本日は、水上勉の「生きる日々 ~障害の子と父の断章~」の後編をご紹介します。




次女の直子は、六歳になる。生まれつき脊椎故障によって、両足がいうことをきかない。ために、今日いまだに歩行困難で、生後間なしの脊椎手術から、いろいろと困難な施療もうけたが、ようやく、今日では、歩行靴をはいて、松葉杖つけば、時間をかけ、約三十メートルぐらいは歩けるところまで漕ぎつけた。

1年ほど前に、別府からきた妻の手紙にこんなのがある。
パパ喜んでください。お靴の中に小さな石ころを入れておいたら、直子は、いたいといって・・・・石ころをとりだました・・・・パパよろこんで下さい。本当に直子が足の裏で石ころがわかった、と嬉しくて,ひそかに、お靴の中へ、毎朝小さな石を入れることにしましたが、入れた時には、直子は痛いと言ってくれません。でも、どうして、あの日だけ石ころにきづいたのか不思議でなりません

萎えた足は、針でつついても痛覚はないのであった。ところが1日、直子は、松葉杖をついていて、靴の中の石ころを指摘したという。その時の喜びを、妻は私に書いてよこした。小さな石ころ全身の神経を委ねて、日夜格闘している妻の愛に打たれたのは勿論だけれど、私はこの手紙で、もっと人間に大切なことを教えられた気がした。


六月中旬、私の家庭には大きな事件が起きた。 三年間東京の家を離れて、別府の国立病院にいた娘の直子が、ようやく治療を終えて戻ってきたのである。
二歳の時、腹這いになることが出来るだけで、這いいざることさえできなかったのだが、三年経って小さな松葉杖を手にして戻ってきた。母親の骨を両足に移植されて、ようやく、杖にすがって立つことが出来るようになり、時間をかければ、五十メートルぐらいは、根気よく歩ける足になって戻ってきた。


当時、重症心身障害児(重症児)は、児童福祉法のどの概念にも含まれず、親の介護が困難であっても収容出来る公的機関の施設が無かった。
民間施設として、「島田療育園(1961年設立)」「びわこ学園(1963年設立)」「秋津療育園(1964年設立)」の3施設があるのみです。 当時は、障害者を抱えた母親(又は家族)が子供と心中する事件が度々発生するなど、社会的にも認知されていなかった経緯が有ります。

左の写真は、島田療育園前・昭和58年(1983)
右の写真は、秋津療育園・昭和43年1968年)

 

水上勉は、1963年6月号で、中央公論『拝啓、池田総理大臣殿』を書いています。

その中で、障害のある子をもつ親からの手紙を通して知った親の想いや重症児施設「島田療育園」の窮状を訴えた。自分の税金の額より、国が島田療育園に2年間にわたって助成した金額の方が少ない事を取り上げて、障害児のために予算をとって欲しい事を訴えた。それは、社会に大きな波紋を広げ、政府を動かす力となった。

翌月、当時の内閣官房長官の黒金泰美は、「拝復;水上勉殿」を著している。黒金は、水上勉の文章に心を打たれて総理大臣に提言し、総理大臣から厚生大臣に「対策して報告して貰いたい」と要望させるに至ったと述べている。

びわこ学園で、藤本義明さんが絵を描く様子(1987年;昭和62年)

そこには、重複障害の子供への施設に困っている現状が綴られ、その上で、その年の予算に島田療育園とびわこ学園への予算計上を約束している。
その後、森繁久弥等による「あゆみの箱」献金や、遠矢善作の「おぎゃー献金」などにも普及した。


このように、水上勉の投稿した文章の影響力は大きく、障害者福祉への取り組みに果たした役割は見逃せません。

本文中の直子ちゃんの言葉が印象的でした。

わたしは、六年生まで健康な友だちと勉強できただけでうれしく、中学校は、同じ境遇の、軀のわるい友だちのいる学校へ行きたい」「中学校へ行ったら、自分と同じ、もしくは、自分よりも障害の重い友だちのいる学校に入って、できることなら軽症の自分が重症の子を助けてやれるような学校生活がおくりたい」といったものだった。


負うた子に瀬を教えられる。このことわざは、古い話ではありません。


この世に生を受け、先祖や父母・家族に感謝し、自らの生き方を見つめ直す機会にしたいと思います。


皆様に、是非、御一読頂きたい1冊です。

ではまた。