外国人地方参政権の法案提出が来月の国会になされるとすれば、もうあまり時間がありません。


ネット上では、多くの人々の努力で、説得力ある反対論の議論が提出されています。


付け加えることは少ないですが、比較的あまり指摘されていない観点からの反対の論拠を提示したいと思います。


● 民主的審議の条件としての「国益」、「公益」の共有


提示したい議論は、究極的な「国益」、「公益」を共有していない者たちの間に、十分な民主的審議が生じる可能性は非常に低いということです。ほとんど、不可能といってもいいでしょう。


十分な民主的話し合いがなされるためには、話し合いの当事者の間で、同じ「公共の利益」について語っているということが前提になければなりません。


もちろん、「公共の利益」というのは、さまざまな解釈がありうると思います。解釈の違いはあってもいいのです。ただ、表面的な解釈の相違があったとしても、究極的には同じ「公共の利益」を探求するために話し合っているのだという前提がなければなりません。


もうすこし具体的に言えば、十分な民主的審議が成り立つためには、たとえば、「日本の国益」、「日本国民の将来の幸せ」のために話し合っているのだという前提がなければなりません。


もちろん、「日本の国益」、「日本国民の幸せ」が何を意味するということについては、つまりそれらをどのように解釈するかについては、さまざまな見解があり、見方が分かれる場合が多いでしょう。


むしろ、見解が分かれるからこそ、「何が本当に日本の国益であるか」、「なにが本当に我々日本国民の将来の幸せにつながるのか」ということについて意見を異にする他の人々と時間をかけて話し合う必要が生じるのだともいえます。


つまり、民主的な話し合いが十分に行われるためには、このように、表面的な解釈の相違があったとしても、究極的には同じ共有の「公益」、「国益」について話し合っているのだという前提が必要となるのです。


● 「国益」、「公益」の共有という前提がなければ民主主義は機能不全に


外国人参政権を認めてしまえば、民主的話し合いが行われるための「公共の利益」(「国益」は当然ですが)の共有の条件は、失われます。


話し合っている事柄が、一方はA国民の利益、他方はB国民の利益ということになってしまえば、そこには、通常の意味の民主的な話し合いなど生まれません。


単なる交渉、駆け引き、取引のたぐいにしかなりません。


国際会議の場で行われている話し合いは、大多数がこのたぐいの「交渉」、「駆け引き」、「取引」です。


国際会議の場合は、いいのです。話しがまとまらなければ、結論を出すのを延期する、あるいは話し合い自体をやめる、または現在の話し合いの枠組みを組みなおし新しい枠組みを模索し構築するなどでいいのですから。


ですが、国内政治における話し合い、つまり民主的な話し合いでは、そうはいきません。話し合いをやめたり、延期したり、または話し合いの新しい枠組みを模索し組みなおすという方法をとれる余地は、国内政治ではほとんどありません。


ごく一部の重要でない論点に関する話し合いの延期や中断は不可能ではないですが、それが、増えてくると、民主主義の機能不全、ひいては停止につながっていきます。


● 中国が民主化できぬのは、高すぎる多様性のため


中国がなぜ民主化できないかは、この点を考えるとよくわかります。


中国は、国土が広すぎ、国民の地理的・民族的多様性が大きすぎ、共通の「国益」が生じにくいのです。政府がそれをでっちあげようとしても、ほとんど不可能なのです。沿岸部の豊かな層と内陸部の貧しい層との間に、または漢民族とチベット族やウィグル族との間に、「共通の利益」はほとんどありえません。


そういう場所で、話し合いをしようとすれば、すぐに「話し合いの停止 → 対立 → 分裂」という動きが生じるでしょう。


つまり、中国が、もし民主化すれば必ず分裂します。

分裂したくないからこそ、民主主義という道を選べないのです。


だからこそ、民主化せずに、力で強引に国をまとめ続けているのです。


● 外国人参政権は、「公共の利益」の共有という民主主義の条件を壊す


日本が、外国人参政権を導入すれば、早晩、日本も、中国化する恐れがあります。


つまり、日本の民主主義は機能不全に陥り、ひいては停止する恐れが高まります。その危険性は非常に現実的なものとなります。


外国人参政権の賛成論者は、「国政レベルではなく、地方レベルだからよいではないか」、「おなじ地方自治体の住人としての共通の利益があるではないか」というかもしれません。


