はじめての報奨金
日本サッカー協会に、
資金力が無かった時代、
初めて協会から「報奨金」が手渡されたのは、
森全日本でした。
あと一歩で、メキシコW杯を逃した
森全日本に対して、
当時の協会専務理事だった長沼さんに、
森さんは、監督もプロ化をしないと駄目だと進言しますが、
長沼さんは、
現在の協会の資金力では、それは叶えられないと伝えます。
しかし、本当に良くやってくれたので、
今までの森全日本の活躍を労いたい。
何か協会に出来る事を提案するように伝えます。
そして、すぐに、森さんは、こう伝えます。
「いくら、よく頑張った、と言葉で言っても表面的なものであって、
しっかりとは、伝わらない。
ようは、金です。
報奨金を渡す事で、選手は自分たちの頑張りを認めてもらったと、
協会に評価してもらったのだと、初めて実感出来る。
だから、選手に対して報奨金を用意してほしい。」
森さんの申し出に対して、
長沼さんは、即答こそしなかったが、
「分かった3日時間をくれ。」と言い、
翌日、すぐに電話で、協会に来るように森さんに伝え、
その場で、1000万円を渡し、
「これを、協会から森全日本へのメンバーへの報奨金として渡す。
誰に、どれだけ渡すかは、森ちんが責任を持って渡してくれ。」と伝えます。
森さんは、
監督をしていた5年間、様々な方から、
森全日本へとカンパや激励金を頂いていたそうですが、
それには、一切、手を付けずに、
5年間、選手を労う食事等は、自腹を切られていました。
そして、その5年間のカンパを使って、
森全日本に参加した50名弱のメンバー全員とその奥様を
熱海の温泉に呼び、お疲れさま会をされました。
そして、その席で、
1人1人に報奨金を渡した、と話されていました。
森さんは、
三菱重工サッカー部を辞めて半年もしないうちに、
日本サッカー協会のコーチとして招聘され、
その後、日本体育協会初めての体育留学生として、
ドイツ、ケルンに留学されました。
そして、そのとき、
既に、渡辺正さんの後任として、
協会の監督への道筋を、
長沼さんから間接的に伝えられていたそうです。
選手として、指導者として、
日本を背負われるべく、エリートの道を歩まれ、
その期待に、しっかりと応え、
メキシコ五輪の快挙や、多くの優秀な選手を育て上げ、
協会内の選手待遇への改善や、
プロ化に繋がる道筋を、つけられました。
心の中は大きな情熱に溢れ、
でも表面は穏やかで、
誰よりも優しく、
飾り気なく、気さくで、
思いやりに溢れた方でした。
森さんに語って頂いた史実は、
しっかりと、刻み、伝えて行かなければならないと想っております。
資金力が無かった時代、
初めて協会から「報奨金」が手渡されたのは、
森全日本でした。
あと一歩で、メキシコW杯を逃した
森全日本に対して、
当時の協会専務理事だった長沼さんに、
森さんは、監督もプロ化をしないと駄目だと進言しますが、
長沼さんは、
現在の協会の資金力では、それは叶えられないと伝えます。
しかし、本当に良くやってくれたので、
今までの森全日本の活躍を労いたい。
何か協会に出来る事を提案するように伝えます。
そして、すぐに、森さんは、こう伝えます。
「いくら、よく頑張った、と言葉で言っても表面的なものであって、
しっかりとは、伝わらない。
ようは、金です。
報奨金を渡す事で、選手は自分たちの頑張りを認めてもらったと、
協会に評価してもらったのだと、初めて実感出来る。
だから、選手に対して報奨金を用意してほしい。」
森さんの申し出に対して、
長沼さんは、即答こそしなかったが、
「分かった3日時間をくれ。」と言い、
翌日、すぐに電話で、協会に来るように森さんに伝え、
その場で、1000万円を渡し、
「これを、協会から森全日本へのメンバーへの報奨金として渡す。
誰に、どれだけ渡すかは、森ちんが責任を持って渡してくれ。」と伝えます。
