高橋信次先生、のことをご紹介させてください。

 

花田成鑑さま(故人)が、

高橋信次先生の一生についてまとめたものがありますので、
許可を得て、コピペさせていただきます。

 

 

 昭和四十年代から五十年代の初頭、日本じゅうが安保やオイルショックで頭を痛めていたころ、中肉中背で丸顔の実に誠実そうな一人の男が、場内からはみ出しそうな聴衆者を前に、何やら意味のわからない言葉(異語・いごん)で問いかけていた。
 相手はというと、これも同じような言葉で返している。
 場内はセキひとつしないで、不思議そうにその成り行きをジーッと見いっていた。
むろん誰れも何を語り合っているのかわからない。
間をおいて男は日本語で解説をいれると、会場の者はみな成る程と理解できる。
男は相手の方に身体を向けて、片方の手のひらを頭の上からかざすような仕草をしたり、離れて静かに円をかいたりする。
 なおも言葉は続く。
 すると相手は感情が込み上げてどうしようもないのか、堰をきったように 想いをぶっつけはじめた。
 「ブ・ッ・ダー」
 しぼるような声が場内一杯に拡がる。
 そして、すがらんばかりにひれ伏して手を差しのべ
 「観自在者ブッダー」
 男は、
 「そなたは、よく私のところに来てくれました。今生(こんじょう)もまた一緒にやりましょう…」
 男もハンカチを目に当てている。
 会場の中からもすすり泣きの声が
 「リヤ オ エレ…ソレ ポコラ…パニヤ インダ…」
 そしてすかさず男の解説がはいる。
 ひと区切ついたところで
「男前がこんなになっちゃいまして…」
 男は照れ笑いすると、会場からは笑いが。
 「嘘じゃないんです。真実なんです。本当なんです。皆さんも過去生まれた体験を皆もっているんです。皆さんの心の糸をヒモ解いてゆくと、全部それがわかるんです…袖すり合うも多生の縁! ありがとうございました」
すると、場内はどよめきと拍手のウズに。

こうして男の解説するところによると、ひとは生まれ変わり死に変わりして、二千五百年前の古代インドの時代に縁のあった者同志が時空を越えて出会ったとき、懐しさでどうしようもないのだという。
そして、霊魂は永遠であり死ぬこともなく生きとおしのものだから、今の自分がまっとうに生きていなければ、あの世で、或いは次に地上界に生まれた時に、ひとには嘘をつけても、自分には嘘のつけない善我なる自分が総てを裁いて、バッチリ反省させられ辻褄が合う、と男は弁を閉じた。

また、なんと昭和五十一年六月、男は自から予言した死の直前、こうもたたみ込んだ。
「三億六千五百年前に、七大天使と共にこの地球に飛来した、中心霊・エルランティである」、と。

 更に、
 「モーゼの説いたユダヤ教、釈迦の仏教、そしてイエスの説いたキリスト教、天照大神の説いた古神道(現代の神社神道ではない)、マホメットの説いたイスラム教を一つにするために肉体をもったのだ」、と。
その上、「神理は一つであり、宗教の間違いを修正することに自分の使命はあった」、と言ってのけた。
 とてつもなく大変なことを言って昇天した男がいたものである。

 「仏陀とかエルランティだとか、日本の同和問題に光をともすためにだとか冗談じゃないぜ」
 「魂は永遠だと…?」
 「あの世だと…死ねばこの世限りに決ってんじゃんか」
「このクソッタレめが!」
  男が伝道を開始してから、このような罵詈雑言がどこからともなく聞えた。
  しかし、男は自信たっぷりにまた言った。
 「すぐに信じてはいけません。疑って疑ってトコトン疑って、もう疑う余地が無くなったら、そのとき信じなさい」、 と、当然のように言ってのけた。

 聖書を引っ張り、受け売りの空まねの講演をする演者の多い中で、この男の口から飛び出す言葉は全てが奇想天外、今までに一度も聞いたことのない話の連続だった。
そうこうする内に、一人集まり二人集まりして男の講演会場はいつも超満員。
そして、ついには既成の新興宗教が、二万とも三万ともいわれる信者を引きつれて鞍替え、小さい方が大きい宗教団体を吸収するという前代未聞の合併劇に、宗教界をアッと驚ろかせたりもした。

また、山ほどの多くの「とてつもないこと」を言ってのけ、数多くの著書、講演ビデオ、録音テープ、そして来聴者の心に多くの神理を刻み、予言どおりに昭和五十一年(一九七六年)六月、四十八歳九ヶ月の若さでその生涯を閉じたのである。

