ライブドア事件の真相
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ホリエモンに食事に誘われなかったことに嫉妬して告発なんてしてない!

ライブドア事件の真相

私は、バリユークリックジャパンをCFOとして上場させました。


2000年5月、バリュークリックジャパンは、東証マザーズ市場に上場しました。1999年10月からCFOとして入社して、上場準備をして約7ヶ月で上場しました。社長のニュージーランド人Jonathan Hendriksen は、上場以前には社員にCompanyの語源を説明して、ラテン語のcompāniōnで、共に、パン🍞を食べるということ、パンを食べる仲間だと話して、一緒に頑張ろうと常に言っていました。IT全盛期で、上場して時価総額600億円の価値になりました。
上場は企業の成長過程の1通加点です。一般投資家は、ネット広告市場でもっと企業価値が上がることを期待して、600億円の価値をつけていただきました。
しかし残念ながら、社長は時価総額600億円に目がくらんで、事業拡大意欲を無くしてしまいました。時価総額600億円が20億円にまで、下がりました。保有現金価値と同等の金額。親会社のUSのValueClickのCEO Jim Zarleyからも見切りをつけられて、USの持分51%を$20 millions dollars でライブドアに売却する事を Jim Zarleyがホリエモンとわずか30分のミーティングで合意してしまいました。ライブドアTOBの後、社長のJonathan Hendriksenも、社員を大切にしていたはずですが、相当なキャピタルゲインを得て、会社を去りました。とても残念でした。
上場を目指すみなさん、上場は企業成長の1通加点です。集めた資金を有効に使って、企業価値を上げていかないと、個人投資家を裏切ることとなります。

2004年5月、ライブドアに買収されてバリュークリックジャパンの本社は六本木ヒルズ38階に移転した。社長の Jonathan Hendriksenは、会社に出社していたが、どうしても仕事に専念しない。午前10時ごろになるとCFOだった私を誘って、階下にある喫茶店に誘って仕事に関係ない話をする。午後も私を喫茶店に誘って同じこと、毎日の事で、実務をやっていた私にとっては大変迷惑。
ライブドアは、バリュークリックジャパンを完全子会社化する以降であったので、そんなにやる気が無いなら早く辞任するように促して、6月末にJonathan Hendriksenは、辞任し、私は少数株主のためにも完全子会社になったところで辞任する覚悟を決めた。ライブドア側から社長を出してもらうよう懇願したが、発表日の前日、親会社がスクープ記事として日経記者に情報を流し、発表当日に新聞に少し大きな記事で写真入りで掲載されてしまい社長就任を拒否出来なくされた。

その後バリュークリックジャパンの株価が上がったので、完全子会社化の話は無くなり、子会社株の売買を始め、結果だけ私のところに、親会社から話が来た。大量保有変更報告書とともに。
この頃からバリュークリックジャパンでの事件内容が始まった。

当時、親会社が行おうとする少数株主の権利を害する行為について、親会社から話が来てもことごとく反対した。
バリュークリックジャパンの売掛債権を担保に親会社が銀行から資金を借りようとしていたことなど。完全子会社化してからやってくださいと親会社のCFO宮内に話して反対した。とにかく次の買収のために、調達可能な資金の額の最大を考えていたようだ。その話に乗る都市銀行もアホやわ。

当時のバリュークリックジャパンの取締役の構成は、親会社役員3人、バリュークリックジャパンプロパー2人。いくら社長になった私ともう一人のプロパー役員が反対しても議案は全て可決されてしまう。100分割決議もそうでした。親会社のファイナンス部門で、日経新聞に出す分割公告原稿作成、枠取り手配全て私に知らされず行われていて、取締役会も前日になって明日株式分割決議の取締役会を開催すると伝えられるだけ。社長でもどうすることができませんでした。

ある会社買収の時もそうでした。取締役会の日程はその時には、事前に決められていましたが、前日まで休暇をとって、私は、中国に行き前日帰国することになっていました。しかし飛行機が遅れて、成田に向かう飛行機に乗り継ぎできなく、航空会社が手配した、大連空港のホテルに一泊、翌日の昼出発の便で帰国したため、取締役会に参加できませんでした。なのに夕方私の名前でニュースリリースを配信。取締役会議事録は私が出席したことになって作成されました。

