【伊400型】ソ連が欲しがった? 旧日本海軍の秘密兵器「潜水空母」 戦後アメリカが沈めたワケ | 先人たちの大和魂

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伊四百型潜水艦(いよんひゃくがたせんすいかん)

 

 太平洋戦争中の大日本帝国海軍潜水艦の艦級。

 

 特殊攻撃機「晴嵐」3機を搭載する「潜水空母」である。

 

 別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。

 

 なお、本型の計画縮小の補填として、巡潜甲型を改造した伊十三型潜水艦があり外形が似ている。

 

 山本五十六の発案により、米本土を攻撃する目的で開発が始まった潜水空母「伊400型」。

 

 戦果を挙げることなく終わり、戦後ハワイで処分された潜水空母を、戦後の米英ソら連合国はどう捉えていた。

 

 

 

 伊400型だけじゃない 

 旧日本海軍の潜水空母 

 

 第2次世界大戦中に就役した潜水艦のなかでは世界最大といわれるのが、旧日本海軍の伊400型。

 

 特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載・射出できたことから、潜水空母と呼ばれることもあります。

 

 ある意味では、旧日本海軍の秘密兵器的存在でもあった伊400型潜水艦を発案したのは太平洋戦争開戦時に連合艦隊司令長官を務めていた山本五十六大将だといわれています。

 

 彼は日米開戦前に、アメリカ東海岸を潜水艦から発進した水上機で攻撃するという構想を立てていたそうで、それが伊400型開発の発端だといわれています。

 

 ただ、その開発には紆余曲折が伴ったとのこと。

 

 そこで、比較的よく知られている伊400型と、それを補う目的で建造された伊13型のたどった運命を改めて見てみます。

 

 

終戦後、相模湾に集合した旧日本海軍の潜水空母。

中央が「伊14」、手前は「伊400」(画像:アメリカ海軍)

 

 

 伊400型の誕生以前、すでに旧日本海軍は潜水艦に小型の偵察機を搭載し、運用していました。

 

 しかしその飛行機は偵察哨戒用の小型機であり、本格的な攻撃機を潜水艦に搭載しようと開発に着手したものの、未知の部分が多く、その開発は困難を極めたそうです。

 

 この特殊攻撃機(後の晴嵐)を搭載し、アメリカの虚を突いて米本土を攻撃可能な潜水空母として、伊400型の建造が具体化したのは1943(昭和18)年のこと。

 

 この年の潜水艦建造計画に「特型潜水艦」という名称で、伊400型18隻が盛り込まれます。

 

 ところが、戦局の悪化で計画は縮小を余儀なくされました。

 

 当初、伊400型は攻撃機を2機搭載する予定でしたが、建造数が減ったため3機に変更されます。

 

 さらに全体の隻数およびそれに伴う搭載機数の減少を補うため、建造中だった巡潜(巡洋潜水艦)甲型をベースに、特殊攻撃機2機の搭載が可能なよう改造を施した「伊13型」が計画されます。

 

 巡潜甲型の改造は、まず伊9型潜水艦2隻が決まっていました。

 

 しかし、この2隻(伊15と伊1)は進水後に工事が中断し、未完成に終わっています。

 

 この頃には、旧日本海軍の新造艦艇は、空母から潜水艦まで際限なく広がっており、逆に完成しなかった艦艇がたくさん生まれたほどでした。

 

 なお、この2隻よりあとに建造が始まった「伊13」と「伊14」は、1944(昭和19)年12月から翌年3月にかけて完成にこぎつけています。

 

潜水空母の任務も相次ぎ変更

 

 伊400型の攻撃目標は、その後アメリカ本土からパナマ運河に変更されました。

 

 ところが、1944(昭和19)年10月にアメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸し、パナマ運河攻撃は現実的ではなくなります。

 

 そこで攻撃目標は、アメリカ軍の中継補給基地だったフィリピン東方のウルシー環礁に変更され、作戦は1945(昭和20)年8月17日予定と決まりました。

 

 なお、このとき伊400型は3隻完成していました。

 

 しかし、そのうち「伊402」は就役したばかりだったため、「伊400」と「伊401」の2隻で作戦が実行されることとなります。

 

 一方、伊13型の2隻はトラック島に偵察機「彩雲」を輸送する任務に変更されました。

 

 1945(昭和20)年2月にトラック島の大空襲で航空機が壊滅したので、その補充のためでした。

 