森さんは、
監督をしていた5年間、様々な方から、
森全日本へとカンパや激励金を頂いていたそうですが、
それには、一切、手を付けずに、
5年間、選手を労う食事等は、自腹を切られていました。
そして、その5年間のカンパを使って、
森全日本に参加した50名弱のメンバー全員とその奥様を
熱海の温泉に呼び、お疲れさま会をされました。
そして、その席で、
1人1人に報奨金を渡した、と話されていました。
森さんは、
三菱重工サッカー部を辞めて半年もしないうちに、
日本サッカー協会のコーチとして招聘され、
その後、日本体育協会初めての体育留学生として、
ドイツ、ケルンに留学されました。
そして、そのとき、
既に、渡辺正さんの後任として、
協会の監督への道筋を、
長沼さんから間接的に伝えられていたそうです。
選手として、指導者として、
日本を背負われるべく、エリートの道を歩まれ、
その期待に、しっかりと応え、
メキシコ五輪の快挙や、多くの優秀な選手を育て上げ、
協会内の選手待遇への改善や、
プロ化に繋がる道筋を、つけられました。
心の中は大きな情熱に溢れ、
でも表面は穏やかで、
誰よりも優しく、
飾り気なく、気さくで、
思いやりに溢れた方でした。
森さんに語って頂いた史実は、
しっかりと、刻み、伝えて行かなければならないと想っております。
森 孝慈
誰からも愛された
”森ちん、森ちんさん”こと
志の会 理事長 森孝慈が、
17日、永い眠りについた。
御通夜、告別式には、約1100人もの方々が訪れた。
選手時代の日本代表メンバーの皆さん、
森全日本OB会の皆さん、
浦和レッズ関係者、選手の皆さん、
横浜マリノス関係者の皆さん、
アビスパ福岡関係者の皆さん、
日本サッカー協会やJリーグの方々、
そして、ベッケンバウアーをはじめ、
国内外から200を超える花輪が届いた。
改めて、森ちんさんの偉大さを想う。
3年程前の高校サッカーの決勝戦。
志の会の打合わせもかねて、
森ちんさんと共に観戦した。
あまりに軽装だったので、
「寒くないですか?」と聞くと、
おもむろに、ズボンの裾を捲られた。
すると、
ユニクロのヒートテックタイツを履かれていたが、
その色が、なんとピンクだった(笑)
「ユニクロにヒートテックを買いに行ったら、
もう、クロもグレーも、みんな売れきれとって、
ピンクしか残っとらんかった。」
そんな茶目っ気が、
また、愛すべき“森ちんさん”を創られていた。
森ちんさんは、
お父様が創られた原爆孤児のための学園、
「似島学園」の子供達と、いつもサッカーをして遊んでいた。
似島には、
大日本帝国軍時代の検疫所と捕虜収容所が建設され、
第一次世界大戦の際は、ドイツ軍捕虜が収容されていたが、
このドイツ軍捕虜が、
バームクーヘンの作り方を教えたり、
サッカーを教えたり、していたそうで、
似島では、早くからサッカーが盛んだった。
しかしながら、
森ちんさんが修道中学で選ばれた部活動は、水泳部だった。
サッカー部に入るきっかけは、
中学3年時、試合出場にあたって、サッカー部の人数が足りず、
臨時部員として試合に参加したことだった。
その試合で、森ちんさんは、ゴールを決める大活躍をしてしまったのだ。
高校にはエスカレーター式で入学するが、
既に、自分で選ぶまでもなく、
サッカー部に入るようなことになってしまっていた。
「あのとき、サッカーの試合に出とらんかったら、
サッカーの人生を歩んどらんかったかもしれんのー」
森ちんさんと言えば、
誰もが口を揃えて「焼き肉」そして「歌」という。
東京、メキシコ五輪代表組の中では、
若い世代に属する森ちんさんは、
試合後、各国との親睦会の席において、
八重樫さんを始め、諸先輩方に「森ちん、歌えや」といわれ
いつも、英語かドイツ語か、はたまた何語か分からない歌を歌って
周りを和ませる役を演じていらっしゃった。
森ファミリーの皆さんとの席では、
