とある一般男性の自己満ブログ

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日々の色々。一応東大卒がだらだら呟きます。

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誹謗中傷。

 

最近にわかに目にする頻度が高くなった言葉ですよね。全くいい意味ではないですが、今年の流行語大賞狙えるんじゃないかってレベル。

 

今日はこの言葉について、思うところを書きたいと思います。普段から冷静かつ中庸かつ客観的かつエレガントを心掛けているつもりの私ですが、この件に関してはちょっと怒っています笑

面と向かったらひどいことを言う勇気もないくせに、ハリボテの匿名性と肥大した表現の自由を笠に着てネット弁慶に豹変する人のなんと愚かなことか!!!

 

ちょっと熱くなりました。話を元に戻します。

 

まず、私の持論として、「誹謗中傷」という言葉に世論が踊らされているうちは何も解決しないと思います。

 

なぜか。

 

だって、そういったひどい言葉を平気で使える人たちは、それが「誹謗中傷」に当たるという意識すらないと思うので(むしろその無意識こそが元凶であるわけですが・・・)、刺さるはずが無いと思うんですよ。「誹謗中傷」なんていう抽象的な言葉をいくら使っても、物事の本質は見えてこないと思うんです。

 

そもそも「誹謗中傷」という漢字をカンニング無しに書けない人が大多数(かくいう私も自信ない)なのに、こんな言葉を乱用して何か生まれるの?って感じで冷めた目で見ています。なんなら「批判」と「誹謗中傷」を履き違えている人も大勢いますし。

 

結局、子どもに諭すような平易な言葉に置き換えると、「自分がされたら嫌なことは他の人にしちゃダメ」&「バカって言うやつがバカ」ってことをちゃんと分かっていない人が多すぎるのではないでしょうか。幼稚園児なら一度は言われたことがあるこんな簡単なことを、皆がきちんと心に留めておけたなら、こんなことにはなっていないはずです。

 

・・・と調子よく書き進めているうちに、とある不安が頭をもたげます。そう、自分は大丈夫なのか?自分の発言は、誰にも不快な思いをさせていないか?

 

そんなことを考えているうちに、10年ちょっと前のことを思い出しました。私の出身校であるとある都立高校の入学試験で、次のような小論文が出題されたときのことです。

 

  次のことばについて、あなたが感じたり思ったりすることを600字以内で述べなさい(50分)。

  「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている。」-夏目漱石

 

当時中学3年生だった私は、「言葉」をテーマに論じました。人間は、言葉を持たない原始人の時代に始まり、言葉が生まれ、文明が興り、その末に自由を得た。でも、言葉とは難しいもので、文脈、言葉のチョイス、口調、様々な表情をもつため、必ずしも自分が意図したとおりに受け取られるとは限らない。意図せざる伝わり方をする怖さゆえに、無邪気に言葉を発することが躊躇され、むしろ不自由さえ感じることがある。そんなストーリーを書きました。当時も我ながら会心の出来だと思った記憶がありますが、いまだに覚えているもんですね笑

 

何が言いたいかというと、言葉は使い方次第で薬にも毒にもなるということです。大げさに聞こえるかもしれないですが、誰かが何の気なしに放った言葉は、誰かの命を奪うかもしれないということです。

 

皆さんに、自分の使う言葉が他人を傷つけた時に責任をとる覚悟はありますか?責任を取りたくないなら、使う言葉に気を付けることです。もし意図せず傷つけてしまったのであれば、謝罪し、反省すべきです。傷つけることを意図して言葉を発した場合は、それは暴力であり赦されない行為だと思います。

 

これまでつらつら書いてきた私の言葉の中に、薬の一片でもあれば良いなあと思います。毒が紛れていたとすれば、真摯に受け止めます。

 

どうか皆さん、心身ともに健やかな毎日を。

それでは。

正直に言って、愕然としました。そして悲しくなった後で、怖くなりました。

少しでも気持ちを整理する目的で文章化しようと思いPCに向かっているのですが、おそらくまとまりの無い内容になっていると思います。そのため変な伝わり方にならないか不安なのですが、三浦春馬さんを始めとした故人を悪く言う趣旨だけは全くないことを予めことわっておきます。

 

まず、私は、熱烈と言わないまでも、ファンと言っても差し支えないと思います。三浦春馬さんが出演されている作品や番組を逃さずチェックするわけではないけれど、他の俳優さんに比べて強く関心を抱いていました。単純に、同性ながら素敵だと思っていました(憧れと言っても良いです)。

 

そのため、突然の訃報に触れて本当に驚いたというのが最初の感情でした。

 

その次に悲しみがやってきたのですが、今度はその感情がなぜか恐怖に変容しました。ここの機序について、解きほぐしたいと思っています。

 

