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瑠美子さんは一月十七日の入試のため、車中泊の予定で前日に母と自宅を出発。 新幹線で十六日深夜に新潟県のJR長岡駅まで着いたが、乗り換える予定だった夜行列車は大雪で運休に。長岡駅ホームで両手で顔を覆って泣く瑠美子さん。だが母はヒッチハイクを提案。「絶対あきらめない」とつぶやいた。
歩道は一五〇センチの積雪のため、車道にできたわだちの上を歩いた。オレン ジ色の傘を広げて上下に大きく振ったが、車両は次々と通り過ぎる。吹雪が強ま ると数メートル先の母がかすんだ。
二時間余りでたどり着いたガソリンスタンド。一台だけ止まっていた大型トラックの運転手に頼むと「金沢までなら」と引き受けてくれた。
母は車内でほとんど口を開かなかったが「子どもはいるんですか」とだけ尋ねた。「中三の娘がいる」とTシャツ姿の運転手。瑠美子さんは座席後ろの簡易ベ
ッドで三十分間眠った。
パイロットが瑠美子さんの夢。中学一年の時、テレビで航空自衛隊の戦闘機が 飛ぶのを見てあこがれた。母は「私立は金が掛かる」と渋ったが、タクシー運転
手の父に「ローンの手続きをして。返済はわたしがするから」と頼み込んだ。
瑠美子さんが目を覚ますと、夜は白みかけ、金沢市が近づいていた。運転手は 「よし、輪島まで行っちゃる」。先行車を次々と追い抜いたトラックは集合時間十分前に到着。運転手は「がんばれ」と励ました。連絡先は教えてくれなかった。
入試の作文は偶然にも「わたしが感動したこと」。四百字詰め原稿用紙一枚に深夜のヒッチハイクと母への感謝の気持ちをつづった。
自宅に合格通知が届いたのは三日後だった。
誠にありがとうございました。
『東北救援コンサート』募金の結果をご報告させていただきます。当日の募金額277,286円(下記企業募金含む)。グループ「音の箱」さんより委託されました73,212円を合わせて合計350、498円もの義援金が集まりました。この義援金の全ては責任をもって10月後半に被災地(岩手県陸前高田市)に直接届けさせていただきます。もちろんすべての経費等は熊野鬼城太鼓(一部熊野ハートビーツ倶楽部)が負担致します。また、陸前高田市に不足する物資を確認した上で10月中に支援物資の呼びかけを行う予定です。皆様の御協力をよろしくお願い申し上げます。
今回のコンサートを通して,わずか半日間で多くの方が会場へ足を運んでくださり,たくさんの義援金が集まったことに感謝し、熊野の皆様の心の温かさに触れることができ感激しております。募金をしていただいた皆さん、出演者の皆さん、関係者の皆さん。本当にありがとうございました。
熊野鬼城太鼓
記
【企業募金協力会社】
浜峰商店 4口、井本組 2口、田端創建 2口、建築設計工房TETSU 2口、さどの庄 1口、鳥井教材 1口、御浜天地農場 1口、ヤンマー農機熊野支店 1口、S-WAVE 1口、汐はま 1口、NPO法人子供ステーションくまの くまのっこ学童クラブ みはまっこ学童クラブ1口、うぶた堂 1口、吉野熊野新聞社 1口、ピアノ技術オオニシ 1口。 以上(一口5000円の企業募金に協力頂きました)
私の家の前では、今、住宅の建設が真っ盛りです。数年前までここは畑で、道路もまだ舗装されていない砂利道でした。
私が、小学校五年生のころ。近くに住む農家のおじいさんは毎日、農作物の世話でこの畑に来ていました。砂利道からほんの数十メートル先には、既に宅地化が進み、舗装されたアスファルトの道路があります。おじいさんは、舗装された道路の脇にトラックを停めると、そこから鍬やスコップをかつぎ、この砂利道をてくてく歩いて畑に来るのです。
八月の夏休みのこと。いつものように畑にやってきたおじいさんに、私は話しかけてみました。
「おじいちゃん、何でトラックで畑まで来ないの? すぐそこに停めてあるのに……。」
私の質問に、おじいさんは麦わら帽子のツバをめくると、ニコニコしながら答えました。
「ワシには、足があるでのう。歩かんと足がなまって動かんくなると、いかんからね。」
そのとき私は、おじいさんの言葉を何の疑いもなく聞き流していました。
新学期が始まった九月だったと思います。いつもの砂利道で自転車に乗っていた私は、野菜を積んだ一輪車を押すおじいさんとすれ違いました。おじいさんは押していた一輪車を停めると、歩いてきた道の地面を足で、「トン!トン!」と、ならし始めたのです。
「おじいちゃん、何してるの?」
私は思わずたずねました。
「おねえちゃん、轍ってしってるかね。」
「ワダチ?」
聞きなれない言葉に、キョトンとする私に、「車が通った後、タイヤで道がくぼむじゃろ。そうすると、おねえちゃんの自転車がその轍にとられて転ぶといかんから……。こうして、轍をならしているんじゃよ。」
私は、その言葉にハッとしました。もしここに、あのトラックが入ってきたら、もっと大きな轍ができるはずです。おじいさんは、それが分かっていて毎日、この砂利道をわざわざ畑まで歩いていたのです。
私はそのとき胸が熱くなりました。トラックでくれば身体も楽なはずです。それなのに、何年もの間、道を傷めないために、子どもたちが怪我をしないように歩いていたのです。
私が中学に入学してまもなく、おじいさんは亡くなりました。その後、砂利道は舗装され、畑は住宅へと姿を変えようとしています。人は、自分の視界に入るものばかりに気をとられるものだと思います。ときには、普段気づかない後ろや周りに、どんな形であれ「轍」ができていないか振り返ること。そして、その先に起きるかもしれない危険や困難を予測し、相手を思いやる行動をとることが本当の「親切」ではないでしょうか。
砂利道の思い出は、アスファルトの道路の下に埋もれてしまいましたが、おじいさんが教えてくれた「轍の心」は、今も私の胸にくっきりと刻まれています。
愛知県金城学院中学校二年(当時)の飯田 素乃香さんの「轍の心」より
