そんな厄介な時期に渉外担当の見習いに抜擢されたトシオくんでありますが、本多團長在籍時より團員数は減り、本多團長ほどの胆力・交渉力を持った渉外担当も不在の中、試合前の渉外は難渋を極めておりました。
本多團長時代は、当時としては画期的な親衛隊業務のアウトソーシングを実施、旧制甲南の校歌である「沈黙の鐘」ならぬ「沈黙の釣鐘」とも呼ぶべき武装親衛隊が豊富な火力を背景に無言の威圧を与えておりましたので、渉外は極めてスムースであった様であります。
親衛隊はともかく、武装親衛隊は学内でも物議を醸し、本多團長の卒業と共に自然と解体された経緯もあり、トシオくんが渉外担当見習になった当時は、渉外担当は難交渉に次ぐ難交渉という状況だった訳であります。
ある硬式野球の試合開始前、対戦校應援團との交渉の場に、相手校の大貫禄の親衛隊長が見るからに屈強そうな親衛隊員をぞろぞろと引き連れて登場します。何せ相手は関西でも三指に入ると言われた超武闘派、親衛隊を含めても当方の倍以上の團員を擁しております。
こちらは渉外担当、次期渉外担当候補と見習のトシオくんの3名でありますが、最初から先方に交渉する気などなく喧嘩腰で無理難題を吹っかけて参ります。
通常であれば粘り強く交渉を重ね、試合開始の合図まで時間を引き延ばし話を有耶無耶にするという消極的な渉外を当時は行っていたそうですが、今回はあろうことか、血の気の多いトシオくんが交渉半ばで怒りを爆発させてしまったのであります。【以下次稿】
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会團史編纂委員会