2003年6月に 星雲社より発売された
「私」エッセイ集より
『私 岡本理香』
母への想いを綴ったエッセイ
今年の1月に メルマガでもお届けしました
母の日に因んで再度登場です
はじめに
今の私が存在するのは、自分だけの力で頑張ったからではない。
たくさんの人々との出逢いが私に生きる力を与えてくれたからだ。
その中でも母親の影響力は偉大であろう。私が自分としての基盤
を見出したのは、母親のお陰であると言っても過言ではない。
一 年齢
自分の年齢は、実感がほとんどないというより、興味がないと
言えるだろう。実際私は今夏には40歳になるらしい(2003年)。
確かにまだ30歳そこそこで通用する容姿だが、自分の年齢を受け
入れないとか、認めないとかとは、また違う意味で、年齢を無視し
て生きているようだ。
二 母親
私の母親は、私を産んだのが確か29歳であるから、今はもう介護
保険の対象者になっている。しかし、贔屓目を排除しても、今も若々
しく威厳高く素晴らしい女性なのだ。
今、いやこれから先も、私の最も尊敬する人であり、最も愛する
人である。
私が、心身ともに幼かった頃は、この素晴らしく偉大な母親を、
人間として超えられるだろうかと悩み苦しんだものだ。
思い返せば、私の成長発達過程は「試行錯誤の苦痛の日々」であった。
私はそう名付け、時々思い出すようにしている。
三 自分
日々苦しみ、悩み抜いた結果、やっと私は30歳を過ぎた頃から
「私は私。自分を楽しまなくては損」
と、考えられるようになり、マイペースで自分の人生を歩き始めた。
あの「苦痛の日々」を、今思い起こせば、顔から火が吹くほど恥ず
かしく、幼かった自分を懐かしく愛しくさえ感じるものだ。
四 感性
自分で言うのも変だが、元々感性が鋭く、幼少の頃から、絵画
習字、エレクトーン、スケート等、習い事に両手の指で数えられない
ほど通ったし、高校は工藝高校の美術科、そして、方向転換し看護師
となり、精神科や小児科を経て、在宅看護の仕事を今も楽しんでいる。
35歳を境に、詩集等を次々出版し、いや、これからも出版するつもりで
あるが。
話を戻すが、AB型という理由からではなく、感性の部分が、何事に
おいても他の人と少々違うのである。
何が違うかというと、感性の視点というか視野というか、方向という
かとにかく物事の捉え方が多数大勢に属しないのである。
社会人として普通、世間並みを望み、流行を追い、個性を抑圧しよう
とするであろう。日本人独特の性質から、そう教育されてしまうからだ
ろうが、特に昭和一桁生まれの両親が、何らかのブレーキになるで
あろう。しかし、私の感性はそれを望まなかったのである。その背景
には、偉大なる母親の存在があったからである。
幸いな事に、一般常識は基本として身についていたので、社会に排除
されることは一度もなかったが、協調性がないとの言葉を頂くことも
幾度はあったようだ。
私は、ただ何となく「皆がしているから」という気持ちで行動したく
なかったし、疑問を感じたら納得するまで諦めなかっただけなのだが。
自分の感性は、やはり変なのかと戸惑った時期もあったが、私の偉大
なる母親は、私の感性を、私がそれを信じる以上に、信頼を寄せてくれ
ていた。
「自己主張をどんどんやりなさい」と母親は、いつも心に語ってくれ
ていた。今考えると、欧米風の教育だったのだろう。
五 徹底
母親の支えもあり、私は自分の感性に拘りを持ち続けることが
出来た。その拘りが自信へと変わるのには、そんなに時間もかか
らなかったようだ。
いや、それが母親の教育方針だったのか。
先ず、好きなものは徹底して好きになる。よく言われる「極める」
まで、のめり込むのである。
原色の赤と黄が好きな私は、何もかもそれにした。世間で他の色
が流行ろうとも、その色で全身を固め、堂々と自信を付けていったも
のだ。
今ではその色でないものを身に着けていると「今日はどうしたの?