前提として、私が個人的に人間関係ネットワークのなかで、自死を選んだ方はいませんでした。そのため、「自殺者年間3万人」などのニュースは、あくまで「数」の報道であって、「個々の死」として直感的に捉えることができていませんでした。

 

三浦春馬さんは私の直接の知り合いではありませんが、何故だか、とても「具体的」なものとして、いわゆるニュース報道を超えたインパクトがありました。要すれば、あんなに素敵な方がどうして死を選んだのか、について否応なく突きつけれられた気がしたのです。しかし、故人が自死を選択した原因について詮索することは主眼でなく、あくまで”何故そんなに私自身インパクトを感じたのか”、についてこれから書きます。

 

私にとって三浦春馬さんは、容姿も立ち振る舞いも演技も歌声もすべて素晴らしいと思っていました。世間のイメージもこれと大きくは違わず、いわゆる完全無欠なイメージをお持ちの方も少なくないのではと思います。少なくとも私は、先述のとおり憧れていました。

 

この、”そんな彼でも、自死を選んだのだ”、という事実が重く突き刺さるのだと思います。

飛躍はあるかもしれませんが、私にとってこの事実は、”私よりすべての面において優れている彼が自死を選んだということは、何かタイミングあるいはきっかけ次第で、私も自死を選び得るのだろう”という事実を突きつけられた気がしました。

 

念のためですが、自死を悪としているわけではありません。要すれば、私自身の日常生活のなかで、自分が自死を選択するイメージが全く湧いていなかったところ、これが足元から崩れ去ったことに恐怖をおぼえているということになるんだと思います。今思うと、「よくもまあその可能性について無自覚・無頓着なまま、のこのこぬけぬけと生きてこられたもんだなあ」という驚きすら覚えます。実は薄氷の上をずーっと歩いていたのか?昨晩はそんな思いがぐるぐる回って、よく眠れませんでした。

 

今朝、出産のために里帰りしている奥さんにLINEしました。奥さんも昨日は驚きを隠せなかったようでしたが、二人で「死にたくなるくらい辛いことがあったらすぐに共有して、二人で考えようね」と改めて約束しました。なお奥さんからは、「おいしいものをたくさん食べたいから死なない」、という大変力強いお言葉をいただきました(笑)

 

私ひとりでは、上記の通りぐるぐるぐるぐる考えるスパイラルに陥ってしまうのですが、奥さんが引っ張り上げてくれました。本当に感謝です。

 

今日からは、故人を偲びつつ、自分と家族の人生をしっかり歩いていけるように前を向いていきたいと思います。本来ブログに書くような内容ではないですが、(そんなに誰も読まないと思うので)ご容赦ください。

 

それでは。

 

やっぱり平日は仕事などで忙しく、試行や執筆になかなかまとまった時間を確保するのが難しいですね・・・。

と、書きながら、実は昨日、やっちまいました

 

昨日、Youtubeでとある好きなゲーム実況者の方がやっている動画を見て火がついてしまい。

そう、Civです。正式名称は、「Civilization」といって、英語で「文明」という意味です。私が昨日やったのはCiv6で、今出ているなかでは最新版ですね。

 

知らない方のために簡単に紹介をしたいのですが、なかなか説明が難しい。

 

プレイヤー複数名が、何かしらの文明の有名人物(例えばインド文明であればガンジー、日本文明であれば織田信長、ローマ帝国であればトラヤヌス、のような)となって、世界を模したフィールドでそれぞれの文明を高めあい勝利を目指す、という感じでしょうか。勝利と言っても複数の勝ち条件があって、他のプレイヤーを全員滅ぼす制覇勝利、誰よりも先に宇宙にロケットを飛ばす科学勝利、自分が創始した宗教で世界を染め上げる宗教勝利など(まだあります)。

文明ごとに得意分野とか得意戦法があったりして面白いです。たとえば日本だと特別に「侍」を作れるようになるんですが、最後の一兵になっても戦意が衰えなかったり。

 

ここまで読んで、「なにそれちょっと面白そう」と思った方は、適正(というか危険性?)ありです。思わなかった方は、忘れて良いかもしれません。下手に手を出して時間を溶かすより、知らない方がしあわせだった・・・みたいなことにならないように笑

 

前置きが長くなりましたが、昨日は早めに家に帰れたのですが、やっぱり独りなわけです。

なんとなくゲームを起動してから、10時間!!!PM6時からAM3時まで、夕食も取らずにやっちゃいました☆

 

久々だったので、それだけやって結局負けたのですが(笑)、後悔はないと言えばうそになります。

 

ちなみに、実際の世界地図を模したフィールドで、ローマ帝国五賢帝の2人目、発展の礎を築いたといっても過言ではないトラヤヌスでやりました。まさかコンゴに宇宙に先に行かれるとは・・・。結局は海洋帝国となって、さすがのイギリスのヴィクトリア女王と覇権を争いつつもスキタイの大帝国を前に共同戦線を張ったのも良い思い出です。すべてコンゴにもっていかれたけど

