哲学がアクチュアルであるとはどういうことか? また、哲学はアクチュアルであるべなのか、どうか?

 こう哲学を問うことのなかで、ハイデガー「哲学」が、ナチズムに加担した問題を、一つの具体例として考える場合、これまでの哲学界での議論において、もっとも意義があり、広範に問題の射程を設定している研究に範を得るのは、「その先へ進む」上でも不可欠でしょう。

 中田光雄の『政治と哲学 上・下』はそのような意味での研究の集大成と言っていいでしょう。

 ハイデガーの哲学において、ナチズムへの加担はどのような意味を持っているのか。

 中田は、『政治と哲学 上』の、「第2章「加担」への道」において、一つの見方を披歴しています。

 まず、これまでのハイデガーのナチズム「加担」論争における、弁護派と批判派との双方を、次のように批判しています。

 弁護派に対しては、

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これまで多くの弁護派の論者たちのように、もっぱら思惟不全による誤謬、過失、逸脱、偶然……としてネガティブに捉え、これによって後期ハイデガー思惟あるいは全体としてのハイデガー思惟を免罪する一方、他方では当の「加担」の思想に含まれているポジティブなものを、不当にも封殺、無視、除外……することになりかねない(77頁)

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 批判派に対しては、

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これまで多くの批判派の論者たちが指摘してきたように、「加担」が本質的、必然的……なものであり、ハイデガー思惟がもともと本質的にナチ的性格のものであることを意味するものでもない。(77頁)

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 というようにその誤りを指摘して、論争の在り方が、そもそも間違ってきたと、以下のように総括的に批判します、

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この種の、「加担」は必然的か、偶然的か、本質的なものか、表面上のものか、権力確信犯による所業か、素朴で幼稚な誤謬や過失や逸脱によるものか、……といったこれまで繰り返されてきた議論は、「加担」の思惟そのものがすでに先述した最小三つの側面を含んでいる以上、一義的な回答を得ることのできるはずのものではなく、問題として殆んど意味をなさない。(77頁)

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 ここで、「先述した最小三つの側面」というのは、次のようなものです。

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 ハイデガーの「加担」の思想には、たとえば三つの側面を指摘することができる。①ハイデガー思惟が一定の類洞性をもってナチズム運動と相合している部分。②相合していながら、ハイデガー思惟がナチズム運動と相異なる部分。③①であれ②であれ、そこに現われているのはたしかにハイデガー思惟であるが、しかし同じハイデガー思惟でありながら、そこには姿を現わしていない部分。

してみろと、ハイデガー思惟全体には、最終的には一体であるが、しかし少なくとも二つの側面があり、一方は①と②となって「加担」の思惟を構成し、他方は③(と②)となって、むjしろ「加担」の外なる思惟を構成する、とみることができることになる。(76頁)

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 このように、三つの側面を指摘して、そこから二つの方向性を導いていきます。それを、論争にひきあててみれば、

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 この――むろん研究の便宜上の――二分法は、、必ずしも新しいものではない。すぐに二つの先例を思い浮かべることができる。(ⅰ)ハイデガー読者なら誰しも知るように、ハイデガー思惟の展開はいわゆる「転回(ケーレ)」をもって前期と後期に区分可能とされるが、「存在者(Seiende)」レベルから「存在(Sein)」を窺う前期思惟にナチズム運動との接近の可能性を見、「転回(ケーレ)」以後の、「存在そのもの(Sein)」から「存在者(Seiende)」への関わりを省察する後期思惟に、ナチズムとは無縁の純粋存在思惟を見る立場。(ⅱ)いわゆるフランス派の論者たち(J.ボーフレ、Ph.ラクウ=ラバルト、J.デリダ等)のように、1946年の『ヒューマニズムを超えて』書簡をもってひとつの区切りとし、前期における実存分析という「人間主義」の残滓にナチズム運動といういわば「人為主義」との接近の可能性を指摘し、後期の「脱-人間主義」にナチズムとは無縁の純粋存在思惟を見る立場。

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 ここで、『ヒューマニズムを超えて』とあるのは、邦訳では『「ヒューマニズム」について』(ちくま学芸文庫)として出版されている本のことです。「について」にあたる独語が「を超えて」という意味をも持つため、中田は、ハイデガーの趣旨をより尖鋭に示すために「を超えて」としたのでしょう。

 ともあれ、このような従来の二分法に対して、中田は、独自の新しい二分法を提起しています,

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ハイデガー思惟の年代的展開を単線的に捉えて、そのなかの一過程、しかも思惟未全の一段階として「1933/34年」を位置づけるこれら二つの解釈に対して、われわれは、しかし、これらを尊重しながらも、もう一つやや別個の二分法を設定してみる必要があるように思われる。すなわち、ハイデガー思惟には、最終的に相互一体でありながら、一応区分可能な二つの方向性があり、一方は、「存在者」レベルから「存在」を窺い、「存在」からの関わりを「存在者」レベルで受けとめていく思惟であり、他方は、「存在そのもの」へと先駆的に突入していくまさしく純粋存在思惟である。

これを二つの方向性と呼ぶのは、前者が後者への同一方向における思惟未全の一段階ではなく、両者が本質的に等価的かつ相補的であることを意味する。ただし、事実上は、前者は後者と等価的・相補的な実質をもって展開し続けることなく、「1934年」におけるナチス政権との確執・対立をもって中断され、以後はおおむね後者のみがハイデガー思惟として展開することになった。

このように考え直してみる必要があるのは、もともとハイデガー思惟の基本が「存在なくしては存在者はありえず、存在者なくしては存在問題はありえず」(道標)という「存在-存在者」の相即一体論にあることによる(76~77頁)

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 重要なのは、従来の論者たちは「ハイデガー思惟の年代的展開を単線的に捉えて、そのなかの一過程、しかも思惟未全の一段階として「1933/34年」を位置づける」のに対して、中田は、「二つの方向性」は「思惟未全の一段階ではなく」「本質的に等価的かつ相補的でこと」と、重層的に捉えていることです。

 そして、結論的には、以下のように述べています、

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肝要なのは、「ハイデガー思惟」と「ナチズム運動」から出発して両者の関係を問うことではなく、長きにわたる西欧近代批判のドイツ的潮流のなかで――1919年講義・講演は、これを「シュライエルマッハーからヘーゲルへといたるドイツ運動」「昨今の自由ドイツ運動」と呼んでいる――、そこからの脱-西欧近代・ドイツ的刷新の二つの方向として両者をまず位置づけることであり、その限りで、「歴史的同時代性」ゆえの「歴史的類同性」のなかで、ハイデガー思惟が自ら自身の一側面において――むろん他の側面をも前提しながら――「33/34年」には「加担」の形態をとり、ついでそれを中断して、1934年からは特に(あるいは専ら)すでに同時進行していたもう一つの側面を――むろん、先の側面への追考省察も含みながら――展開させていく、そのやや歪な動的全容を視野に収めておくことである。

われわれにとって残念なのは、前者の方向がそのポジティビテにおいて十全に展開されず、ハイデガー思惟の全体がその二側面相即の円成性において貫徹されぬままに、歪なかたちで中断したことにある(77~78頁)

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 以上のように、「ハイデガー思惟」と「ナチズム運動」という「脱-西欧近代・ドイツ的刷新の二つの方向として両者を位置づけること」を根本の視点として、中田の考究は続いていく。