トウモロコシ生のやつくれたり
結婚パーティーに呼んでくれたり
警察の職質にあって乱闘してたり
相変わらずおかしな方々で、ハチャメチャだったけど、イイカンジの息抜きでしたわぁ~!
職質に会ったときに
あやちゃんといたんだけど、ひたすら「この人達は、悪いことしてませーん!」って警察に叫んでて可愛かったなあ



小学生純水!

早めにあがって、ボスとあやちゃんとあやちゃんパパと浜松町で飲んで
帰宅~



あーーー
もうバイト行きたくなかとです。。




流通せんたーで降りて。。
モノレール乗ってるとき石垣島のこと思い出して、いちいち恋しかった


流通せんたー着いてからの
現場着いて、コンビニのうどんむさぼって
楽しかったあー


んで、練馬区ルーと千葉クルーのみなさまに息が詰まりそうになりながら、挨拶をして
みんな強面で、わてペコペコしてた


それから、あやちゃんのお気に入りのチョコレート占いにひたすら付き合う。。
初めて会ったボスの友達が、トウモロコシ生のやつくれたり
結婚パーティーに呼んでくれたり
警察の職質にあって乱闘してたり
相変わらずおかしな方々で、ハチャメチャだったけど、イイカンジの息抜きでしたわぁ~!
職質に会ったときに
あやちゃんといたんだけど、ひたすら「この人達は、悪いことしてませーん!」って警察に叫んでて可愛かったなあ




小学生純水!


