リーダー部列伝【1】 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

第1回 サラブレッド 宮崎忠之(十四代目甲南大學應援團リーダー部長

過日、甲南大學應援團 リーダーの起源と題し5回連載で我が應援團創設の頃のリーダーの成立の過程について記事を書かせて頂きました。その後、苦心の末、産み出されたリーダーが伝承されてゆく中で、名人として語り草になっている先輩がおられますので、その伝説を追ってみたいと思います。

昭和30年代後半から40年代半ばにかけての約10年間は我が團では1学年10名以上の團員が揃う第二黄金期でありました。リーダーの観点から申せば、幹部が10名以上いる中でのリーダー部長というのは競争率が高く、自然どの代もかなりの腕前であります。故にこの時代のリーダーは軒並みレベルが高うございました。

この中で敢えて誰を取り上げるか難しいところではありますが、十四代目甲南大学應援團宮崎忠之リーダー部長をご紹介申し上げたいと思います。この年代の会員にリーダーに関するお話を伺うといの一番に「宮崎先輩のリーダーはそれは見事なもの」という話が出て参ります。幸いにも宮崎リーダー部長が応援歌を演ずる貴重な写真が残っておりましたのでご紹介致します。
甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

実は宮崎先輩の実兄は近畿大学應援團でリーダー部長を務められた方であります。宮崎先輩はそんな兄に憧れ、大学は違えど應援團の門を叩いた謂わば業界のサラブレッドなのでございます。兄も弟が同じ道に入ったと聞き、應援團員としての気構え、リーダー部の意気を叩き込んだとの事でありまして、宮崎先輩は練習や團務を終え帰宅しましても、実兄による指導がある訳でありす。帰り道での宮崎先輩の悲痛な顔は忘れられないと仰る方がいます。
大学でも自宅でも文字通り24時間365日團員修行をやり抜いた宮崎先輩のリーダーは実に流麗であったと言われております。かつて8ミリフィルムがあったそうでありますが、残念ながら現存致しておりません。

この年代はリーダーのレベルが高かった為、演武の型の見直しが加えられたり、新たな演目が開発された時代でもあります。そして14代目で「必勝音頭」が、15代目で「逍遥歌」が演目に加えられ、今日に至る主要な演目は整備されました。

また学園歌や征覇行といった演目のリーダーにも改良が加えられました。もっとも当時と現在、伝わっている型の間にも相違はございまして、例えば名物タコ踊りは当時はまだ扇子を持たず素手でやっておりましたし、5番と6番の間に三三七拍子を入れたり、と後世のものとは印象が異なります。
また乱舞祭では数え歌は親衛隊隊長が演ずる事が多かった様であります。

とは申せ、この時代に後世にまで伝わる型の基本が確立した事は間違いございません。

【宮崎忠之リーダー部長(14代目)】
甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

八代目甲南大學應援團OB会
広報委員会