火曜日が最終出社日となり、そのまま4月末まで有給休暇
となって、晴れて退職することとなった

といいながら、引継ぎが終わらずに木曜日から広島・大阪
に出張となるので、実質的な最終日は4月3日となる

入社式が4月3日だったのは偶然かと思うが、学校と違っ
て日本の企業/組織というのは3月末4月初をやけに重ん
じるのでこうなってしまうのだろう

それにしてもずいぶん長い間仕事をしたものだ

 

大学にいて、特に深く考えもせずに周囲に流されるままに
就職先を決めて、入社したらなんとも呑兵衛の多い会社で
毎日偉そうに説教ばかりくらっていた

確かに難しくて細かい仕事ばかりで「向かないな」と感じ
たのだが、そこから転身するには志も低くて、公務員試験
や教職員試験を受けても叶うことはなかった

当時の日本では一般的に3年も務めずに会社を辞めるよう
な若者にはろくな転職話はこない

いまでこそ、若い人たちは軽やかに転身していくが、あの
頃は難しい話だった

 

それやこれやで3年ほど経ち、途中で交代した部長さんと
いうのがなかなかの変人で、躊躇しているうちに東京の冴
えない部署に飛ばされてしまった

 

ただ、「運」とはわからないもので、この異動先が天職に
近い場所だった

もともと新しいもの好きで興味がわくと凝ってしまう性分
だったのたが、取引先の同世代と懇意になったことでコン
ピューターというものにのめりこんでいった

 

稟議用の資料をスプレッドシートで作成して1か月単位で
予想値を出せるようにしたり、現状分析用のマクロを組ん
でみたり

そして「運」は「縁」を読んで、ある時起ちあがったばか
りのスタートアップに出向いて「インターネット」という
インフラに出会った

 

まで神戸で震災が起こる前の話、Windowsの世代でいうと
Win95が発売される少し前、Win3.1に一太郎といった感じ
で使用していたころのことだ

これからインターネットが世界を変えるよ・・と云われて
シリコングラフィックス社の「Indy」というワークステー
ションでCERNのサイトを見せてもらったりした

 

翌日、紀伊国屋や八重洲ブックセンターを周ってみたが
インターネットなどという単語の載っている書物はなかった

行き詰まる中で閃いたのが「国立国会図書館」

場所も使い方の全くわからないけれど、止まっていも何も
わからないままなので、まずは電話、場所を聞いて出かけた

幸い1冊だけ「インターネット」の簡単な説明が載っている
翻訳本があったが、翻訳が下手で読んでみてもピンとは来な

かった

 

 

その後、ちょっとした事件があり、PCを購入して実際に
つないでみよという指示があってWin3.1のPCを購入して
「TCP/IP」のソケットをインストール、電話回線につないで
なんとかネットワークに潜り込んだ

従量制だったので、何を閲覧したかを記録しておけなどと
口うるさく言われたので閲覧したサイトのURLを並べて報
告してやったりした

 

 

そんなことをしていたらまたも部長さんに嫌われて異動する
ことになった

行先は名古屋で、懇意にしていた役員からはなぜか少し詫び
られたので、変な感じがした
着任してみると、案の定「不祥事」があって異動させざるを
得なかった人たちとの交代だった

 

当初は新鮮味のない仕事にだるさも感じたが、当時の名古屋
にいたメンバーは明るい人たちばかり、のちに着任した新し
い部長と課長が嫌われ者だったので、我々の間には連帯感が
生まれて皆楽しく週末を過ごした


これが「縁」となって同僚の女性と結婚することとなり、新
居に移ったころに、東京に帰任するような指示が出ていると
耳に入った

 

残念がる奥さんとその両親に詫びて、着任から2年も経たず
に東京本社にまわされた

 

案の定、仕事は「インターネット」絡みのものだったのだが
ビジネスに使おうとしても、目先の薄い利幅で動いている業
界であり、外注やイニシャルコストをかけるモデルで仕事を
したことがないため、社内に反対派も多くて仕事は進まなか
った

 

最終的にやった仕事と云えば、社内のSFAシステムの監修
程度のものだった

 

 

大した仕事ではなかったため、そのプロジェクトが終わった
後に解散となり、自分はシステム部門を経て営業部門に復帰
ウロウロとしていたら、また新部長に嫌われて異動

今度は地方営業所の所長を命じられた

この時点、こんなに異動させられるのは自分の素行に問題が
あって、今後もあまり出世など望めないと感じていた

ただ、既に奥さんも娘もいるので、すぐに転職だ・・・と
いう勇気もなかった

 