 この耳なれない男の名は、高橋信次。

この男こそ釈迦、イエス、モーゼの本体、地球創生期に七大天使と共に飛来した真のメシア(真の救世主)エルランティだったのである。                  


 




 ウエブマスターのつぶやき 
この書き出しでウエブマスターが、園頭広周先生に原稿を差し出したのは平成の初め、福岡の近郊にある周船寺の道場用地を視察したときのことでした。
先生亡き今となっては、あれも聞いておけば良かった、これもと思うにつけ色々の想いが頭を巡りますが、高橋信次先生、園頭広周先生の両大天使亡き後は、知恵を絞って我々でも出きる方法で遺志を継がねばなりません。
両先生の正法の膨大な資料、真理・神理の教えを、余すところなく人類共通の資産として公開する積りでいます。
園頭先生亡き後、僅かしか会員のいない国際正法協会も、「感謝の集い」と「なんとか新教育」の二つに分裂してしまいますが、「人間・高橋信次」の原稿は感謝の集いの会誌に連載されることになりました。
ところが、高橋信次先生を「信次は」とか「高橋は」と呼び捨てに記述したのが逆鱗に触れたのか、人類の覚者に対して尊称の「先生」とか「師」に訂正すれば連載を続けるというものでしたから、ウエブマスターがそれを即刻拒否すると中止やむなきに至りました。
主人公の敬称抜きは、これは記述の世界では常識というものです。なんと狭い量見かと一時は憤慨もしましたが、これも私の心の修行かと五年間の空白を経て考え直しました。
ウエブマスターも勉強の積りで尊称と敬称で丁寧に書いてみようと思います。


 




 驚ろくべき出生の秘密
 日本じゅうに金融恐慌が吹き荒れていた昭和ニ年(一九二七)、夏が終り高原のそよ風が頬をなでる九月二十四日、一人の玉のような男の子が生まれます。大勢の家族に囲まれ、ことの外大事にされたというのです。
4WD車やキャンパーが集って、夏の夜の喧噪にマユをひそめる住人も多いという浅間おろしの吹く信州・佐久高原の一角、中込の里の一角でした。
幼くして死んだ二人を除くと、十人の子の中で男三人女七人の真ん中、貧農の二男として高橋信次師は生まれられます。
 本名は治男(春男とも)。
 成人して、信次と改名されることになります。
 その理由は、同じ地区に同姓同名の人がいて、郵便などの混乱だったようです。
 
 
出生地の選択 
 信次師の霊団のグループが、誰がどこに出るのか天上界で話し合ったのは、寛永二年(一六二五)でした。
 徳川家康(現代は俳優の長谷川一夫に生れ変わると信次師は教えられます)が、この世を去った十年後で、踏絵が断行された頃です。
 はじめ、信次師は北海道にと考えられますが、余りにも遠すぎる。
そこで、東京に近くて最適な所はないかと考えられた末、風光がインドのカピラ(釈迦の生まれた王宮の在所)に似ている長野の佐久平を選ばれたのだというのです。


 緊急訂正
不思議なことに、この項を最終整理していた、平成十四年のバレンタイン前日のこと、ある方から高橋信次師の未発表の直筆の原稿を送っていただきました。
それを元に訂正して述べてみます。

先ず第一点、信次師の誕生年は昭和四年か昭和二年かで混乱していましたが、これを見ると一九ニ七年(昭和二年)とありますから、園頭広周師とウエブマスターの共著で、出していただいた『正法と高橋信次師』の記述もここで訂正しておきます。

第二点は「もう一人の自分」という項に信次師はこう書いておられます。
 
 
未発表の信次師の原稿には
「少年時代、私は一九ニ七年、信州は浅間おろし吹く寒冷地佐久高原の貧乏百姓の次男として十人兄弟の中間に生まれました。
 十人の子供を育てる両親の苦しみは、経済的にも肉体的にも大変であった。
 しかし、今から七百年(註・北畠親房の頃)も前に、この計画は実在界において、具体的に作られていたのである。
 更に一八九〇年(明治二十三年)、更に正確さを記するため、実行段階を具体的に出生地を北海道、山形のいずれかを決定したのであったが、地理的条件や環境等の問題で長野を選んだのである。
先ず父母の選定が決定し、実在界より両親の生命がこの現象界に肉体を持ったのである。
 この問題は多くの人々によって証明せられることになっている。
 私ばかりではなく、全人類がみな自分が望み、縁によって 最も精妙な計画によって、この現象界に修行場を求めて出て来るのである。

