関西には関関同立や近畿大といった多くの強豪チームを擁する大学では應援團が勢威を誇っておりましたし、京大、阪大、神大など国公立大学にも相応の組織力を誇る應援團が多数あったりと関西にも教材は沢山ありました。無論、團長氏の訪問要請を受けるか受けないかの問題はありますが、わざわざ新生應援團が関東から勉強しに来ましたと言われれば、應援團と言う特性を考えると断りづらかったのではないかと思われます。
当初、我が團が依頼を受けた時も「わざわざ関東から?」という疑問と「しかし何故、敢えてウチに?」という二つの疑問が浮かびましたが、断る理由もないのでお受けさせて頂いたのであります。
何故、我が校に来たのかは、来校される先日に團長氏が訪問していた應援團の幹部の一人が我が團の幹部と親しく「是非、甲南も見学すべきだ」との助言を与えた為であります。
有難い様で困惑を隠せないものの、その友好関係にある幹部氏が團長氏を團室まで連れて訪ねて参ります。当時は我が團も吹奏楽部を創設したばかりで、実際の応援活動は前近代的な太鼓一張の応援であります。特に他者に教えられる様なものはないと思っておりました。
ところが関東でも関西でも既に私共がやっていた応援スタイルや團運営方法のスタイルは絶滅しつつあり、逆に新鮮であった様で、團長氏の大学は偏差値は高うございましたので、忽ち應援團の進化過程を理解したのであります。
同時に当時、我が團でも発足間もない吹奏楽部員の勧誘に走り回っていた時期でしたので、勧誘についても意見交換が出来ました。
團室で歓談しておりますと近所のお好み焼屋のママが差し入れを持って来て下さったかと思えば、夕方には某幹部行きつけの店の女性がツケの催促に乱入してきたりと、慌ただしい團室の日常に苦笑しながらも、團長氏は予定を変え、神戸に宿を取り、三宮で痛飲致しました。
創成期の応援団の当代と言うのは凄まじいエネルギーの持ち主で、先輩方が敷いて下さったレールの上を走る我々では体験出来得ない労苦と真正面から戦う逞しさがございました。もっと我々も團の在り様とか将来像について真摯に考えなければならないと痛感させられたのでございます。
後日、その團の機関誌を拝見すると「首都圏、関西地区、神戸で他團のご指導を仰ぎ…」と記載があり、「我が團の運用も参考になったのか」と内心、喜んだりしていましたが、まさか神戸大学の事ではなかったのかとふと不安になったりした事を思い出します。
甲南大學應援團OB会
八代目甲雄会広報委員会