 

・・・という、完全に知っている人向けの内容となってしまいました。いまこれを書いていてすでに眠いので、今日は早めに寝よう・・・。

 

皆様も、病は気から。ただ身体をおろそかにして良いわけではないので、ご自愛くださいませ。

外出自粛でもゲームはほどほどに。

 

それでは。

最近暑いですよね。豪雨に伴う洪水等の被害に遭われて避難中の方々の健康も案じて申し訳ない気持ちになりながらも、自室のクーラーをつけてしまいます。皆さんも体調管理にはご留意ください。

 

さて、あと1ヶ月ほどで子どもが産まれる予定なのですが、そこで立ちはだかるのが「名前」ですよ。

私は自分の名前を気に入っているのですが、いざ自分の番となると、悩みが尽きないものですね。

こんなとき、自分の優柔不断さが嘆かわしいです。みんな、良い名前を続々とつけていくんだもの・・・。

 

そうやって悩むうちに、「名前」に関連していろんなことを思い出したので、今日はつらつら書いてみます。

 

たしか『ゲド戦記』だったと思うのですが、「真名(まな)」という設定がありましたね。およそすべてのモノのは「真名」、つまり本当の(真の)名前があり、これには力が宿っているが故に、悪用されると操られることにもなりかねない。当時これを読んだ私は、「名前」が宿す神秘性と重要性を感覚的に理解した気がしました。

 

その何年か後、『千と千尋の神隠し』を観ることになりますが、ここでも「名前」がキーになっています。千尋は「千」となって自身の所有権(?)を失いますし、逆に「白」は千尋に名前を思い出してもらうことで解き放たれました。

 

これらのことから、私のなかで「名前」とは、”名前がつけられるものと、それ以外とを、明確に分かつもの”という解釈に落ち着いています。そういった役割のある名前ですので、これが他人の手に渡ってしまうことで、自分の存在が自分以外の干渉を許してしまうことに繋がる、というわけです。

 

つまり、名前が何か、ということだけではなく、「名前をつけること」自体が重要な意味をもつ、ということです。

 

私の悩みは、まず上記の「名前をつける」というプロセスそれ自体に緊張している(びびっている)ことに端を発するということが分かりました。ここがちゃんと理解できたので、もう漠然と悩むことはしません。事の重大さに健全にびびりながらも、ちゃんと向き合って、もちろん奥さんとも相談して、決めていきたいと思います。

 

具体的な進捗はないですが、辿るべき道が見えてきたような気がします。

進捗があったり、気が向いたりしたら、また続報するかもしれません。恥ずかしいので公表はしませんが笑

 

それではまた。

無理ですよね、知ってます。

芸術家で言ったらピカソ、サッカーで言ったらメッシ、要すれば天才です。

 

・・・とは思うのですが、実のところ、なんでスピッツってすごいんでしょうか。ちゃんと考えたことが無いまま、ずっとリスぺクトしてきたんですね。せっかくなので言語化してみたいと思います。

 

以下は完全に個人の感覚・意見なので、「ふ~ん」くらいで読み飛ばしていただいて結構です。スピッツファンの方には共感あるいは違和感などの心の動きを、スピッツをあまり知らない方には少々の興味を持っていただければうれしいです。

 

まず、なんといってもボーカル・草野マサムネさんの圧倒的な歌声と、これを引き立たせつつもそれ自体がひとつの世界として成立しているバンドサウンドですよね。

 

ただ、今回はあえて詩の世界観についてつらつら書いてみたいと思っています(通ぶりたいわけではなく、単になんとなく)。

 

私は多感な時期をスピッツを聴いて過ごしたせいか、自分のなかの”人間の捉え方”にスピッツの詩が大きく関係しているように思えてなりません。どういうところ?と聞かれると、説明が難しいのですが、「人間なんてそんなにキレイなものじゃなくて、結局は動物で、原始的で、それ故に純粋で、どこかやっぱり愛してしまうものさ」みたいな。伝わりますか?伝えようという気がないような文章ですよね知ってます。

 

何が言いたいかっていうと、私は、スピッツを聴くことで心にゆとりを得ることができたわけです。ここでのゆとりとは、2方向あって、1つは自分に対する内向きのゆとり2つは周囲の人(社会と言い換えても良いかもしれません)に対する外向きのゆとりです。

 

自分に対するゆとり。

これって、ストレス多き現代社会を生き抜くために重要なことじゃないでしょうか。何か失敗したとき、負の感情に支配されそうになるとき、そんな自分をおおらかに肯定してあげること。人間なんだもん、そんなときだってあるさ、と思えること。そんなエッセンスが、スピッツの歌詞には散りばめられている気がします。心のしなやかさ、って言うんですかね。

 

ここでちょっと歌詞のご紹介!