貧乏な水飲百姓を選んだのも、私自身であり 地位、名誉はこの現象界の人が智と意によって造ったものであり、神の意によって定めたのではありません。
権力や因習によって 人間の上(かみ)と称する人々によって作られたのであります.
 しかし地位、名誉,権力者、金持、貧乏人にかかわらず 神仏の慈悲はみな平等であり太陽の熱光のエネルギーも万象万物に平等に与えていることを見ても解るはずであります.」、と。

高橋信次師は、この世に生まれる計画を、七百年前の室町時代の北畠親房の生誕の計画から始まって、寛永ニ年(一六ニ五年)と、信次師のお母さんが明治三十一年生まれですから、その前の明治二十三年(一八九〇年)と、更に正確を記するために、もう一回計画の検討をされ北海道から山形へ、さらに長野を選んだと書いておられるのです。


 心を許す相談相手  
そこで次に、一人では何かと心細いので、相談相手となる人をそばに出そうということになって、古代インドのお釈迦さま時代にプルナートラヤー・ヤニプトラと呼ばれた人で、それから日本に富棲那(ふるな)という名で生まれ、現代、税理士の佐藤氏で、彼とは小、中学校から、ずっと一緒だというのです。

このように、生まれる場所も環境も、全部自分で決めてこの世に出てくるのだそうです。
 自分で決めたのなら、生まれた所が暑い、寒い、こんな家に生まれるなんて、と言えるわけがありませんのに、不平不満だらけの今どきの人よ何とされますか。
 

 父となる人  
 お父さんについて信次師は、こう言っていられます。
 「僕の父は、釈迦のお父さんのシュット・ダナー王であり、その後、日本に生まれ変わって、鎌倉時代の源頼朝です」、 と。

 信次師の懐古談によると、お父さんは寡黙朴訥に黙々と働く人で、子供の成長を楽しみに、地味な人生を送って七十五歳の生涯を終えられたといいます。

信次師が悟りを開いてしばらくして(昭和四十四年頃)、お父さんが信次師の顔を不思議そうに覗き込まれると、
 「治男(春男)、お前は本当にわしの子だろう、ナ、そうだろう」
 「そうですよ、そうに決まっているじゃありませんか。それがどうかしましたか」
 と何気なく信次師が答えられると、
 「いやネ、昨夜、それがその…ぶ、ブ、武士が夢に出てきて「あれはわしの子だ」、といったというのです。
 次の夜、また別の武士が夢枕に立って、
 「わしの子だ、と言うんだよ」、とお父さんは告げられます。
 ターバンを巻いた二メートルくらいの白い服をまとった男だったとお父さんが言われるので、信次師はどうしてこういうことになるのだろうと考えられ、信次師の父の霊を呼び出してみられます。
 すると、最初の武士が出てきて
「源頼朝めにございます」、と頭を下げ、胸を張って言うことには、
「あなた様が日本に生まれて法(神理)を説くためには、日本の体制を整える必要があって私は鎌倉幕府をつくりました。ところが、武士はなかなか権力闘争が強くて困りました。だから今度は、何も関係のないのんびりと百姓を選んで生まれることにしました」、といわれたというのです。
するとまた、その後ろにティカラーの腕輪をつけた、インドスタイルの二メートルもの大きな男が仁王立ちして、
 「インドのときは、あなた様を育てさせていただきありがとうございました」
 と頭を下げられたというのです。
 二千五百年前、インドのお釈迦様のときのカピラの城主がその後、日本の源頼朝と生まれ、次に生まれ変わって現代の百姓のお父さんになられたというのです。

 縁というものはまことに不思議なもので、こうして見ると、我々はどんなに不満でも縁を通して、現在の両親を過去にも、未来の次に生まれるときにも、再びお父さんお母さんに選んでも何ら不思議はないということなのです。仕事もすべて自分が選ぶのだから自分の責任であり、職場が悪い上司が悪いと、自分の職業に不平不満も言えるわけはありません。
 両親を選ぶのも、生まれた環境もすべて自分の責任というわけです 。
 また、お母さんについて信次師は次のように明らかにされています。
  

 母となる人
  
信次師を生んだお母さんは、キリストを生んだマリヤさまであり、その後、日蓮を生むことになられます。
二千年前のベツレヘムの馬小屋でイエスを生んだマリヤ様が、次は鎌倉時代の日蓮のお母さんになり、現代は信次師を生み育てられたというのです。
信次師の「お母さんの回想」によると、無学なりにも、
 「心まで貧しくなるな」、とか、
 「雨滴によって穴もあく、いつの日にかは」
 「一寸の虫にも五分の魂」
 そして、他人の悪口を言えば、
 「人を呪わば穴二つ」、
 などと、諺を引用して子供達に教えられています。