 「光」作戦と名づけられたこの航空機輸送任務ですが、「伊14」は無事トラック島に到達して任務を達成したのに対し、「伊13」は途中で消息を絶ちます。

 

 なお、戦後判明したことですが、「伊13」はアメリカの駆逐艦に沈められていました。

 

 では、ウルシーに向かった2隻の伊400型潜水艦はどうなったかというと、攻撃直前に終戦を迎え、結局、日本本土に引き返しています。

 

 

横須賀でアメリカ軍の調査を受ける「伊14」

左は「伊401」、右奥は戦艦「長門」(画像:アメリカ海軍)

 

 

 

 こうして日本本土に戻ってきた「伊400」と「伊401」、そして「伊14」の3隻の潜水空母は、東北沖で相次いでアメリカ駆逐艦に拿捕されます。

 

 その後、横須賀へ回航され、アメリカ海軍が派遣した技術調査団の手に渡ります。

 

 アメリカ海軍は潜水空母を輸送用潜水艦だと報告書に記述しています。

 

 なぜなら、まさか潜水艦で航空攻撃するとは思わなかったからです。

 

 ドイツ海軍には大型の補給用潜水艦XIV型があったため、それと同種で航空機や物資輸送に用いるものと考えたようです。

 

 ただ、旧日本海軍も太平洋戦争の初め頃から潜水艦を輸送用に使っており、伊13型の2隻は前述のとおり実際に航空機を輸送しているため、必ずしも間違いとはいえないでしょう。

 

 アメリカ海軍は潜水空母3隻と、高速潜航できる潜高(せんたか)型の伊201型3隻を1946(昭和21)年1月、ハワイの真珠湾に回航し、さらに詳しく調査しました。

 

アメリカ軍が潜水空母を処分した本当の理由

 

 戦後、アメリカは潜水空母に興味を持った旧ソ連(現ロシア)が、その引き渡しを要求したため急いで処分したという話があります。

 

 しかし、歴史の時系列を改めて見ていくと、実際はかなり事情が違ったことがわかります。

 

 ヨーロッパでは1945(昭和20)年5月にドイツが降伏し、Uボートの取り扱いが検討されていました。

 

 日本では1946(昭和21)年2月にアメリカ海軍の技術調査が終わり、日本の潜水艦をどうするか議論する、アメリカ海軍の潜水艦士官会議が3月26日に最終処分を決定。

 

 これを受けて、アメリカ太平洋艦隊は日本本土に残る潜水艦をと合わせて、調査のためハワイに回航していた前出の6隻を4月1日から6月4日にかけて沈めたのです。

 

 

旧日本海軍の「伊14」の艦橋部(画像:アメリカ海軍)

 

 

 1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で、当時のルーズベルト米国大統領は、ソ連の対日参戦と引き換えにスターリン書記長が要求した千島・南樺太の占領を認めています。

 

 しかし、ルーズベルト後任となったトルーマン大統領は、同年7月ポツダム会談において、ソ連を排除し米英中(中華民国)でポツダム宣言を出しています。

 

 

 

 

 

 すでに冷戦が始まっていました。

 

 アメリカは日本の分割統治を求めるソ連の要求を拒否し、イギリス(豪州ら英連邦諸国含む)を加えた米英だけで日本占領を行うことを決めたのです。

 

 つまり、すでに旧ソ連が日本艦艇に手出しする余地はなかったといえるでしょう。

 

 なお、アメリカは伊400型を始めとした潜水空母の調査を終えても、それが攻撃用という認識は持っていませんでした。

 

 旧ソ連も潜水空母の詳細を知る余地がありませんでした。

 

 旧日本軍に関しては、伊400型潜水艦に関する話しに限らず、時系列と因果関係が混乱した、このような“都市伝説的”な逸話がほかにも根強く残っています。

 

 台湾に賠償艦として引き渡された駆逐艦「雪風」など、戦後も現役で生き延びた艦艇はありましたが、潜水艦は全て前出のように、調査が終わったのち連合国の決定を受けて処分しただけで、旧ソ連を意識したわけでは決してなかったというのが事実だといえるでしょう。

 

 

ハワイ沖で海没処分される伊14

16mm映像からのコマ撮り(画像:アメリカ海軍)

 

※発電所の一角にある操舵機器(画像:アメリカ海軍)

 

 

 

 

 

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