私は、ライブドアの幹部 岡本文人に12月末で、取締役を辞任する意向を伝えました。するともし事件化したら取締役の私に請求されるだろう損害賠償金は、堀江が払うからこのままお飾りで社長を続けてください。と頼まれました。
バリュークリックジャパンの決算期は、12月。3月に提出する有価証券報告書は絶対に私の名前で出したくなかった。
親会社のやってることは予想はつきますが、一切証拠は持っていませんでした。
監査をやっていた中央青山監査法人には、私が理解していることは全て話し。2004年12月末で辞任して、残った社員には申し訳ないですがバリュークリックジャパンをあとにしました。

2005年12月になって、東京東京地方検察庁特捜部の斎藤さんから電話がありました。ライブドアの件で、話が聞きたいから翌日特捜部に出頭して欲しいと。
何故私が呼ばれたか全然想像がつきませんでしたが、弁護士にも相談して翌日出頭しました。誰が告白したのか知りませんが、バリュークリックジャパンの国税調査資料も持っていて、当時の状況を詳しく話して欲しいと。1日考えて翌日再度出頭して任意聴取が始まりました。

12月クリスマスの時期、家族で北海道ルスツにスキーに行っていました。
帰る前日フジテレビの社会部の丸山記者から電話がありました。一度会いたいと。
北海道から帰ったら任意聴取がまたあり時間は決められなかったので断りました。しかし彼は、時間は開くまで待つので、帝国ホテルで会いたいというので、渋々アポを受けました。彼とは2度ほど会ったことありましたが半年前の事。ライブドアのことについて聞きたがっていましたが、一切話していませんでした。

任意聴取が終わったので、丸山記者電話して今からなら会えると電話して帝国ホテルに向かいました。すると丸山記者の他に司法クラブキャップ平松記者も来ていて、食事をすることになりました。
そこで言われたこと。「小宮さん今特捜部によびだされてますよね?」「日枝会長、宮内常務の指示で丸山が以前もらった名刺を、平松が特捜部に渡しまた。」と言われました。

丸山記者には一切事実内容を話していないのに、子会社の財務会計をやっていた私なら特捜部で話せるだろうとのフジテレビの思惑でした。その時すごい憤りを感じた事を明確に覚えています。事実も証拠になるようなもの一切渡してなかったのに、報道機関というのはこんな事をするのかと。

当時読売新聞の社会部も私に近づいて来ました。特捜部に行ってませんかと。
私は、ノーと答えました。
フジテレビは、後々丸山記者と私の人間関係できていたので、特捜部に名刺を渡したと言っていました。
しかし、事件後日枝会長に会いたいとフジテレビを訪れたら、犯罪人扱いなのか、受付の裏にある総会屋対応の応接室に通されて、総務局長と報道局長が出てきたのを覚えています。
その時フジテレビの展望台から飛び降り自殺することも考えていました。

ホリエモンの裁判の時に、検察側証人として出廷して証言するよう検察から指示されました。検事から質問事項とその回答を渡されて、何時間も練習させられました。だから私の名前を検索するとライブドア裁判傍聴記が出てきます。
また、ライブドアニュースが未だに私がホリエモンに逆えずなんていう記事が残っています。逆えずじゃなく、会社法上の取締役会では多数決。私が一人反対しても覆られないじゃないですよね。そこで告発すれば良かったという人もいますが、私はサラリーマン役員、家族もいる。下手して、告発によって殺されたりしたら、誰が責任とってくれるんでしょうか?

何故今こんな事を書いているのか。
私の名前をWEBで検索すると、ライブドア関連記事が出てきて、犯罪に加担した奴だと勘違いされる方が多いからです。人権侵害です。コンプライアンスについても忠実にして、少数株主の権利も私のできる範囲で守って来ました。
最大の原因は、バリュークリックジャパン創業者 Jonathan Hendriksenが、金を手にした途端、少数株主の事も考えず、同じパンを食べる仲間の社員も見捨て、逃げた事です。

ホリエモンは、私を食事にも誘わなかったので、嫉妬して告白したなど本に書いてますが、それは全くの嘘です。
フジテレビの日枝、宮内が憎い。

書いたことは、事実です。当時フジテレビの記者とやりとりした会話のICレコーダーの記録等を基に記載しております。決してフジテレビを誹謗中傷するような事は一切ございません。

最後の記載は私の個人的な意見です。


小宮徳明