実際には、旧知の取引先から誘われたりして揺れていたの
だが、ふんぎりがつかなかった

 

地方店所でのんびりしているうちに、現地の方々と仲良く
なり、地場の大御所にも可愛がってもらった

結果、追い出した人々の思惑ははずれて好成績を積むのだ
が、そんなに見直されることもなく5年ほどそこで過ごした

 

 

組織を去るにあたってこんな話をつらつらと書いたのは、
自分自身の記録のためではあるが、一方で後の人たち
例えば娘や息子などに一度聞かせたかったからだ

 

これは随分以前だが、余命半年を宣告されたカーネギーメロン大学教授・Randy Pausch氏が、子供のころの夢を実現させる方法と題して行った「最後の授業」の動画にインスピレーションされたことが原因だ

 

自分は、まだまだ生き続けるがあの頃余命を宣言されていた
りしたら、やはり最後に子供たちらメッセージを残すべき
だろうと考えた

 

彼の言葉を借りる
「後悔すべきは自分のしたことではなく、しなかったことだ」
 

そして、自分にも君たちにも、まだ少し時間がある

 

 

 

桜はまだまだ蕾のままだが、少し膨らんできている

先週末には社内の異動も明らかになって皆4月の話題でもちきりだ

外国で戦火が上がっていても、この国は基本的には平和を維持している

事情はあったとしても、無理な戦争を重ねて失敗した先日たちのあと
我々の親世代が経済戦争の兵士となって献身してくれたおかげだ

 

のどかな春の日差しは変わらず我々を温め、少々不便はあっても
家族とともに笑顔で過ごしている

ありがたいことだ

 

さて、今月で会社勤めにピリオドをうって4月から少し新しい生活に移る

当面は、ただ暇になるだけのことだが

もう40年も「休みがあけたら通勤する」ということが当然だったので
少しビビっている

 

明けない夜はないと云うが、明けない休日はあるようだ

家族や友人からは、どこか通うところを持った方がよい、自宅にいては
ダメだなど色々とアドバイスをもらう

 

確かに確かにその通りだ

日々、自宅でぼうっとしていては頭も体も緩んでしまう

ただ、一方で一時はぼうっとしていたいのも事実だ

さて、どうしたものやら

 

 

自分の父親はずいぶん以前に亡くなったのだが、終戦時には満州にいて
命からがら帰国してきたといっていた

チンタオからなんとか横須賀行きの船に乗り、甲板で夜を明かすと開聞岳
が見え、周りの人たちがおんおん泣いていたと教えてくれた

 

この父は、帰国後に当時の日本国有鉄道に就職

たしか58歳ころに割増退職金を得て「早期退職」した

自分がまだ学生のころのことで、大学から帰宅すると父はいつもいつもコタツ
に入ってテレビをみていた

テレビ番組の合間に犬を散歩させ、また戻っては寝ていた

母親の勧めで医療事務の資格をとったのだが、その年齢での就職はかなわず
毎日ストレスを貯めていたようだ

 

それでも、少し小遣いを持つと神戸元町に出かけて喫茶とパチンコを愉しみ
なんとかストレスを追いやっていた

そんなある日のこと、出かけた父が帰宅してこない中、玄関の電話がなって
警察から「元町駅で倒れた」と連絡があった

父はそのまま人生を終えて、一人で旅立った

所持品を確認したとき、サイフには相応の金員があったため、どうやら
パチンコで少し勝って帰宅する途中に事故にあったようだった

本当のところはわからなかったのだけれど、残った家族としては父親が少し
でも幸福な思いのうちに旅立ったと思えて少し楽になった

 

既に、姉は結婚して兄も独立して実家を出ていたので、あの頃の父親の姿を
最もよく見ていたのは三男坊の自分だったので、父はこれでよかったのだろう

と漠然と感じていた

 

 

多くの動物は、子孫を残して生涯を終える

これは自然のことだ

自分も、おかげ様で最低限の子どもを育てられた

ここまで義務を終えて、多くの動物のようにこの障害を閉じてしまう日が
近いことと思う

 

そして、そのセオリーに逆らっていき行く時間が始まる

この春は久しぶりに始まりの春だ

 

(上の画像は神戸にある湊川神社で、神戸で生まれた父は楠公さんと呼んで
いて、「横須賀から乗った汽車が神戸に着いたとき、楠公さんの森だけが焼け跡
の中に残っていたのが忘れられない」と云っていた)

