絶對王制の時代、英吉利の貴族たちは王樣に、王樣の既存の權力や権利も認めるから自分たちの先祖から受け継いだ様々な財産や権利も認めてくれ、といふ形で契約を結んだ。大憲章(マグナカルタ)である。


この基礎にある考へかたが時效の論理である。過去の経緯をとやかく言ひだすときりがないから、長い間認められて來たものは権利として認めませう、といふ事だ。


王樣がどういふ根拠で巨大な權力を行使するのか、なんて事はもういいから、臣下の財産を勝手に沒收するやうな事はしないでくれ、といふ話なのである。


日本ではかういふ歴史的経緯は無いから、犯罪の時效はなくなるし相續税もほとんどぼつたくりである。だが、これで本當に良いのだらうか。時效の論理は日本にも必要なのではないか。


頑張つて働いても子孫に財産をほとんど殘せないなら、俶儻でいいや、といふ事になる。子供が相続しても、それは國民の財産が増えるのであつて別によいではないか。


稟賦の差が固定される、さうかな。どうせ子孫が馬鹿なら財産はなくなつてしまふ。財産を維持できてゐるなら、それなりの才能があるのだらう。


何よりも税金としてまきあげられて、間抜けな役人に無駄づかひされるくらゐなら、バカでも自分の子孫が食いつぶしてくれたはうが良くないか。