最初に焼き肉を食べ、その後、カラオケに行き、
そして、最後は“〆の焼き肉”を食べて解散、と言うように、
「焼肉に始まり、焼肉に終わる」そんな宴会ばかりだったとか(笑)
6月2日、
志の会 懇親会の席が終わって、
森ちんさんに顔写真を撮らせて頂いた。
「きむちのきぃ~」と言いながら、
カメラに向かわれた写真。

7月23日埼玉スタジアムでの写真(日刊スポーツ掲載)

常に周りの事を気遣い、
決して不平不満を漏らさず、
人を疑う事など一切無く、
いつも、誰にでも、
公明正大で、優しい方だった。
誰もに慕われ、愛された方だった。
御冥福を心から御祈りしております。
”森ちん、森ちんさん”こと
志の会 理事長 森孝慈が、
17日、永い眠りについた。
御通夜、告別式には、約1100人もの方々が訪れた。
選手時代の日本代表メンバーの皆さん、
森全日本OB会の皆さん、
浦和レッズ関係者、選手の皆さん、
横浜マリノス関係者の皆さん、
アビスパ福岡関係者の皆さん、
日本サッカー協会やJリーグの方々、
そして、ベッケンバウアーをはじめ、
国内外から200を超える花輪が届いた。
改めて、森ちんさんの偉大さを想う。
3年程前の高校サッカーの決勝戦。
志の会の打合わせもかねて、
森ちんさんと共に観戦した。
あまりに軽装だったので、
「寒くないですか?」と聞くと、
おもむろに、ズボンの裾を捲られた。
すると、
ユニクロのヒートテックタイツを履かれていたが、
その色が、なんとピンクだった(笑)
「ユニクロにヒートテックを買いに行ったら、
もう、クロもグレーも、みんな売れきれとって、
ピンクしか残っとらんかった。」
そんな茶目っ気が、
また、愛すべき“森ちんさん”を創られていた。
森ちんさんは、
お父様が創られた原爆孤児のための学園、
「似島学園」の子供達と、いつもサッカーをして遊んでいた。
似島には、
大日本帝国軍時代の検疫所と捕虜収容所が建設され、
第一次世界大戦の際は、ドイツ軍捕虜が収容されていたが、
このドイツ軍捕虜が、
バームクーヘンの作り方を教えたり、
サッカーを教えたり、していたそうで、
似島では、早くからサッカーが盛んだった。
しかしながら、
森ちんさんが修道中学で選ばれた部活動は、水泳部だった。
サッカー部に入るきっかけは、
中学3年時、試合出場にあたって、サッカー部の人数が足りず、
臨時部員として試合に参加したことだった。
その試合で、森ちんさんは、ゴールを決める大活躍をしてしまったのだ。
高校にはエスカレーター式で入学するが、
既に、自分で選ぶまでもなく、
サッカー部に入るようなことになってしまっていた。
「あのとき、サッカーの試合に出とらんかったら、
サッカーの人生を歩んどらんかったかもしれんのー」
森ちんさんと言えば、
誰もが口を揃えて「焼き肉」そして「歌」という。
東京、メキシコ五輪代表組の中では、
若い世代に属する森ちんさんは、
試合後、各国との親睦会の席において、
八重樫さんを始め、諸先輩方に「森ちん、歌えや」といわれ
いつも、英語かドイツ語か、はたまた何語か分からない歌を歌って
周りを和ませる役を演じていらっしゃった。
森ファミリーの皆さんとの席では、
最初に焼き肉を食べ、その後、カラオケに行き、
そして、最後は“〆の焼き肉”を食べて解散、と言うように、
「焼肉に始まり、焼肉に終わる」そんな宴会ばかりだったとか(笑)
6月2日、
志の会 懇親会の席が終わって、
森ちんさんに顔写真を撮らせて頂いた。
「きむちのきぃ~」と言いながら、
カメラに向かわれた写真。

7月23日埼玉スタジアムでの写真(日刊スポーツ掲載)

常に周りの事を気遣い、
決して不平不満を漏らさず、
人を疑う事など一切無く、
いつも、誰にでも、
公明正大で、優しい方だった。
誰もに慕われ、愛された方だった。
御冥福を心から御祈りしております。