 特筆すべきことは、明治三十一年生まれのお母さんは、信次師を妊娠された頃から、ふしぎな声が天から聞えるようになり、夜道を歩いていても足許がスポットを浴びたように明るくなり、懐中電灯もいらなかったようです。
 まるでSFの世界ですが、かってのマリヤ様ならではの超常現象だったのでしょう。
 また、お母さんが人に心から親切にされたため、信次師の家には不思議と物貰いが集まって来たので、みんなから生き神様と称えられ、信次師も心のきれいな人だと書いていられます。          
ことに、キリストの受胎告知は、天使ガブリエルがマリヤさまへ告げられたようですが、現代の信次師の場合は、お母さんが子沢山なために育児に追われ、天使が訪れても、お気づきでなかったと言うのです。    
 

 信次師のお母さんを訪ねて   
正法を教えていただいた著者の先生ですが、園頭広周(そのがしら・ひろちか)という元国際正法協会会長は、昭和五十五年に信次師の生家を訪ねておられます。

そのとき、八十ニ歳のお母さんは新築の家に一人で住んでおられ、眼鏡も補聴器もいらず縫いものをしておられたといいます。
 会長一行が、色々と信次師について話しを聞いておられると、たびたび話を切上げては奥へ行かれるので、何をされているのかなと思っていたら、あっという間に三人分の昼食を用意して下さり、どうしても食べて欲しいと勧められたというのです。

 信次師のお母さんは、そのとき、話しをこう切り出されています。
「私が朝早く起きて炊事の用意をしていると、まだそれは結婚してまだ間もない時でしたが、橋の上を歩いていたら、私の身体のまわりが一瞬黄金色に輝くのです。
すると、わたしは、わたしであって、わたしでないような感じがしてきて、天から声が聞こえてくるのでした」、
 と。さらに、

 「あの子は、親に心配をかけまいと自分一人で何んでも行動する子でした。治男(春男)は死にましたが、死んでいません。治男は今も生きています」、と自分に言い聞かせるように何度も繰返されたというのです。

 当時、各県単位で、五、六人の優秀な者だけしか行けぬ幼年学校も、合格通知をもらってはじめて、両親が知られるほどでした。
ところで、そのとき偶然とは云え不思議が起こります。

信次師が生まれ育った家は、信次師がお母さんのために家を新築されたので、半分をこわし通路になって、後の半分は一行が訪ねられた日に取り壊わすことになっていたのが、偶然にも雨が降ったために取り止めになっています。
 それは写真に残されますが、危機一髪でした。
 

 ウエブマスターの高橋信次師の故郷を訪ねて 
(ウエブマスターが訪ねたのは平成四年三月二十日から二十二日。二十日は残り雪も見当たらない晴れ、二十一日はすごい雪。
 信次師の晴れ日のたたずまいの写真と、大雪の家の写真が撮れました。
二度目の脳出血回復直後のため、後遺症によるビデオのブレは少し気になりますが写真はバッチリ。電話帳で高電工業を探し出し、電話帳の住所も接写で残す気の入れようが見えます。取材ノートを見ると、初日は博多より朝六時の一番の新幹線で名古屋十一時。名古屋十二時の中央本線の特急で長野が十五時。長野より信越本線特急にて小諸十六時。小諸から小海線普通にて滑津駅十七時。博多から生家まで列車にて十二時間の行程でした。

先を続けます。
さらにお母さんは懐かしそうに、信次師が背たけを計った柱の傷を指し示し、別れるときに、フトコロから紙包みを差し出されたので無理に断るわけにもいかず、いただかれたそうです。
九州の遠くから尋ねてくれた人への思い遣りというか、心遣いが痛いようにわかる一例ですが、開けて見られると一万円だったというのです。
色々な記述や講演からも信次師はお母さんの感化を特に受けていられるようです。
 これに対して、更に付け加えると信次師は、過去世の母なる人をこう言明されています。
 

