團旗は應援團の生命であると言われます。実際に團旗は「應援團の象徴であり全学友統合の象徴」である訳であります。
故にその取り扱いには万全の配慮が求められます。團旗に関する備品、旗、ポール、またそれらを収納するケース類を触れる場合は白手袋の着用が義務付けられ、実際に掲揚する場合は、旗手、側立ちと呼ばれる旗手の両脇を固める様に警護する者は白手袋以外にも学帽の着用が必須であります。
当然、床や台の上でも直置きは現金でありまして、團室で収納するスペースは清められた上で布や新聞紙を敷き詰めた上に鎮座する様に収納致します。
あくまでも私見でありますが、こういう應援團の旗の取り扱い、その他でも学ランへの異常なまでのこだわりは、旧帝国陸軍の文化を踏襲している気が致します。
歴史を紐解きますと、学習院院長でもあった乃木希典大将がその起源ではないかと思われます。武士道というものを最重視し、軍人の規範をそこに求めた大将は、自らも率先垂範し、且つ日露戦争勝利の象徴になり栄華を極めながらも、明治天皇崩御に際し殉死するという劇的な生涯は陸軍の文化形成に極めて重大な影響を及ぼしていると思われます。
乃木大将は軍人たる者、常に軍服を着用していなければならないとして、自らは就寝する時に至るまで着用していたと言われております。この辺りの文化を應援團が模倣した可能性は極めて高いと言えましょう。
また旗に関しても軍にも軍旗というものがありまして、乃木大将は若い頃に部隊を率いて出陣した西南戦争の折、敵軍に自部隊の軍旗を奪われるという失態を犯します。まだ陸軍が創設され間もないこの時代に軍旗を失った場合の処分等明確ではありませんでしたが、この時、若き乃木少佐は腹を切って責任を取ろうとし周囲に制止されます。このエピソードがその後の帝国陸軍における軍旗の取り扱いの規範に影響を及ぼした事は間違いないでしょう。
こういった他国の軍隊にもない独特の文化を進んで取り入れた可能性は極めて高いと言えましょう。さすがに應援團では捧げ銃の敬礼をもって臨むという訳には参りませんが、出来得る最大限の礼を以て團旗に接します。
無論、こういう姿勢に賛否両論あるのは重々、承知致しておりますが、團旗なくして應援團文化の成立は有り得なかった事は確かでありましょう。
八代目甲南大學應援團OB会広報委員会