セルムです。

皆さんは『インパール作戦』という大東亜戦争末期に無謀と云われた「インド解放戦」についてご存知ですか?
日本人よ。歴史を知りましょう。
戦前の日本が暗黒時代だと云うのは間違いです。
日本の教科書は、特に「近代史」について、自虐史観を教える学校が多々あります。
階級社会が当たり前となった今日、学校で習った歴史教科書だけを鵜呑みにせず、自分なりに調べてみることも大切です。さもなければいつの間にか、自分で自分達の歴史を貶める集団の仲間入りになっている可能性があるからです。
たくさんある教科書を読み比べて見れば自ずと、見えないものや、知りたい事が見えて来ます。


大日本帝国は過去に於いて、確かに朝鮮半島(大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)を、台湾(現:中華民国)を、中国(現:中華人民共和国)を、南洋諸島(米国自治領グアム、パラオ共和国、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を、東南アジア(フィリピン、ベトナム社会主義共和国、ラオス人民民主共和国、カンボジア王国、タイ王国、ミャンマー(旧ビルマ)民主共和国、マレーシア、シンガポール、インドネシア共和国、東ティモール民主共和国)で迷惑をかけて来ました。


これは事実です。確り、受け止めなければなりません。私も日本は謝罪し続けなければいけないと思います。


しかし日本は「大東亜共栄圏」の名の下に、アジアを、特に東南アジアから白人支配を解放・独立の切っ掛けを作った事は紛れもない真実です。
昭和18年(1943)11月5日~6日帝国議会議事堂(現国会議事堂)内の一室で「大東亜会議」が開催されました。主な内容は、白人支配からの解放と大東亜秩序の建設です!
日本を盟主として中華民国、満州帝国、タイ王国、ビルマ国、フィリピン共和国、陪席者として自由インド仮政府、地域代表として蒙古連合自治政府が参加しました。また同盟国の在日外交団も出席(ドイツ大使、イタリア大使、ハンガリー公使、ルーマニア公使、ブルガリア公使、フィンランド公使)


【大東亜会議】




(各国大東亜会議列席者)







【大東亜会議後の記念写真(左からビルマ国バ・モウ国家代表、満州帝国張景恵・国務総理大臣、中華民国汪精鋭・行政院長、大日本帝国東条英機・首相、タイ王国ワイワイ・タヤコーン親王殿下、フィリピン共和国ホセ・ラウエル大統領、自由インド仮政府チャンドラ・ボース・ネタジ(統領))】




(写真撮影終了後)





(大東亜会議国民大会)





昭和18年(1943)10月21日、日本領昭南島(現シンガポール)に【チャンドラ・ボース・ネタジ(統領)】をトップとする【自由インド仮政府】が樹立されました。


A級戦犯で有名の東条英樹首相、帝国陸軍関係者臨席のもと、観兵式を挙行し、ボースは集ったインド人の民衆に訴えます!


「チェロー・デリー!(進め!デリーへ)」


当時、インドは大英帝国の植民地でした。
インド人は英国に搾取され続け、有力政治家のネルーや非暴力・不服従のガンジーらがそれぞれの立場で独立運動を展開していました。
ボースは当初から武装闘争で、独立と考えていましたが、彼には、軍隊経験のない政治家でした。ドイツに滞在した際は、ヒトラーから「インドが、独立するには、あと150年懸かる」と、体よくあしらわれて相手にされませんでした。そこにドイツ外務省がインド政治機関の設立を手助けしましたが、ボースの欲する軍人は、3000人程(3個連隊)しか集まりませんでした。インド人にしてみれば、同胞を殺す恐れと英領インド軍人は、一定額の給与を保証されていたので軍籍を離れたくなかった者が多くいました。ドイツでの、軍隊編制は結局上手くいかずボースは、日本行きを決めます。
ドイツ海軍のUボートに従者と乗り込み、連合軍に察知されないためイギリスの海域近くまで北上してから南へルートへ変更し、大西洋から南アフリカ希望峰辺りで日本海軍の潜水艦と接触します。荒れ狂う海の中をボースと従者は辛くも日本の潜水艦へ乗り込みます。潜水艦は一路インド洋へそして昭南島に到着します。
ボースが到着した時点で、昭南島とマレー半島には英領インド兵捕虜が6万5000人程いました。ボースは、念願の「武力」を手に入れました。
屈強で死をも恐れない精神力の強い兵士1万3000人を選抜して「自由インド国民軍(INA)」を3つの遊撃師団として編制します(武装は、英領インド兵の武器を代用)
昭和19年(1944)1月8日、バ・モウー国家代表のビルマ国(現ミャンマー)へ政府機関と主力部隊を移転します。
同年3月8日「祖国の解放と祖国の名誉回復のため」ボース率いる自由インド国民軍(INA)は共同戦線を張る日本陸軍の支援のもと「インパール作戦」を開始します。戦域は熱帯雨林の地域で突破する事は難しく一進一退の攻防が続きます。
辛くも英領インドの地を踏みしめて、ビルマとの国境近くにある「インパール」を奪還し、更に奥地の「コヒマ」も奪い返す事に成功しました。
すぐ様、占領都市に自由インド国民軍人が、事前に準備していた「自由行政班」を次々に立ち上げて、秩序の回復を計ります。
しかし、英領インド政府が、情報統制を徹底していた為に、住民からの協力はあまり得られずまた、日本軍は食糧を現地調達に頼った為に次第に、食糧の備蓄が乏しく餓死者が続出し飢えと渇きに悩まされ続けました。
ボースは、前線に立ち続け、兵士たちを鼓舞し勇気付けました。INAは、女性だけで編成された婦人連隊(500人)も後方で、看護部隊として、従事しました。その500人の女性兵士を束ねたのが医師で、世界で初めて、女性が政府へ入閣した、婦人大臣の【ラクシュミ・ソワミ・ナサン大尉】です。
ラクシュミ大臣は、1857年の対英戦争時に絶命したジャンシー王国王妃のと同姓同名だった事からINAの士気は多いに鼓舞されました。
同年7月4日、多大な戦死者を出して「インパール作戦」は結局失敗し80日間の作戦は
中止されます。





45年8月15日、日本は無条件降伏。
ボースはソ連に支援を求めるため副官と軍用機に乗り込みますが程なく軍用機が火災を起こしボースは、全身熱傷を負い45年8月18日、死去しました。
享年42歳の若さでした。


戦後、彼ら(INA参謀たち)の武力闘争が、英領インド政府の裁判所において、祖国を裏切った重罪として判決が下ると知れ渡るとインド民衆は、全土でストライキを強行して、英領インド海軍も「自由インド国民海軍」を名のりインド民衆へ呼応し、それらがうねりとなってインドの真の独立へと繋がって行くのです!


昭和19年(1994)7月4日の、インド人には「複雑な日」でありましたが、インド人には、7月4日が、どう感じるのでしょうか?


聞いてみたいものです♪


【チャンドラ・ボース・ネタジ(統領)】


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【ラクシュミ・ソワミ・ナサン大尉(婦人大臣)】


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【インパール作戦展開中の日本軍と自由インド国民軍】


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【インパール作戦展開図】


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【ラクシュミ連隊長(大尉)率いる、500人の衛生連隊】


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【婦人連隊(看護部隊)】


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【制服が間に合わず始まった女性連隊の銃撃訓練】


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【自由インド仮政府(第1次ボース内閣)】


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