 お釈迦さまのお母さんのマヤなる方 
 また、寛永ニ年のこと、インドの時の釈迦のお母さんであるマヤさまに信次師は、
 「今度も私のお母さんになって下さい」
 とお願いをされますが、
 「今度は休ませて下さい。申し訳ありませんがインドの時は大変苦労を致しましたので」、
 と申されるので、それではマリヤ様であり、日蓮のお母さんにお願いすることになったというのです。        
 では、どうしてそういう話しになったのかと申しますと、マヤ様は出産のために故郷へ帰る途中の、現在のネパールのルンビニというところで釈迦を生みます。ところが産後の肥立ちが悪くマヤさまは一週間で亡くなってしまいます。こういうことがあったので その意味でマヤ様は大変だったに違いありません。
 何と釈迦は逆子だったというのです。
 それが原因でヤマ様は亡くなることになるのですが、これとてお釈迦さまがこの地上界で自分から悟り、人類の救世主になるための一つの手段として、マヤ様は天上界の計画によって天国へ召されたというのです。
これを聞いて、それにしても天上界って無慈悲なことを、よくもまあ、やるもんだと皆さんは驚かれるかもしれませんが、我々は永遠の生命であり、この世限りではなく、死んでもまた生まれてくるのです。
このように天上界の計画に参画することは、魂にとって偉大な功績となって褒め称えられることになります。
 だが、マヤ様にとっては、とても大変なことだったのでしょう。
 

 伝説の誤謬性 
しかしそれにしても、お釈迦さまはマヤ様の脇の下から生まれ、七歩歩んで「天上天下唯我独尊」と言ったとも伝えられていますし、あろうことか、イエスにはマリヤ様の処女懐妊説があるように、これは後世の人が神格化するための作り話であると、信次師は修正しておられ、
「そのようなことはなく、イエスは普通のように生まれ、釈迦も我々と同じで、後世の人が賛美する余り、作り変えたのだ」、と。


 縁生ということ 
 おうおうにして、人は自分が望む有名人の子として生まれたいと思うものです。
でも、そこには誰も侵せぬ縁というものが厳然として有るので、自分の一存でマヤ様やマリヤ様の許に生まれようとしても、それは不可能だと知るべきです。
念を押して云えば、このような意味から縁を通して、皆さんの現在のお父さん、お母さんを次もまた選んでも不思議はないのです。
 我々はそこがわからないものですから、自分で「お願いします子供として育ててください」と、両親を選んでおきながら、選び損ねたとか、恨んでみたり不平不満を言うのも、それこそナンセンスというものです。
お父さんお母さんへの感謝、報恩とは、こういう意味があったのかと、初めてお気付きになったことでしょう。
 ともかくも信次師のお父さんの過去世の名が、あの源頼朝であり、インドのお釈迦さまの時代はシュット・ダーナー王で、さらにまたお母さんの過去世が、マリヤ様であり日蓮の母であった、と。


 マヤ様の現代を検証すると 
一方、マヤ様は、今度は信次師をお断わりになりますが、なんとも都合のよいことに、やはり日本に生まれられているのです。
 「やはり日本に!」
 と、余りに出来すぎていると勘ぐられても仕方ありません。
 その方は、日本の華族の中で最も金満家と言われた蜂須賀侯爵家夫人となられ、蜂須賀T子として、それはそれは蝶よ花よの優雅な生活振りでした。
そこで、T子氏は縁の不思議さを感じられてか、人が集まる一軒家を信次師に寄贈され、信次師の正法の伝道を、温かく見守られていたというのです。
 マヤ様、或はマーヤー様の本名は、マカハンニヤダイで、(マ)カハンニ(ヤ)ダイの、マとヤをとって、通称マヤ様、マーヤー様なのです。

 この項を最終整理していた時、ウエブマスターには不思議がありました。この辺の記述がある『GLA』誌を或る方から送っていただき、マヤさまの真実を書き加えることになりました。
園頭先生と共著で出していただいた『正法と高橋信次師1・2・3』の著書もある関係からか、大川隆法氏以後の「高橋信次先生もの」の草分けとも目され、この手の本の引用文献として数冊の本の中に在るものですから、標準書籍として天上界から監視、監督されているのか分かりませんが、思いがけなく責任の重大さをヒシヒシと感じております。

先を続けます。
 昭和四十五年十一月、亡くなる数日前に信次師に出された手紙も残されており、八十余歳の生涯を閉じられています。
 尚、T子氏はこの百年前には釈迦の分身である桂小五郎、つまり政治家の木戸孝允の母であった、と信次師は書き残されました。
 さらに、T子氏は蜂須賀夫人として優雅な生活振りは当然ですが、金満に溺れず、絶えず神理の追求に没頭され不思議も体験されていたようなのです。
 このようなわけで、マヤ様は優雅な生活、片や、マリヤ様は貧農の妻、この不思議な明暗ともいえる相対性について、不公平ではないかと思われる向きもありましょうが、とんでもありません。
その考えは独り善がりの独善というもの、どちらがより良い魂の勉強になったかということです。
 金持ちとか貧乏というのは、魂の修行の道具であり、一つの人生勉強に過ぎないと知らねばならないのです。

 

続く