トシオくん【6】【最終話】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

そんな日々を送っていたトシオくんですが、トシオくんのみならず、我が團にとって驚天動地の事件が起きます。創團5年目と言うにも関わらず應援團解散という事態が発生したのであります。

 

昭和30年代前半という時代は、戦後からの脱却が急速に進んだ年代でありまして、昭和31年に発表された経済白書に「もはや戦後ではない」と記載されるほど、目に見えて国民生活が劇的に変わった時期でありました。

その一方、社会では様々な矛盾、問題が表面化し法整備も進んだ時代でもあります。銃砲刀剣類所持等取締法凶器準備集合罪・凶器準備結集罪が制定されたのはトシオくんが2回生の折の昭和33年の出来事であります。

 

詳細は記しませんが、昭和33年、我が團は大学当局より解散を言い渡されますが、法学部教授・学生部長であった木下丹先生のご尽力により、罪一等減じられ1年間の活動停止処分になります。

よって五代目治世の終盤から六代目の治世の過半にあたる期間、我が團は公式行事には一切、参加が認められず、團内行事のみを細々と行うに留まりました。

 

この間、團を去る者はいない訳ではありませんでした。トシオくんは家庭の事情で、應援團をそして甲南大学を去る道を選んだと伝えられています。しかし應援團が公式活動を行っていない時期故に、それがいつの事なのか、詳細は分かりません。

 

トシオくんがそのまま甲南生としての学生生活を全うしていれば、我が團七代目幹部の中に名を連ね、おそらくその名は筆頭に書かれていたであろうと言われております。

 

トシオくんの声望に惹かれ、1学年下には米田、2学年下には大久保という暴れん坊がが甲南大学に入学して参りますが、当時、應援團は活動停止中という事もあって、空手道部に入門しております。

話は横道に逸れますが、空手部の米田先輩と言えば、歴代の甲南生の中でも我が團の本多先輩に比肩し得る唯一の有名人でありますし、大久保先輩はかの明治維新の英傑・大久保利通の末裔にあたる血筋の良さでありながら、薩摩隼人の血が騒ぐ豪傑肌の先輩でありました。後年、大久保先輩は行きずりのトラブルに巻き込まれた結果、凶弾に斃れ短い生涯を閉じます。

斯様な先輩が我が校空手部の黄金期を支えられたのは事実であり、喜ぶべき事ではありますが、本来は應援團を志望されていた訳でありますので、悔恨の念は拭い切れません。

 

歴史にifはありませんが、当時、應援團が活動停止になる様な下手を打たず、トシオくんが應援團員を全うしていたら、その後の我が團の歴史は大きく変わっていたであろう事は間違いありません。

 

さて、この稿の冒頭で、渡瀬恒彦に関する記事を書いている中、トシオくんの話を思い出して本稿を書き出したと記載しましたが、その理由は渡瀬恒彦は「三代目襲名」という映画の中でトシオくんの縁戚にあたる方を演じていた為なのであります。

我が團では途中で團を去った者に関しては原則、OB会への入会資格はないと見做されます。よって現在、残っているOB名簿にトシオくんの名前はありません。

またおそらく大学にも中退者の情報が全て残っているとも思えず、ましてやトシオくんの事は大学としては歓迎すべき歴史ではないでしょうから、我々が記述せねば、これらの歴史は永遠に闇に埋もれてしまう事でありましょう。

 

されど事実は小説よりも奇なり、こんな歴史も残してゆく事が我々の責務であると考える次第であります。【完】

 

甲南大學應援團OB会

八代目甲雄会團史編纂委員会