 

「幸せは 途切れながらも 続くのです」-スピカ

 

うーん、良いですね。高校時代に『スピカ』を聴いたとき、雷に打たれたような衝撃が走ったのを憶えています。幸せは確かにあるんだけれど、ふと途切れてしまったように感じるときもある。でも本当は見えないところで続いていて、いつかは、ちゃんとまた戻ってくる。こんな心持ちで暮らせることが理想だなー。

 

 

そして、周囲の人に対するゆとり。

人間って、すごく高度な生物ですよね。言葉を持ち、科学をもち、宇宙に行こうとすらしている。でも、根幹の部分は太古からそんなに変わっていない。かわいい子がいたらムラムラするし、戦争は無くならないし、いつかは死ぬ。草野マサムネさんが「死と性」を楽曲のモチーフにしているという話(微妙に解釈が違ったらごめんなさい)は有名だと思うけど、まさにここからは逃れられないわけです。こんなに進歩しているっぽいのに。

 

そう考えると愛しくなりません?人間ってやつが。何様って感じですが笑

少なくとも私はそんな感じで生きています。おかげで、例えばいわゆる嫌な人に出会っても、「まあ人間だしそんなこともあるか」くらいでさらっと受け入れることができるようになった気がします。

 

人間賛歌を目的としているわけではないにもかかわらず、人間がちょっと好きになれそうな歌詞をご紹介して、今日はこの辺でおしまいにします。それではまた。

 

                              「命短き ちっぽけな虫です

              うれしくて 悲しくて 君と踊る」-夢追い虫

初めまして!

 

ちょっとでも目に留まるかと思って「東大卒」だなんて書いてみましたが、一応本当です。

金融系の日本企業に勤めている、ふつうのサラリーマン(男)です。

 

今回が初投稿なのですが、「なぜブログを?」という背景を簡単に書きたいと思います。

 

まず、もうすぐ結婚して2年になるのですが、あと1ヶ月で子どもが産まれます(わーい)。

保育士になりたいと親に相談したことがある私ですので、子どもが出来たことはそれは嬉しく、出産予定日が来るのをドキドキしながら待ちわびています。

 

ただ、奥さんが里帰り出産のため、お腹の赤ちゃんとも離れて一人暮らしです。

 

そう、暇なのです

 

でも、暇であることがブログという選択に繋がるのには、2つくらい理由があります。

(ここから先は完全に自分語りなので、ちょっとでも興味がある人以外はブラウザバックおすすめです笑)

 

1つは、自分と向き合ってみる良いチャンスになると思ったから。

 

親になる日が近づくにつれて、「自分はちゃんとした親になれるのだろうか」「子どもに尊敬される父親になれるのだろうか」という不安が強くなっている今日この頃。子どもという新しい命・新しい人間の誕生を目前に、「自分という人間が何なのか?」という思いが頭をもたげているのです。

 

そこで、自分の考えていることを形にしてみるツールとして、ブログってありじゃない?となったワケです。単にして純。

 

「日記でええやないか」と言われるかもしれません。でも、日記は家族に見られます。こんな自慰的な内容を見られたら最後、奥さんだけでなく子どもにも笑われます(末代までの恥ってやつです)。しかし、ブログであれば、匿名性を隠れ蓑にして、好きなことを気の向くままに書けるというわけです。インターネット万歳!

 

2つは、何かを発信する、という行為に興味があったから

 

私が高校・大学と過ごした時代は、mixiやTwitter、FacebookといったいわゆるSNSが流行り始めていた頃だったように思います。私もアカウントを作ってはいましたが、自己開示に積極的ではない性分から、完全に幽霊アカウントでした(友人の近況報告などを見るだけ)。

 

でも、今思うと、そういったSNSなどを通じて自分の考えやつぶやきを発信することに、どこか憧れ(?)を抱いていたように思います。それは、没個性的な自分へのコンプレックスから来るものなのでしょう。

 

何かを発信するとき、少なくともその瞬間は、他の誰かと違うものを世に出すという確かな個性があるのでは。大げさかもしれませんが、そんな小さな積み上げが、積もり積もって自分という個性を洗練させることもあるのでは。そんな思いで、この初投稿という一石を投じているわけですので、皆さんどうぞ優しくしてください。

 

自分で読み返しても「どーでもいーこと」をつらつらと書いてきたわけですが、先に挙げた2点の目的は、すでにちょっとは満たされているわけです。勝った。

 

また気が向けば、最近気になっていることとか、好きな歌とか、子どもの話とか、よしなしごとを書いてみようと思います。またお目にかかる機会があれば、うれしいです。

 

たぶん、ブログってこんなに長文を書くものでもないんでしょうね。最初なんでちょっと空回りしたということでご容赦をば。それではまた。