山下正和初代團長 | 甲南大學應援團OB会のブログ「雲外蒼天」

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甲南大学応援団再建物語
~黄霧四塞すと雖も、上に蒼天なきに非ず~

山下正和先輩は初代團長でありまして、OB会名簿の先頭に名前が掲載されておりますので、過去、我が團に在籍した事がある方なら、一度はその名を拝見した事がおありかと存じます。

しかし我が團の黎明期であり、資料もほとんどなく余りその横顔は知られておりませんので、現在、判明している範囲でその足跡をご紹介しましょう。

【山下正和初代團長】

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山下初代は昭和26年に建学された甲南大学1期生約120名の中の一人でございます。長崎のご出身で入学後、創部されたばかりの空手道部に入部され大学生活を送っておられました。

九州訛を気にしておられたのか、恐ろしいばかりの無口であったと伝えられています。普段は目立たない感じの雰囲気であられた様ですが、空手の腕はめきめきと上達し、その無口さと人格的迫力で一目、置かれる不気味な存在であった様であります。

 

そんな山下初代に転機が訪れるのが3回生の時でございます。空手道部の新入部員として本多孝雄先輩(後の二代目團長)が入部され、程なく應援團結成の活動を開始されたのであります。その運動はたちまち大きな輪となり、應援同好会が発足されるに至りますが、山下初代は意に介する事なく空手に打ち込んでおられました。

 

一方、本多先輩は1回生ながらも同期生を中心に應援同好会の勢力拡大に努め、翌年には正式に應援團を誕生させるに至ります。應援團を発足させる過程で、上級生がメンバーの中にいないという問題がありました。まだまだ社会一般的に上下関係が色濃く残っておりました時代ですので、全学友を巻き込でゆく必要がある應援團活動では最上級生をトップに戴いた方が、学生への呼びかけや他部との連携がスムーズだったのであります。

本多先輩は短い期間ではありましたが空手道部で接した事がある山下初代こそトップに相応しい人物と確信致しておられた様で、應援團結成にあたり團長の大役をお願い申し上げたのであります。

 

山下初代が語られる時、真っ先に出て来るのが隻腕であったという事であります。事故で左腕を失い、右手一本で当時の大所帯の應援團を指揮されていたのでございます。

暴れん坊と呼ばれ恐れられた本多先輩でさえ手を焼いたという激しい気性を石の如き沈黙で覆い、当時としては理想的な團長であったと伝えられております。

 

山下初代は卒業後、学習塾経営に乗り出し成功を収められますが、33歳の若さで波乱に満ちた生涯を閉じられました。長崎で催された葬儀にはOB会長に就任していた本多先輩を筆頭に、現役應援團も12代目幹部以下の面々が多数、参列させて頂きました。

 

山下初代は大東亜戦争後間もない乱世の中でこそ、その真価を発揮出来得たと言えましょう。昭和31年の経済白書は「もはや戦後ではない」という有名なフレーズで締め括られておりますが、戦後ではなくなった社会は山下初代にとっては生き難い時代であったのやしれません。

 

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