アートマンとジーバの関係性について

たとえば

水を満たしたバケツに太陽が反射しているとする

 

この場合、太陽がアートマン

     バケツがジーバ

源のアートマンは一つ同じなのに、なぜそれぞれ経験することが違ったり見た目が違ってくるのか。。

 

バケツにはっている媒介にある水が違うとそれぞれ違いが生じる

泥水だったら?揺れ動いていたら?太陽の形はどうなりますか?

 

水が清く、波打っていなかったらアートマンは美しく水に映り、そのバケツは自分自身の真実にたやすく気が付くことができる。

もし泥水だったり波打っていたりしると、自分自身の姿をみることが難しい。

その前に水を浄化させたり静止させる必要がある。。

 

 

ナーラダとビシュヌ神 マヤについての物語

 

ある日、聖者ナーラダが森の中をあるいているときに

別の聖者とその妻に出会った。その出会った聖者が自分の家に昼食に招いてくれた。

奥さんが昼食の準備をしている間、ナーダラは家の周りを散策し、その家には家畜がいることや子供が5人いることを知り、ナーラダは幸せな気持ちになった。

ナーラダはブランマチャリア(学生期)だったので独身でした。

ブランマチャリアは食事を自分で作ることができず施しを受けて食事をしなければ立場だが、この二人の豊かな暮らしをみてうらやましく思った。

ナーラダは楽しい昼食を終えたあと、二人にお礼をしたいのでなんでも言ってくださいといった。そうすると二人はビシュヌ神をつれてまた食事に来てくださいといった。

ナーダラはビシュヌ神のもとに行って、その日おきたことをすべて話した。

ナーラダがビシュヌ神を連れてその夫婦の家にむかっているとき、ナーラダが何かをいいたそうにしていることをビシュヌ神は感じとっていた。

そしてビシュヌ神とナーダラは夫婦の家で楽しく昼食を終え、お礼をいって岐路についた。そして戻ってきてからビシュヌ神は笑いながら、あなたは一体何をお腹にかかえているんだ。吐出したらどうだといいました。

そうすると、ナーダラは一気に早口で「私も奥さん、おいしい食事、牛、やぎ、子ども、あそこにあったすべての美しいものが欲しい」と吐き出した。

 ビシュヌ神は、お昼を食べすぎたから少し横になりましょうか。。と、提案した。

ナーダラも木の木陰で横になり、やがて眠りに落ちた。

そして、あの夫婦と同じものをもっている夢をみた。

近隣の人もとてもいい人でとても幸せを感じた

ナーラダははじめて世俗の世界の家長を経験した。。。

 

夢の中のある日、嵐がその集落を直撃した

その嵐が河川の水が氾濫し

それまで川の水はひざ下だったがあっという間に頭の上を超える量となった

ので、家のものをかき集め逃げる準備をした。

川の氾濫がはじまるまえに向こう側にわたろうと自分のきている洋服と奥さんの服の端と端をむすびつけたり子供を抱いて川を渡ろうとした。。

川を渡れるところまで急ぎ足であるきだしたナーラダは妻にけっして後ろをふりむかないようにいった。その後ろでは家畜や家が流されていってしまっている

なんとか逃げ延びようとしたが大きな波がきて奥さんも子供もながされ

自分だけが助かった。。。

ナーラダは絶望し、あんなにも幸せだった環境がすべてなくなり

神にどうしてこんな仕打ちをするんですかと嘆いた

その瞬間ナーダラは目を覚ました。

 

そしていまのは何だったのですかとビシュヌに涙をぬぐいながら聞いた。

いまのは私のマヤの力だよと答えた

本来ひとは何度も人生をくりかえすことで少しずつマヤの力を見抜くことを修行していくことをするが私はいま一度の夢であたなに伝えようとしたんだよと説明した。

この物質/世界のあらゆるものが、私たちを幸せにしてくれると私たちは欲求してしまうけど、それらが本当の幸せ・永遠の幸せをあたえてくれない。

わたしたちはマヤの力で勘違い錯覚してしまうけど実際はそうでなく、

欲望に惑わされずスピリチュアルな道、精神修行の道を歩み続けることの大切さを、この夢を通してあなたに伝えたかったんだ。

 

これがマヤの働き・力です。マヤは、アビッティア=無知な状態、智慧のない状態。

自分自身がなにものであるか気がついてない状態をアビッティアという。

 

