ナーラダとビシュヌ神 マヤについての物語
ある日、聖者ナーラダが森の中をあるいているときに
別の聖者とその妻に出会った。その出会った聖者が自分の家に昼食に招いてくれた。
奥さんが昼食の準備をしている間、ナーダラは家の周りを散策し、その家には家畜がいることや子供が5人いることを知り、ナーラダは幸せな気持ちになった。
ナーラダはブランマチャリア(学生期)だったので独身でした。
ブランマチャリアは食事を自分で作ることができず施しを受けて食事をしなければ立場だが、この二人の豊かな暮らしをみてうらやましく思った。
ナーラダは楽しい昼食を終えたあと、二人にお礼をしたいのでなんでも言ってくださいといった。そうすると二人はビシュヌ神をつれてまた食事に来てくださいといった。
ナーダラはビシュヌ神のもとに行って、その日おきたことをすべて話した。
ナーラダがビシュヌ神を連れてその夫婦の家にむかっているとき、ナーラダが何かをいいたそうにしていることをビシュヌ神は感じとっていた。
そしてビシュヌ神とナーダラは夫婦の家で楽しく昼食を終え、お礼をいって岐路についた。そして戻ってきてからビシュヌ神は笑いながら、あなたは一体何をお腹にかかえているんだ。吐出したらどうだといいました。
そうすると、ナーダラは一気に早口で「私も奥さん、おいしい食事、牛、やぎ、子ども、あそこにあったすべての美しいものが欲しい」と吐き出した。
ビシュヌ神は、お昼を食べすぎたから少し横になりましょうか。。と、提案した。
ナーダラも木の木陰で横になり、やがて眠りに落ちた。
そして、あの夫婦と同じものをもっている夢をみた。
近隣の人もとてもいい人でとても幸せを感じた
ナーラダははじめて世俗の世界の家長を経験した。。。
夢の中のある日、嵐がその集落を直撃した
その嵐が河川の水が氾濫し
それまで川の水はひざ下だったがあっという間に頭の上を超える量となった
ので、家のものをかき集め逃げる準備をした。
川の氾濫がはじまるまえに向こう側にわたろうと自分のきている洋服と奥さんの服の端と端をむすびつけたり子供を抱いて川を渡ろうとした。。
川を渡れるところまで急ぎ足であるきだしたナーラダは妻にけっして後ろをふりむかないようにいった。その後ろでは家畜や家が流されていってしまっている
なんとか逃げ延びようとしたが大きな波がきて奥さんも子供もながされ
自分だけが助かった。。。
ナーラダは絶望し、あんなにも幸せだった環境がすべてなくなり
神にどうしてこんな仕打ちをするんですかと嘆いた
その瞬間ナーダラは目を覚ました。
そしていまのは何だったのですかとビシュヌに涙をぬぐいながら聞いた。
いまのは私のマヤの力だよと答えた
本来ひとは何度も人生をくりかえすことで少しずつマヤの力を見抜くことを修行していくことをするが私はいま一度の夢であたなに伝えようとしたんだよと説明した。
この物質/世界のあらゆるものが、私たちを幸せにしてくれると私たちは欲求してしまうけど、それらが本当の幸せ・永遠の幸せをあたえてくれない。
わたしたちはマヤの力で勘違い錯覚してしまうけど実際はそうでなく、
欲望に惑わされずスピリチュアルな道、精神修行の道を歩み続けることの大切さを、この夢を通してあなたに伝えたかったんだ。
これがマヤの働き・力です。マヤは、アビッティア=無知な状態、智慧のない状態。
自分自身がなにものであるか気がついてない状態をアビッティアという。
ビシュヌ神がナーダラにおしえてあげたのはこの世界(この世界=ジャガット)はミッティアだよ。
この世界は否真実である。。」
唯一ブラフマンが真実/現実=サッティア
マヤはブラフマンの創造の力。。すべてにあまねく力
ブラフマンにマヤの力をたしてイシュワラ(神)があらわれる
マヤという力は繰り返し繰り返し創造を生み出す。ただイシュワラを生み出すだけではなく、次にアートマン/自己がうみだされる
アートマンの次にジーバが生み出される。ジーバとは、わたし達が私だと思っている心・体のこと
※ジーバは体(個人)・ アートマンが自己
自己(自分)を知ることは、ブラフマンを知ること
※アートマンというのは純粋なる魂のことという訳をする人もいる
スピリチュアルな道とは自己探求の道 自己探求とは私自身が何者であるのかを探求する道をいう。
わたし自身がアートマンであると自覚すること。
別の言い方をするとこの私たちが究極的に自覚できる真実をアートマンとよんでいて、体というのは私自身がアートマンなんだというのを自覚する道を歩むための入れ物・道具。この体があるから私たちはその探求をすることができる。
私たちは本来アートマンそのものであるが、私たちは、アートマンと体を一緒くたんにしてそれが自分なんだと思ってしまう過ちをする。