平成23年(2011)3月11日、午後2時46分、マグニチュード9.0の大震災に東北・関東が見舞われました。
管 直人内閣(民主党政権)、民主党が与党の時でした。
東日本大震災。あの日。日本は、津波と原発事故と云う第2次世界大戦以来の人類史上未曾有の大災害に陥いりました。平成の日本は、幾度と災害を襲いましたが、あれほどまでの恐怖はなかったと云えるでしょう。「津波」そして「原発事故」の当事者だけでなく、電力不足に伴う「計画停電」を体験した東日本の国民は、東北のことだけではなくなった瞬間でした。
震災の当日、私は、約20年近い「ひきこもり」に陥っていました。精神科や心療内科を渡り歩き…震災当日は、クリニックの初診でした。揺れた?と思っら、けたたましく携帯の緊急地震速報の音が鳴り響く刹那、新潟県中越地震を遥かに越える激しい揺れに襲われました。2階の部屋から一気に階段を駆け落りて、自宅の駐車場に出るとまさに、「大地が揺れている」と感覚を覚えました。
何かに掴まっていないと立つことができない。何本もの電柱は揺れて、電線はまるで子供が縄跳びを回してるように激しく半回転して、波を打っていました。自宅や近隣家々が倒壊するのではないかと、恐怖しました。遠くの方から誰かヨタヨタ歩いて来る。私は、「危なっかしい」と、思って視てると、私の父でした。震災の揺れが来る度に、堂々としてる父は、「空襲経験者」なので、簡単には動じないのですが、いつもの父とは違って、さすがに「デカかったナァー!」と興奮冷め上がらない様子で、余震にお互い堪えながら自宅に入りました。近所に職人のトラックが止まって居る様子を視ると、再び大きな余震に襲われました。トラックのラジオから、報道が流れ始めると職人たちは、いろめき立って居ちました。
父と私で部屋に散乱した、花瓶や雑誌など方々に散った後片付けをしました。母は仕事で連絡は取れません。
とりあえずテレビをつけようと『NHK』に合わせると「何か土煙を巻き上げている様子」でした。
私は言葉にならない言葉を口に出した『いったい!?何だ??何が起きてるんだ?』と。そうこうと迷ってるうちに時計の針は、3時を過ぎていました。初診の予約時間を過ぎて、こんな時にどうかしてると思いましたが、私がすべきことは、「クリニック」に行くことでした。弱々しい父に留守番を頼み、絶え間なく激しい余震に揺れながら、自転車で、クリニックに向かいました。診察待ちに、「バリバリ」と天井の窓ガラスが激しく揺れます。3人ほどの看護師さんがとても心配そうに固まって天を仰ぎます。多分同じことを考えた筈です(割れて落ちて来ないか…と)。少し待つと、診察室に呼ばれて、いよいよ診察なのですが、激しい突き上げと、横揺れの余震とガラス音。私は思わず「先生…大丈夫でしょうか!?」と問うと、主治医は「大丈夫ですよ。建てて1年ぐらいしか経ってないからね」って、返答。いや…何の説得力もないです。主治医も悟ったのか…この状況でまともな心療も出来ず、とりあえず処方箋を出してもらって、会計を済まして薬局に移動しました。
薬局は少し離れた場所にあって、総合病院と併設してました。毎度患者が多いと思いながら、引換券を持って、椅子に腰掛けました。相変わらず、患者同士のお喋りが花を咲かしてるのかと周りを視ると、みんな頭をやや上に上げています。私も同じ方向を視ると大画面テレビがあって、その画面いっぱいに『津波』が、激しく田畑や住宅や道路や防災林や走行中の自動車等を呑み込んで行く様子が映しだされていました。私が津波を知った時間は、4時20分過ぎ頃でした。その薬局のテレビで初めてこの国の惨状を知りました。クリニックから帰宅した私は、両親が、自宅で津波の様子を食い入るように視聴していました。母に手招きされて、促される様にテレビを視ると、更なる悪化に戦慄を覚えました。
その後は…現在進行形の管(すが)政権下のコロナ禍と同じように、コロナ感染を抑えるための緊急事態宣言やワクチン接種等と、例えば毎日『ミヤネ屋』が、10年前(管(かん)政権)と同様にトモダチ作戦や原発事故(原子力緊急事態宣言)等日々情報を求めて追い掛けました。