ビシュヌ神がナーダラにおしえてあげたのはこの世界(この世界=ジャガット)はミッティアだよ。

この世界は否真実である。。」

唯一ブラフマンが真実/現実=サッティア

 

マヤはブラフマンの創造の力。。すべてにあまねく力

ブラフマンにマヤの力をたしてイシュワラ(神)があらわれる

マヤという力は繰り返し繰り返し創造を生み出す。ただイシュワラを生み出すだけではなく、次にアートマン/自己がうみだされる

アートマンの次にジーバが生み出される。ジーバとは、わたし達が私だと思っている心・体のこと

※ジーバは体(個人)・ アートマンが自己

 自己(自分)を知ることは、ブラフマンを知ること

※アートマンというのは純粋なる魂のことという訳をする人もいる

 

スピリチュアルな道とは自己探求の道 自己探求とは私自身が何者であるのかを探求する道をいう。

わたし自身がアートマンであると自覚すること。

別の言い方をするとこの私たちが究極的に自覚できる真実をアートマンとよんでいて、体というのは私自身がアートマンなんだというのを自覚する道を歩むための入れ物・道具。この体があるから私たちはその探求をすることができる。

私たちは本来アートマンそのものであるが、私たちは、アートマンと体を一緒くたんにしてそれが自分なんだと思ってしまう過ちをする。

 

 

背骨まっすぐ目を閉じて心・体を楽にして・・・

自分の座っている姿勢を観察し背骨をのばします。

自分の体が安定して心地よい状態にするのに少し時間をとります。

自分の体が完全に安定した状態にすることが瞑想の土台になります

 

最初のうちはどれだけ姿勢を調整しても居心地の悪さが残るかもしれません。

 

それは瞑想中に少し我慢することになりますが、瞑想の練習を続けていくことによってその違和感は少しずつなくなっていきます。

 

また今回の瞑想をとおしても違和感は少しずつ意識からはずれていくことでしょう。

 

全身リラックスさせたら

意識を呼吸にむけて。。まずは意識的に呼吸をします。。

優しく息をすって、はいて

吸って、、はいて  吸って、、、はいて

呼吸に意識を向け続けます。。吸う息の度にプラナという形で神聖なエネルギーが体の中にとりこまれています。

吐くたびにプラナが体全体、心全体を清めていってくれています。

そして吐く息が自分の中の不必要な感覚・感情・疲れ・強張りなどを取り除いていってくれています。

 

では、意識を呼吸から心・思考にむけていきます。

呼吸はおこるがままに任せておきます

 

自分の中にうかぶ思考・感情・感覚にひっぱられることなく、ただ観察します。

自分の意識の中に何かうかんできたら、そのままにして、浮かんできた内容を追いかけたりそれに左右されたりしないようにします。

私たちの心は湖のように。。そして思考はこの湖におきる波のようなものです。

この波が落ち着くとき私たちは湖の底まで美しく見通すことができます

同様に思考が完全に心から消え去ったとき私たちは底を見通すことができます。

それはすなわち自分自身を感じること自分自身であることを意味しています。。。

 

この境地にいたるうえで私たちの意識、心は欲求から自由である必要があります。

 

もし自分の心が惑わされるような思考などがうかんだら一度、意識を呼吸にもどして呼吸がおちついてきたら再び思考・浮かんんでくる感覚などの観察に戻り、

浮かんでくるものを、ただただそのままに浮かぶに任せ、それが消えていくのに任せます。

これはまるで熟睡しているときの意識のようで、熟睡中、私たちは思考が一つも浮かんでいません。

同様に瞑想中は思考が一つもない状態を目指します。

このように熟睡と瞑想はとても似ていますが唯一の違いは瞑想中はすべてに気が付いているということです。

熟睡中は何にも気が付いていない状態。

このことから睡眠は無意識の瞑想とよばれます

そして瞑想は意識的な睡眠と呼ばれます。

瞑想は体から呼吸、呼吸から心、心から自分自身にむかう旅路のようなもの。

 

なので体なしに瞑想は成り立ちます。しかし同時に私たちはこの体を自分だとは思っていません。あくまでこの体は瞑想の道具です。同様に心もまた瞑想のための道具です。

なので私たちはただ本当の自分を自分だと思えばいいのです。

思考がひとつもないとき私たちは自分自身を感じることができ、自分自身であることができ、その至福を味わうことができます

 

 

 

 

 

シャンティ・シャンティ・シャンティ