何かあったの?」と周囲が気にするほどになった。
また、Mモンローが好きだから、あるだけのグッズを手に入れ、
彼女に関する本、ビデオにも徹底的にのめり込んだりもした。
料理や掃除・片付けにも、家族が音をあげるほど徹底したし、珈琲
が好きだからと、それ以外は飲まなくなったし、美味しいそれを探し
て本を頼りに東京まで足を伸ばしたこともある。
他にも、ジグソーパズルも「極めた」し、向日葵が好きならば、部
屋も庭もそれで埋めつくした。
そう所謂「形から入った」のである。これらも、立派な自己主張の
ひとつだ。
しかし、これだけはしなかったということがある。それは、他人に
自分の趣味を強要しないことと他人の趣味を批判しないことだ。
しかし、自己主張が強すぎると批判する古い考えの人は、どうして
も好きになれなかったが。今でも自分の感性に自信を持ち続ける私は、
そういう人には、自己主張して悪いかと反発したくなる。いや「私は
私」であるから、貴重なご意見として参考にさせていただいている
六 自信
そういう「極める」日々の中、私は自分の心にも自信が芽生え
始めていた。
自分の感性に拘りを持ち続けることで、自分の人生観にも、自信が
出てきたのである。
「自分の人生、主役は自分自身だ」
「自分の足で歩きたい」
「自分の心が感じるあるがままを捉えそれを信じたい」
「自分を認め、自分に自信を持つ」
「自分で決断、自分で責任」
ついつい堅い言葉を並べてしまったが、簡単に言うと、
「自分を楽しむ」
となるであろう。
一度きりの人生だから、自分らしく楽しく後悔のない生き方を
したいのである。
いや「したい」ではなく、今もう既に「している」進行形なの
である。
前述したが、他の人と少々違う感性を恥じることなく折々で活かし、
日常生活を社会生活を思う存分楽しんでいる。
七 表現
全ての人に平等である一日の時間は不変であるから、それを上手に
使いこなしたいものだ。それ以上に「自分を楽しむ」ための物事の
考え方に、私の感性がピッタリとハマルようだ。
驚異的に時間配分が閃き、動物的に他の人の心が詠める本能も手伝っ
て、物事を楽しく感じることができる。
「何か良いことない?」
と言うより、
「自分で見つけたときの方が、嬉しさが倍増するわ」
と常々思っているし、
「幸せになりたい」
と言うより、
「自分で見つけるもの」
と思っている。
小さなラッキーが訪れると、天と地がひっくり返ったような幸せを
巡らせ感じてしまう感性は、おめでたいであろう。その上、辛いことが
あっても、次に訪れるのは良いことしかないからラッキーと感じてしま
うのもめでた過ぎるだろうか?
誤解をしないで頂きたいが、私は私として真剣に生きているのである。
今を大切に真剣に物事を捉え感じて生きているのである。
私をよく理解してくれる人は、
「あなたの頭が描く展開図は立体なのね」と、私について表現しているが
八 本心
長々と私のことを書いているが、何を隠そう私は、自分自身が
好きなのである。これは隠しもしない本心なのである。
馬鹿みたいと笑う方もいらっしゃるだろうが、どうぞ笑って下さい。
本心から、私は私自身が好きで好きで仕方ないのである。
どこが?どういう風に?好きかと聴かれても、上手くは答えられないが、
とにかく好きなのである。
しかし、ここまで来るには「試行錯誤の苦痛の日々」があったのだと、
忘れないで頂きたい。そして、その過程にあの偉大なる母親の存在があった
ことも、ご理解頂きたい。
九 獲得
少々感性が鋭く、驚異的であったとしても、折々に母親の言葉や態度を
「試行錯誤」しながら、自分を獲得していったのである。
幼い頃には理解できなかった母親の言葉だが、
「自分で納得し、結論を出すこと」
「先ず自分で行動すること」
「自分に責任を持つこと」
そして
「自分の人生だもの、後悔しないように、やりたいことをして、
楽しく生きなさい」
十 自分
私は、母親の言葉を理解できる年齢になったのだろう。いや、何歳
になったからとかは関係がないと思う。
偉大なる母親を目標に、母親を超えることに拘り続けた自分が、自分に
目を向け自分に拘り、ようやく自分を見つけたのだ。だからこそ母親の
言葉が理解できるようになったのだろう。
そして、自分を認めることで、自分の人生を自分の足で歩き始め、
自分らしく生き続けている今の思いを、堂々と自分の言葉として表現し、
自信を持って実行できるようになったと感じている。
おわりに
私は、私自身が大好きである。
その大好きな自分自身を楽しむために、努力を惜しまない。自分に
自信があるからこそ、あるがままに生きていける。
他人がどう感じようとも、私が美しいと感じたものは美しいし、私が
素晴らしいと感じたものは素晴らしいのである。
「自分の人生の主役は自分だから、自分らしく自分の力で前進する」
私は、この場をお借りして、偉大なる母親に感謝の心を贈りたい。
そして、自分という輝く星に期待を掲げたい。