坑道のカナリア「セカンドハンドの時代」 | 風信子 

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 いらっしゃいませ。こちらは読書日記中心のサイトになります。本を好きな方が一時楽しんでくだされば嬉しいです。

 日本ではほぼ報道されていませんが、ベラルーシの大統領の退陣問題で、多くの女性や文化人が逮捕、拘束されています。

 私個人としてとても気になるのが、ベラルーシ政府にとっては各国の外交官が連日訪れるために逮捕拘束することができない女性。

 アレクシェーヴィチのことです。

 

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 彼女はノーベル文学賞をもらっているジャーナリストではありますが、ベラルーシ政府としてはこうしたものを取材している、都合の悪い人物になるのでしょう。(実際、「戦争は女の顔をしていない」を出すまでとても時間がかかったそうですし、現在は品物がなくて読みたくても手に入らないアフガン戦争に関したものもありますから)

 

 ここからは政治的な話にも通じるものがあるので嫌な方はブラウザを閉じてくださいねm(__)m

 

 政治と芸術や文学などはとても近い距離にあると私は考えています。日本でも一部の作家が政治家にすり寄っていることが問題になったことが最近ありましたよね。

 

 そうした半面。かつて、たくさんの作家が国境を越えて集まった時に、自分たちは世界の危機に対しての坑道のカナリアなのだと宣言したことがあります。

 そうなってほしくないと思いながら、最初に息絶えるのは警告を発するこのような人々なのかもしれないと改めて思います。

 

 そして新聞の片隅に乗っているベラルーシの反政府運動の記事を読むたびに、この本とその言葉を思い出していました。

 

 あの冷戦が終わった時に、ソビエト連邦が崩壊したとき、誰もが豊かで自由な国なると思ったのでしょう。ですが、自由というものは何でも自分の思い通りになることとは違う。

 

 そこに自分が思う価値がある自由がなかった。あの時代が懐かしいと思う人々のことが取材されています。

 

 それが正しいことなのか、わかりません。もちろん、そちらが生きやすかった人もいたことも忘れてはいけないし、それを否定する気もありません。

 

 ですが、無抵抗な女性たちを教会から引きずりだすようなベラルーシの政府の行為は許せないし、それは自由という言葉への冒涜だと私は思います。

 

 世界中がきな臭い。私は私ができることをしていますが、どうなるかはわかりません。世界中で疫病が蔓延する最中の隙を狙って、あちこちで、戦争という危機を作り出そうとしている愚かな政治家たちに対してカナリアたちが鳴いています。

 その鳴き声を止めることは人しかできないことを忘れてはならないと思うのです。