日々の精神科臨床で、神経症圏の患者さんには、安心安全、安定を優先した語りが多くみられること、
そしてそうした患者さんが「意欲が出ない」を主訴とする、抑うつ状態がみられやすいということを多く経験してきました。
過去のブログでも、意欲が出ない、安心安全、などのタイトルで書きました。
今回、再度とりあげるのは、やはりそういう患者さんに出会うことが多いのでまとめてみようということと、
私が精神科医としていえるのは、強迫性、即ち親子関係の視点ですが、
現在のコロナ禍の状況で、
社会全体が、強迫的になっているように思われ、強迫性の視点で触れたくて書いてみます。
安心安全を第一にするということ、それは良いことのようです。何が悪いのだと、言われそうなことです。
しかし、神経症の患者さんとの対話では、強迫性の視点で、患者さんの語りにそっていき、
安心安全、安定優先で、それが症状を出しているのではと説明すると同意を得ることは多いのです。
安心安全を第一にするということは、親の子に対する願いです、親であれば当然だという視点です。
親はいつまでも子供でいてほしい、危ない橋を渡って欲しくない、願わくば結婚もしないで家にいてほしい、
そんな気持ちを持っている。そいうことを子であり親である患者さんの語りを聞いて、そう思います。
子の側から親をみて親を心配すれば、親に心配をかけないようにしようとします、
それが意識的か無意識的か、心配をかけないようにすることを優先すると、
安心安全、加えて安定、現状維持が良いことになります。
実際、神経症圏の患者さんは、安定、現状維持が良いと言われることが多いです。
安定がいいということは、職業でいえば、「資格をとって」が良い、これはよく言われます。
「資格をとって」が良い、それがなぜ健康的にならないか、
それは手段優先で、目的である「何の」資格をとりたい、「何の」が省かれているからです。
これは森田療法でいう、治療的な目的本位ではないことになります。
精神分析でいえば、治療的な自我理想をみる方向でないことになります。
もう少し精神分析でいえば、強迫性、つまり肛門期に退行していることになります
(日常用語でいえば、「しないといけない」という親子関係が一番の時期にいることになります)。
親の願いに戻れば、職業選択での安心安全、安定の願い以外に、結婚しないで家にいてほしい、
そういう願いがあります。そんな願いはもってないと親は言ったとしても、親であれば、そういう願いは持ってはいる、
さらに、その願いが子にストレートに伝わりそうなことを親は言っている、そう思えるケースに出会うことは多いです。
その願いに沿っているように、子は恋愛をしない、親の近くにいようとする、そんな動きがあります。
また恋愛はして結婚していても、結婚した相手よりも親を相談相手の一番にする、
さらには結婚した相手より親をみるために夫婦の親密を避け、それで相手と別居することになり、
そして子が実家に帰ることになっても、親は可哀そうにと子を歓迎する、そういう患者さんと出会うことは珍しくないです。
過去のブログで「世話役心性」を書きましたが、「世話役心性」まではいかなくても子は親を心配します。
願わくば結婚しないで家にいて欲しいという親の気持ちを心配したら、
子は親の近くに来て親の世話ができるような位置で
(親から物理的に離れていても心理的には親の近くにいる場合も多いです)
意欲を出そうとする、その意欲の出し方は無理があるから、いずれ「意欲が出ない」という症状を出す。
そこで出会う患者さんとして会う方は、安定を優先した生活歴であることが多いのです。
親の願いに沿って子が頑張ること、それが強迫的になる、その逆は、自分自身の願い、どうなりたい、ああなりたい、
という方向での職業選択を行うことです。恋愛であれば、どうなるか。
恋愛であれば、安心安全、安定を優先しては、恋愛しているとはいわないでしょう。
一方、親が気にいる相手を選ぼうという気持ちは無意識的に動いて、異性と向き合った恋愛はしないか避けていることはみられます。
昨今話題の未婚が増えているというのも、臨床では、仲がよくないように子からはみえる親を、
子がみよう(世話をしよう)として未婚である動きをしている、そのようなケースと出会うことから、
未婚が増えているという社会の動きが強迫性から説明できる可能性はあります。
神経症圏の患者さんの抑うつ状態として出会うことが多いのは、自分の意欲自体はあるのだが、
親の顔色をみることや、親に相当する職場の環境の顔色をみることで、
つまり欲の向きが親や親相当の相手に向いているために、その分「意欲が出ない」という状態です。
親に遠慮することなく、自分の素直な欲にそっていいではないかがシンプルなこととして大事で、
問題の理解と治療のためには、まずその大事さを共有することかと思います。
神経症の方の場合で多いのは、そのシンプルなことが「頭ではわかる」と一旦共有したかと思うと同時に「でも」と、
親や親に相当する側を思うことを語ることに戻り、やはり「意欲が出ない」という状態が生じています。
ここから、強迫性の応用として書いてみます。
昨今のコロナ禍で、「しないといけない」という強迫的傾向が、社会全体にあります。
感染防止のためには、マスクをつけ、ソーシャルデスタンスを取り、新しい生活様式を定着させて、
そうしないと「我慢が足りない」「周りの迷惑を考えない」
(これは親が子にしつけるときに言う、つまり強迫性関連の言葉です)と言われる。
まず感染防止が優先されるのは、強迫性で説明した、手段優先に相当します。
「感染しないように」が一番大事なのでしょうか、
「感染しても、重症化しない、免疫力」というのは、
本来、「治ったら、楽しい、やりがいのある仕事や仲間、好きな人と過ごしたい」が目的としてあったはず。
そんなことをいうと、風邪と同じにしてはいけないと言われそうなのですが、
他の大事なことを後回しにするほど、コロナ感染は怖いものか、
そういうことを言って良い時期にあると思われるのに、そんなことはいってはいけないことでしょうか。
親が子にしつけるときにいう「我慢が足りない」「周りの迷惑を考えない」、それは精神科的には強迫性であるといえます。
精神科医としているのは、強迫的であることが、うつ状態の要因になる、ということです。
安心安全、安定のために、家にいよう、そして新しい生活様式の定着は、生活習慣の乱れや強迫的であること絡んで、うつ状態になることは過去のブログでも書きました。
まるで、政府が、親であるように、「しないといけない」とワクチン接種
(私は強制的なワクチンに反対し、子供へのコロナワクチン努力義務化に反対です)を進め、
デジタル化への「義務化」を進めている(マイナンバーカード関連で、オンライン資格確認の義務化というのがあります)。
親には反抗していいのだから、まして政府や、その関連機関の強制には反対していいはずです。
強権や義務化という表現がコロナ禍でみられやすくなっています。
強権や義務化が必要な状況とは、どんな状況でしょう。
過去ブログのタイトルにしました「自由であること」が兎に角大事です。