しかし、そうした反論は、成り立ちません。


国政レベルと地方レベルの議論は、密接につながっており、切り離すことは不可能です。


たとえば、沖縄の基地などの安全保障問題や、歴史教科書の問題などの教育問題、竹島や対馬などの領土問題などは、どれも、地方レベルの問題でもあり、同時に国政レベルの問題でもあります。


たとえば、基地の問題を取り上げてみましょう。

同じ日本人同士であれば、その地域の利益と同時に、日本の安全保障上の利益ということを双方とも考慮に入れます。


たとえ、意見が現在のところ異なっていたとしても、基地問題の話し合いは、「地域の利益」と「日本の安全保障上の利益」という二つの皆で共有している問題について話し合っているからこそ、違う意見の人々の話しも聞き、互いに異なる視点を学びあい、一致できる点を探ろうという動機が生じてくるのです。それによって、民主的な話し合いはどうにか継続されるのです。


もしこれが、片方は「地域の利益 + 日本の利益」、他方は「地域の利益 + 韓国(もしくは中国)の利益」という話し合いになってしまったらどうでしょうか。


こうなれば単なる交渉、駆け引きです。通常の意味での民主的な話し合いではありません。


民主主義は、機能不全に陥り、早晩、停止される恐れが高くなります。


歴史教科書の採択の問題、領土問題などでもまったく同様です。


民団は、綱領の最初に「大韓民国の国是を遵守する――在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します」とまさに記しています。つまり、在日韓国人の人々は、究極的には、韓国の国益に沿った行為をする可能性が高いのです。(これは、差別云々ではなく、綱領に基づく合理的な推論です。)


歴史教科諸問題で、日本人の側は(あまり普段意識しないかもしれませんが)「将来の日本人の幸せのために」という願いをこめて話し合いにのぞみます。在日の側は、それはあまり考えず、歴史的なルサンチマンか、将来の韓国(あるいは中国)の国益のために、話し合いにのぞむ可能性が高いと推測されます。


そうなれば、話し合いの意味はほとんどありません。前提が違いすぎますので。


話し合いは、あまり意味がないですので、民主主義はやめましょうということになりかねません。


● 外国人地方参政権を絶対に認めてならぬ。忠誠を誓った上での帰化という方向性を模索すべき。


日本の民主主義を守るべきだと思うのであれば、つまり日本の将来を案じるのであれば、外国人地方参政権の付与は絶対に避けなければなりません。


国籍、国境は、実は、自由民主主義にとって、非常に大切なのです。


これは、最近の政治学でも、遅ればせながら、認識されつつある立場です。

(たとえば、ミラー『ナショナリティについて』(風行社、2007年)などを参照)。


国籍の共有は、そして政治的運命をともにするという覚悟と意識の共有は、民主主義の絶対条件なのです。


在日の人々は、日本に忠誠を誓い、自分のみならず子孫も日本と運命をともにしていくという覚悟を持ち、帰化し、そのうえで参政権を得るべきです。つまり、首都大学東京の鄭大均氏が訴えるように、在日コリアンではなく、コリア系日本人になってから、参政権を得るべきです。


日本人になるという忠誠と覚悟を心からもった上で帰化すれば、つまり真に韓国系(あるいは中国系)日本人となれば、民族的出自は否定すべきものではありません。


韓国系(中国系)という観点から、(韓国や中国の国益ではなく)日本の国益について真剣に心から考えるのであれば、表面上の意見の相違はあったとしても、おおかたの日本人は、民主的審議に、よろこんで迎え入れるでしょう。


逆にいえば、そうした忠誠、覚悟を示さぬ者の参政権取得を認め、民主的審議の場に送り込めば、私を含む大多数の日本人は、疑心暗鬼のもと、話し合いに臨むこととなります。そして、民主的な話し合いに対する動機付けは薄くなり、しらけてしまうでしょう。また、国益を守るために、民主主義の停止を訴えるようになるかもしれません。


民主主義に国籍(およびそれに伴う忠誠と覚悟)は大切です。必須条件です。

外国人地方参政権は、民主主義の敵です。認めてはなりません。


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ながながと書きました。理屈屋ですので...。読んで下さって感謝いたします。


外国人地方参政権、絶対反対!


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