前回まで連載させて頂いた関西学生應援團連盟が初の連盟祭を開催した昭和56年は、関西での応援団文化の集大成とも言える最後の光芒を放つ年であるという見方も出来ます。当時の我が團は27代目 石井團長の治世でありました。不世出の乱舞師と言われた山口リーダー部長が在籍していた代でもあり、我が團の陣容も充実している時代でありました。関西学生應援團連盟の加盟校と比較しても遜色ない陣容であったと思います。学内でも三武会の盟友である空手道部、少林寺拳法部も多くの部員を抱え三武会全体では百名の構成員を抱える一代会派を形成しておりました。
この翌年より我が團の團勢が衰退して参ります。1学年6名が集団で退団する事件が勃発するのであります。完全なる縦社会である応援団は各学年毎の役割分担で組織が構成されている訳でありまして、1学年がごっそり抜けるという事は人数以上のダメージがあります。組織防衛の為に多くの労力が割かれ、活動は低迷致し、昭和60年になる頃には団員数は1桁台にまで落ち込みます。
過去、解散や活動休止を何度か経験してきた我が團でも、今度こそは本当になくなってしまうのではないかという危機感がありました。昭和60年代の各代の幹部の努力で平成2年には団員数は2桁台に回復するに至り、何とか危機を脱した次第でありますが、昭和50年代後半にこの状況は想像出来なかった事でありましょう。
この時期、毎年、年賀状を下さっていた応援団から来なくなったりしており、名簿の整理をしたことがあります。活動休止したと思われる応援団を発送対象から省ていく中で、随分と多くの団がなくなったものだと思った記憶があります。この時期を乗り切れただけ我が團は良かったのかもしれませんが、結果的にはその後、継続させる事が出来ませんでした。
目に見えなくとも時流は絶えず動いております。その流れを適切に見極めて、その時々で最善の手を打つ事の重要性を改めて思い知る事案であります。
【二十七代目甲南大學應援團(昭和56年)】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会