本日は、水上勉の「生きる日々 ~障害の子と父の断章~」をご紹介します。

初版は、昭和55年7月、34年前の発行となります。

既に、ご存知の諸兄姉には、読まれる必要はございません。

水上勉の豆本文庫1「蜘蛛飼い」の収録短編「寺泊」で、次女が先天性の脊椎破裂症で、重度の障害児であることを明かしています。



この「生きる日々」は、次女の直子誕生から十八歳までの事柄について、詳細に書いています。

昭和36年9月14日、お茶の水の高台にある3階建ての病院で、ガラス張りの保育箱に入っている、4日前に生まれた直子を初めて見た。

その子は眼をつぶって、背中を折り曲げていた。白布にくるまり、黒褐色の顔と手をだしているだけであった。頭だけが異常に大きい感じだった。・・・・

私は、畸形の子を妻と姉と母の三人が、じいっと眺め入っている光景を想像して、胸元がしめつけられた。

一万人に一人って子ですからね。手術しても、まあ望みがありませんね。かりに助かって成人するとしても一生片端者で過ごさねばなりません。女のお子さんで、しかも・・・・歩行不能で頭が異常に大きい・・・・可哀そうなことじゃないですか。一生不幸ですよ・・・・」 産婦人科の宮森主任のいった言葉が思い返された。


手術前の妻との会話
さっき、宮森先生に会ってきたよ。望みはないと先生はいった。しかし、その子は生きている。おれとお前が産んだ子だ。望みがないということは覚悟しなければならないが、生きている間は、お前、誠心誠意その子のために何でもしてやれ。いいかい、精一杯、生かそうと努力してみろ。その子は生きたいに違いない。おっぱいを吸うようになったそうじゃないか
吸うわ」と妻はすすり泣く声でいった。
おっぱいをすったらね、顔色がだんだんなみの赤ちゃんみたいになってきたのよ。泣き声も心もち大きくなったわ・・・・・
元気をだせ。その子を見守る責任がおれたちにはあるンだ。いいか。お前がしょげたらダメだ。投げるな

妻が、直子の歩行訓練のため、九州の温泉療護園に向かう際、電話で「これまで、直子のことを大事にしすぎていたのね。
コワレモノにあつかってきたのよ。あなたは、飛行機に載せるのを心細いといったけど、いざ、飛行機にのってみると、直子はてをたたいて喜んでいたのよ。実際、飛行機がこわいというのは、歩くことのできる人間がもっている感情で、直子は、歩けないんだから、飛行機の方がかえって恐怖感がなかったわけよ・・・・・こんなこと、経験でわかったわ。でもね。いちばん、驚いたのは、施設へきて、歩けない自分と同じ境遇の仲間がいっぱいいることで安心したのね。あれほどいやがっていた靴も枕もとからはなさない


別府の温泉療護園での出来事。
訓練室を出て、廊下の隅にそうていくと、曲り角の床にうずくまっている子がいた。六、七歳だろうか。耳のうえまでイガ栗がのび切っている。松葉杖を床にほうり出し、腹這いのまま、よだれをたらして私をみた。どうかしたの、とよってゆくと、妻の英子は、「さわっちゃダメ」高い声で私を制した。
抱き起こしちゃダメなのよ。この子ハンストをおこしてンの。先生が、いうこときくまで放ったらかしておいたほうがいいっておっしゃるの・・・・きかん坊で、昨日から、絶対団体行動しないの」 その子の表情はひどくゆがんでみえる。小児マヒなのである。私と妻の会話を耳にして、ううッとうめき、やがて松葉杖をひきよせると、よろよろと立ち上る。そして、右足をひきずるようにして歩きはじめる。

直子は、訓練士にあずけ放しである。直子もまたみんなにまじって規定の訓練をうけている。私は安心した。英子の手紙に書かれていたことが嘘ではなかったことを知った。ひょっとしたら、畑中医師のいったように、直子は四月までに、松葉杖で歩くようになるかも知れないと思った。


次回に続きます。

ではまた。