僕達はナショナルなものから否定されてる。
僕達がアメリカーナや伝統歌、民謡を演ることは
再帰性に基づいていて、例えばナショナリズムが
自らの言及として”神話”に頼るのと同じことだ。
象徴的な虚構の問題とは別に”スペシャル”であることに
疑問をもつことから音の唯物論を支持する立場がある。
調性のヒエラルキーからの離脱からはじめ音の自律性を
重視するようになる脱構築的この立場はやがて
デジタルの発展にともなってシステムの自律性が際立ち
クリエイティビティが隙いる余地はないことを主張するようになる。
僕達はそれと並行する形でコールソンゾルガンをめざしているのだ。
速度と情動が極限的に加速化されコールソンゾルガン(器官なき身体)
へと至る過程を潜在的に、あるいは漸近しようというように。
コールソンゾルガンはなにも音にかかわることだけではなかった。
幼いころにレトロフューチャリスティクな環境に育ち高度に発展
した社会はやがてコールソンゾルガンに至るのだろうと無意識ながら
思っていたのだ。だがそれは対称性の復活でありそれが意味することは
死なのだ。全くどうしたらいいものやら???
僕達がアメリカーナや伝統歌、民謡を演ることは
再帰性に基づいていて、例えばナショナリズムが
自らの言及として”神話”に頼るのと同じことだ。
象徴的な虚構の問題とは別に”スペシャル”であることに
疑問をもつことから音の唯物論を支持する立場がある。
調性のヒエラルキーからの離脱からはじめ音の自律性を
重視するようになる脱構築的この立場はやがて
デジタルの発展にともなってシステムの自律性が際立ち
クリエイティビティが隙いる余地はないことを主張するようになる。
僕達はそれと並行する形でコールソンゾルガンをめざしているのだ。
速度と情動が極限的に加速化されコールソンゾルガン(器官なき身体)
へと至る過程を潜在的に、あるいは漸近しようというように。
コールソンゾルガンはなにも音にかかわることだけではなかった。
幼いころにレトロフューチャリスティクな環境に育ち高度に発展
した社会はやがてコールソンゾルガンに至るのだろうと無意識ながら
思っていたのだ。だがそれは対称性の復活でありそれが意味することは
死なのだ。全くどうしたらいいものやら???