早めにあがって、ボスとあやちゃんとあやちゃんパパと浜松町で飲んで
帰宅~




あーーー
もうバイト行きたくなかとです。。




社会派につき
デモ好きの友達の友達からmixiの足跡がちょー着いてたから日記を見てみたときのこと、オウムの記事を発見。
かなりどーでもいいけど、これ凄い!
これ。長いよー。
↓↓
7月21日の「オウムって何?」というイベントに行ってきた。
オウム事件を風化させないためにもタブーにしないで語るということは大変重要なことだし、あの上祐史浩氏が公の場に姿を現すということも最近ではめったにない貴重なことだ。
せっかくイベントに行って上祐氏の話を生で聴く機会に恵まれたのだから、何か書くべきだろうと思い、さまざまなリスクも踏まえながらも率直に自分自身が感じて考えた事を書こうと思う。
現在は「アレフ」を脱退して新団体「ひかりの輪」の代表を務める上祐氏は相変わらず議論に強く、プレゼンテーションもうまい。「ああ言えば上祐」は健在だった。
彼は例の調子で「オウムの総括」を語って見せた。
オウムに入ってきた人の問題点として、まず神秘体験に対するナイーブさを挙げた。
麻原には超能力があった。今では確かめようがないが、それを体験した人が多くいたことは事実なのだろう。しかし超能力で神秘体験を起こせる人はまれにはいる。その神秘体験をもたらすことができる人を正しいと短絡的に信じてしまったことに問題があったと上祐氏は言う。
それは神秘体験を絶対に信じないという態度をとっていれば安全ということではない。むしろその逆だ。「絶対に信じない」と思っていた人が、ある日神秘体験をしてしまったら、コロッと信じてしまうだろう。
神秘的な体験をすることはある。客観的にその事実があるかどうかは関係ない。そういう体験はあるということだ。しかし神秘体験など珍しいが取るに足らないことだ。そのように突き放してみることができるかどうかだ。
神秘的な体験をしたこと=それが正しいと短絡してはいけないということだ。
もう一つの問題点として、「我欲」があったことを挙げている。
もともとは「世のため人のため」の活動が何かしたい、と思っていた。しかしそれは「自分が世のためなりたい」「自分はいい人だと思いたい」という我欲で実は動いていたことに気づいていなかった。それが間違いだったのだという。
そして我欲を持つ人間は、麻原が正しいと信じたい、麻原を信じた自分は正しいのだと思いたい、それが実は間違っていたと認めたくはない、その心情が麻原に対する盲信につながった、そういう「心の問題」なのだという。
麻原が間違った原因も彼の「心の弱さ」であり、それを盲信してしまったのも自分の「心の弱さ」であり、「アレフ」の連中がいまだそれを抜け出せていないのも彼ら「心の弱さ」である、という。
オウム事件も麻原個人の成育歴や性格や「心の問題」が原因だという。そしてその麻原を信じてしまったのも我欲がある「弱い心」であったからだという。「弱い心」であったから間違ったが、今はそれは克服したから大丈夫だという話の組み立てにしている。
「心とは何か」は定義不可能であるし、その「心」が強いか弱いかということも計測不可能であるから、「心の弱さが原因だ」とするのは、端的に反証不可能であるがゆえに原理的に「間違い」にはならない無敵の議論である。
そうした議論を客観的に展開してみせることで麻原への盲信から今は脱却できているということを説得力を持って語ることができる。
オウム事件の総括をする場合に、その一義的な責任は麻原にを帰す必要があり、しかしそれを防げなかった自分たちの一定の責任を認める必要があり、さらにその問題点は克服したということにしなければならない。
これからも社会の中で共生して生き残らなければいけないとするならば、おそらくそういう話にする以外にはなかったのだろう。
これがこの日上祐氏の展開した「オウムの総括」である。
しかしおそらくは問題の核心はそこにはない。
上祐氏の誠実さを疑うものではない。被害者への賠償も行っているし、反省の言葉にもウソがあるとは思わなかった。上祐氏は正しい議論を展開することもできるし、自分の主張を正しいと思わせる能力にも人一倍たけている。
しかし、正しくないから間違うのではない。正しすぎるから危ういのだ。
宗教について、思考停止で「宗教=危険」として忌避していれば安全だと思ったら大間違いだ。むしろそういう免疫のない人のほうが危ないだろう。
また自分は宗教について勉強しているから騙されないと自信を持っている人も危ない。あらゆる宗教は自らの正当性を主張できる材料をいくらでも用意しているものだ。議論で勝とうとしたら思うツボだ。
神秘体験を信じない人が神秘体験をしてしまった場合と同じように、「オウムは絶対に間違っている」と信じて疑わなかった人が上祐氏のプレゼンテーションを一度聞いたら、どうだろうか。
上祐氏はその気になりさえすればいくらでも信者を増やすことができるだろう。彼はその能力を持ってしまっている。彼にはその自覚があるだろう。おそらくそこに彼自身の悩みがあるのではないか。そんなふうに感じた。
しかし重要なのはオウム教団や麻原個人の問題だけではない。
オウム事件以降の一連の社会現象は、オウムの異常さよりもむしろ我々の生きる社会の奇妙さこそを浮き彫りにするものではなかったか。
オウム信者は住民票も受け付けない、水道も使わせない、学校にも行かせない、運転免許証の住所が現住所と違えば逮捕、ホテルに偽名で泊ったといっては逮捕、挙句の果てには「転び公妨」http://www.youtube.com/watch?v=6C-vFbO7rIgまでして逮捕、オウムだというだけの理由で一切の人権を認めない。しかも市民社会が「オウムなんだから何をしてもいいんだ」といってそれを翼賛してしまう。それを駆動していたのは紛れもなく正義感だ。オウムを弾圧することが「世のため人のため」だと本気で思っている。「自分は絶対に正しい」と信じて疑わない狂信的な正義感こそ最も危険なものだ。それは政治団体や市民運動団体でも同じだ。
「○○なんだから」といっていとも簡単に原理原則をかなぐり捨ててしまうという感覚は、○○の部分に何でも恣意的に代入することにより、何にでもその標的を向けることができる。それは決して少数派だけだとは限らない。
市民社会が自身の拠って立つ基盤を自ら掘り崩してしまう不確実性のうえにつねにある。それを浮き彫りにしたのがオウム騒動ではなかったか。
オウムに入った人々は、高学歴であり、医者や弁護士などの社会的ステータスを持つ人もいて、その気になれば企業に入って高い収入を得ることもできたような人が多かったことが話題になった。
世間はそれを不可解だと言ったが、彼らにとっては高い学歴も収入も社会的地位も何の価値もなかった。ひと世代前ならば革命を志したかもしれない。しかし80年代の雰囲気の中で彼らの関心は精神世界に向かっていった。
「こんな世の中には何の価値もない」という感覚を持つ人は必ずこれからも生み出され続ける。その感覚は決してまったく理解できないものでも共感できないものでもないはずだ。
それが95年のオウム真理教であり、97年の酒鬼薔薇聖斗であった。
当時少なからず彼らにシンパシーを寄せた人々も、多くは今はすでに社会に出ているはずだ。我々はともに生きなければならない。
あれから15年もたつ。我々はオウムからいったい何を学んだのだろうか。
事件前にはあれだけオウムをもてはやしていたマスコミも、今ではすっかり口を拭って何もなかったことにしてしまっている。
市民社会のほうも自分とは完全に異質な理解不能な他者として排除してしまい、近年ますます潔癖主義がひどくなっているように見える。
タブー視して触れないようにしてしまうことで、ますます宗教へのナイーブさを助長してしまってきたのではないだろうか。
そろそろオウム事件を冷静に振り返ることができるようになってもいい頃なのではないか。
人は誰しも正しく生きたいと願う。できれば他者のためにも何かしたいと思う。
しかしその中にこそ危うさが秘められていて、それでもなお人はその危うさの中を生きざるを得ない。
そのことを自覚することが、オウム事件からくみ取るべき最も重要な教訓なのではないか。
だって
長い間、ご静聴ありがとうございました