 

 

今日も長田の空は青い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かねてから計画していたスキー旅行に行ってきた。

今年は先輩のリクエストにお応えして志賀高原。

既に10月にはホテルを確保して、当日を楽しみにしてきた。

 

なので、正月あたりからは積雪の状況ばかり気にしていた。

正月すぎには、先輩からLINEがはいり、志賀に行くまえにブランシュたかやま
で足慣らししてから行かないかとのこと。

行きつけの健康ランドで前泊してから志賀に行こうというお誘いだ。

都合4日間も、足腰がもつのかどうかが不安だったが、特に異論はなかった。

 

初日は昼頃にブランシュで待ち合わせ(先輩たちは関西から、自分は川崎から
なので現地集合)、うまく合流して昼過ぎから滑った。

同行した友人はスキーが6年ぶり、ブランシュは初めてとのことで慎重に
ストレッチしてからリフトへ。

 

ブランシュたかやまは車山の裏、北向きの斜面のようで人工ながら雪はよかった。

15時すぎまで、文字どおり足慣らしだけ。

とりあえず着替えもせずに宿泊予定の健康ランドに向かった。

早めにチェックインして、お風呂に入ってから部屋でゆっくり。

特にすることもないので、早々に焼肉屋さんで夕食をとった。

 

 

翌朝、チェックアウトの際に許可がとれたので自分の車を健康ランドの駐車場に
置かせてもらって、友人の車1台で塩尻北ICから信州中野IC経由で志賀高原に向
かった。

志賀高原はずいぶん久しぶりだ。

前回はたしか発哺にあるホテルだっただが、学生たちのスキー合宿と重なっ
ていて食事はシンプルな鍋物、風呂は激混みだった。

志賀高原は学生スキー旅行がやたらに多い。

 

そうこうしているうちに友人の車は峠道を上り、道路はだんだん圧雪状態に

なってきた。

本格的にスキーに来た気分、だんだんと盛り上がってきた。

 

 

 

志賀高原というのは、雪質もよく、ゲレンデも広く、以前はわくわくする
スキーエリアだ。

だが、今回久しぶりに来てみると、プリンスホテル以外は・・・・

まさかの「廃墟かと疑うほどの」外観のホテルばかりだった。

 

遠くはニセコ、近くは八方のように「インバウンド」に侵されていないとは言え
あまりに外部資本が流れ込まないために、各ホテルの外観は崩れ落ちそうな雰囲
気のものだった。

また、ホテルからスキー場内のレストランまで従業員は日本人ばかり。

わずかばかりのインバウンド客(白人+台湾系)に対しても片言の英語で接して
いるのに変に感心した。これも最近では見かけない光景だ。

 

それぞれなにか理由があるのではないかと思う。

異常に地域外からの資本参加を拒んでいるのか、障壁を作っているのかは知ら
ないが、乗車したゴンドラも銘板には「1986年製造」と刻まれていて、割れ目
はガムテープで補修されていた。全く更新されていなかった。

 

バブル崩壊からスキーブームが霧のように消えてしまったとはいえ、霧のむこう

のゲレンデは昭和のままだった。
食事もゲレ食のままでカレーかラーメン、かつ丼。

泊まったホテルの共用部分のトイレは半分「和式」のまま。

 

ピークシーズンでも平日の主な顧客は「**学園」のビブスを着た「スキー旅行」
の高校生たち。

 

結局、「リゾート感」が微塵も感じられないスキーエリアだった。

 

 

 

と、志賀高原の悪口/陰口ばかりになってしまっているが、このエリアは
日本でも有数のゲレンデ群で、我々の憧れのスキーエリアなのは確たる
事実だ。

志賀高原のコアなファンも相当いらっしゃる。

宿泊したホテルにもコアなOLDスキーヤーの方々が集まっておられた。

 

 

ただ、バブルのときほどの賑わいは戻らないものの、ほかのスキー場が夏場を
含めてどんどん活性化している中で置いてけぼりとなっているのが残念だった。

このまま放置されてしまうのか、再生されていくのか・・・。
再生されるにしても、自分たちはそのころには年齢的にもう滑ることが
できなくなっていることを思うと寂しい気分になってしまった。

 

 

 

そんなことを考えながら、自宅に戻ったら数日後にはここでも降雪。

朝から積もった雪を見てはしゃぐ近所の子供たち。

 

真っ白な雪は寒くて冷たくなってしまった心をはずませる。

志賀高原がずっと憧れであれと願うばかりだ。