かっては日本人にも基本的な食事の型があった。
朝はご飯に味噌汁に漬物、焼き魚と焼き海苔、納豆か、玉子焼き。
それに前の晩の残りもの。
昼は弁当で、前の晩と朝の残り物。夜はご飯に味噌汁に漬物、それに野菜の煮たのに昆布が入っていたりして、そして魚料理。
そういうものが日本人の基本的な食事だった。
それをアメリカでは30年前に絶賛し、今の日本食ブームがある。
ところが、いまの日本人は家庭内で出来ることをほとんど外に依存している。
かっては食事や洗濯などは当たり前に家庭内でやっていた。
それらをすべてを全部とは言わないが外に出して、そこで産業が成立して、奥さんたちは外に働きに出る。
これはこれでいいと思うが、でも、今の日本人の食事の型は何だろうと思う時、「何もないではないか」と暗澹たる思いになるわけである。
われわれ人間がこの世に生を受け、天から授かった寿命を全うし、自分の理想をそれぞれの大きさで実現して、ああよくがんばって生きたなと思って死ぬためには、何よりも食べ物、もちろん水や空気も含めてだが、そういうものがとても重要だと思うのだ。
今われわれがやるべきことは、日本で収穫できるものを中心に、もちろん外国のものがあってもかまわないが、「これが日本の基本的な食事だ!」というもの作ることだ。
そのうえでコメはこれだけ必要であると言う数字を出し、それを自給するべきなのである。
つまり、日本人が生きてゆくために必要なもののうち、さらに基本的なものは、美味しくて安全で質の良いものをそれぞれの近場で作る。
しかし、他のものは外国から輸入してもかまわないというふうに、日本人が主体的に食生活を組み立てることが、大切なのだ。
たとえば昔の人は「コメは地力で穫れ」と言って、堆肥を手間ひまかけて投入したコメ作りをやっていた。
しかし先人の知恵を無視した機械化と技術改良がもたらしたのは、コメの本質を無視した「増産ゲーム」でしかなかったようなのだ。
農機具メーカーと農水省はおかしなテレビコマーシャルにお金を使うよりも「大苗二本植え」の稲作体系の研究とそのための「新型田植え機」の開発のために、予算をきちんと遣って欲しいものだ。
だいたい前から疑問に思っていたのだが、新型の耕運機や田植え機を全国ネットのテレビで放送しても、都会の人は誰も「あっ新型だ、かわいい、買おうか」(笑) なんて言わないだろう。
かって国が開発したV字型稲作は、収穫量こそ上げることができたものの、生命力のない不味いコメを作り、持続的な田んぼの使用も困難にしている。
「減反減反」と騒ぐならば、今度は「量」から「質」へと大胆に転換し、生命力あるコメの復活を強く望む。
こういうコメが多く生産されれば、日本人の生命力の向上、健康増進にもつながり、コメの消費も伸びてゆくことであろう。