昨日の夜、Twitterで「今度は福島がTOKIOを応援する番だ」のタグを初めて見た時、
正直言って嬉しかった。
自分はちょっと前まではアイドルに興味なんてなかったし、
それでもSMAPとTOKIOはテレビで見ることが多かったからなのか、
そういうキラキラした枠を超えて、ある種日常になくてはならない存在だった。
特にTOKIOは3.11の震災以降、
復興の先駆けとして福島の桃やおにぎりをたくさん食べてくれて、
それを画面越しに見るたび自然と笑顔になることができた。
今いろいろと大変なんだという意識はもちろんあったし、
それでも彼らが好きで、感謝してるって思う人が自分以外にもいるんだと思うと嬉しくて、
だから自分も珍しくタグをつけてツイートした。
「ずっと好きです」の一言だったけど、それでも言えてうれしかった。
…けど、今日の朝、もう一度タグを遡って血の気が引いた。
昨日の夜まで好意的なツイートで溢れていたはずのその場所が、
血で血を洗う正論暴論の肉弾戦に姿を変えていたからだ。
「被害者の気持ちを考えないのか」
「いい人アピールで擁護して許されていい問題なのか」
「逆に福島県民のイメージを悪くしているのでは?」
そんな批判的な意見ばかりがRTされて、沢山たくさん溢れていた。
タグそのもの、ひいてはそれを使う人をひっくるめて袋叩きにするような苛烈な意見に、
昨日までのあたたかい気持ちがぺしゃんこに潰されてくのが分かった。
……だって、嬉しかったんだよ。
悲痛な顔であの場に立った四人のメンバーの言葉が。
「福島を公式でなくても応援したい」と言ってくれた彼らの意志が、
うれしくてうれしくて、泣きたいくらい感動したんだよ。
うちはもう農業は辞めてしまったけど、
母方の実家ではいまも野菜を作って、お米を作って、
検査だって受けて一生懸命がんばってる。
そういうしんどさや苦しさに一度でも寄り添ってくれたぬくもりは、
与えられた側からすれば絶対なんだ。
件の人が犯した罪を許そうっていう話じゃない。
被害者を蔑ろにしてるつもりもない。
いい人アピールとか善人アピールとかそんなんじゃない。
ただ、彼らが福島の桃を、野菜を、米を美味しそうに食べて
笑顔でいてくれたことへの感謝を今だからこそ言葉にしたかった。
ただそれだけのことだったのに、
朝から泣くほど傷ついた自分が情けなくて、
でもそれを140字じゃ纏められない自分が悔しくてまた泣いた。
きっとなにかの拍子にこの文章を読んだ人も、
賛否が分かれるんだろうなと思う。
だからこれは一方的な、ただ自分の気持ちを整理するための書き殴りだ。
ごめんなさい。
…でも、それでもきっと、自分は彼らが好きです。
彼の犯した罪は当然許されるべきではないし今後どうなるかは知る由もないけれど、
だからって、彼らが今まで福島に与えてくれた温かさに感謝することさえ
許されないなんて、そんなのはただただ哀しくてつらい。
またいつか、それがどんなに遠い日であったとしても、
彼らの心からの笑顔に再び出会える日が来ることを願っています。