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心が元気になる話

心が元気になれば、毎日の生活も、仕事も勉強も楽しくなってくる!
そんな元気のもとになるお話を発信したいと思っています。


<春に咲いたヘーベの花が、切り戻したらまた咲きました>

長雨が続いていますが、皆さんお元気でしょうか?

私は、このところの不安定な気圧や長雨のせいで、
久しぶりに一日だけでしたが、喘息で寝込んでしまっていました。

運動をするようになってから、だいぶ元気になっていたので、
改めて健康の有り難さを感じました。

それで今日は、しばらく前に、
病気を通して発見したこと詩にした記事があるので、それをお届けしますね。

<心元気メール> No.29 2011年4月16日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆元気な時には見つからない「丸」◆◆

今日は、私が病気の時に見つけたもう一つの宝物についての詩です。

<元気な時には見つからない丸>

元気な時、仕事がうまくいっている時には、見えないものがある。
自分が衰え、弱い立場になって初めて見つけられるものがある。

元気な時に大切だったもの・・・
成功すること、能率をあげること、物事を拡張すること。
自分が弱くなってみると、
本当に欲しかったのはそんなものではないとわかってくる。

本当に欲しかったのは・・・
心と心のつながり、気持ちを分け合うことのできる喜び。

人は元気すぎると、大切なものが見えなくなる。
本当に欲しいものが何なのかに気づかないこともある。
忙しすぎて、自分のことさえわからなくなる。

スピードが出すぎたら、歪んでしまうんだ。
ボールを見てごらん・・・
コロコロ、コロコロ、自然にころがっている時には、
まん丸い形をしているけれど、
スピードをつけて投げたら歪んじゃう。

歪みがくるのはボールだけじゃない。
健康だって、心だって、歪んでくるよ。
仕事も、家庭も、すべてが歪んじゃうんだ。

だから、スピードに気をつけて!
元気なことはいいことだ。
でも、元気でスピード出しすぎないで!
自然のスピードで生きてみようよ。
神様は「素敵な丸」を創ってくれたんだから。


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店頭に並んでいるサクランボ、美味しそうですね。
今日は、お客さんが来ているので、みんなで初物のサクランボを頂こうと思っています。

そして、今日のお話は・・・
このサクランボについての興味深い実話です。

<心元気メール> No.408 2012年6月24日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆サクランボと子供たち◆◆

サクランボのシーズンになりましたね。

ドイツのハンブルグの街では、
サクランボが熟する頃になると、素晴らしい光景が見られるそうです。

それは、子供たちが、
熟したサクランボのついた桜の枝を手にして通りを行進する姿です。
そのパレードは、5百年以上前のある出来事を記念して行われているそうです。

事の次第は・・・

5百年前、強力な敵軍がハンブルグに向かっていることがわかった。
情報部員の知らせによれば、近づいてきている敵軍は圧倒的に優勢で、
ハンブルグにはそれに対抗できるだけの数の男がいないので、
とても勝ち目はないということだった。

「敵は刻々と近づいています。すぐここに到着することでしょう!」
とメッセンジャーは大声をあげた。

恐ろしい大虐殺は避けられないかに思えた。
ところが、市のお偉方の一人がある事を思いついた。

「子供たちに助けを求めようじゃないか」と提案したのだった。

他の者達は、
「そんなことをして何になる?」と文句をつけるばかりだった。

だが、そのことを思いついた者は、
子供たちを全員集めて、助けを乞い求めた。

さて、しばらくすると、
街中の子供たちが黒い服に身を固めて、
街の門から、あふれるように出発した。

そして、長い行列をなして、
向かってくる敵軍に向かって行ったのであった。

ついに彼らは、敵の見張りの所まで達した。
敵軍の見張り達は、子供たちの行列を見て驚いてしまい、
どうしていいのかわからなかった。

彼らは、「将軍の所に行かせたほうがいい」と判断し、
子供たちからなる軍隊は、恐ろしい顔をした敵の指揮官の前に出た。

「何をしに来たのか?」

指揮官は厳しい口調で尋ねてきた。

そこで子供たちは、口ごもりながらも、
何とかして自分達や家族に憐れみをかけてほしいと嘆願した。

将軍は、無表情な顔つきをしながら耳を傾けていた。

だが、われ知らず、心に感じるものがあったのだろう。
突然立ち上がると、こう言ったのだった。

「おまえ達は、両親の命を救った。
誰一人として殺されることはない。」

そして、喜び踊る子供たちに、さくらんぼが山と与えられた。
ちょうど、サクランボの熟する時期だったからである。

まもなく、子供たちは親たちが待つ街へと帰っていった。
桜の枝を振り、この素晴らしい知らせを叫びながら。

そういうわけで、サクランボの季節になると、
ハンブルグの子供たちはその出来事を記念して、
桜の枝を手に通りを行進するのである。
***

戦争とは醜いものです。

もし、送りだす兵士一人一人にも大切な家族がいて、
また、戦っている相手の一人一人にも家族がいることを真剣に考えるなら、
戦争はもっと減るかもしれません。

将来を生きる子供たちのためにも、
世界中でもっともっと、平和が推進されますように!

イエスは言われた。
「あなたの剣をもとのさやにおさめなさい。
剣をとる者はみな、剣で滅びる。」
(聖書 マタイ26:52)

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裏庭のピンクのアジサイが満開になったので、
切り花にして玄関に飾りました。
今年は本当に大きな花が沢山咲いて、嬉しいばかりです。

実は、つぼみがつき始めた頃、近所の方がある助言を下さったのです。
それを実行した結果、本当に去年の花のつき方とは大違いでした。

そこで今日は、その話にちなんだ記事をお届けしましょう。

<心元気メール> No.607 2014年5月14日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆選択力◆◆

「しなくちゃいけないことが沢山あって・・・」
「したいことがありすぎて、どれも中途半端になってしまう」

こんな言葉をよく聞きますが、実は私も、その気持ち、よく分かります。
趣味が沢山あって、いくつかの仕事を掛け持ちしていて、一家の主婦であるなら、
やるべきことのリストは尽きることがありません。

その上、私は欲張りです。
それら全部を成したいと望むのです。
それではまるで、自分自身にストレスを与えているようなものです。

どうにか、そんな状況から抜け出さなくてはと考えていると、
昨日、近所の人から興味深いことを言われました。

私が庭先で、花の終わったツツジの剪定をしていると、
「このアジサイも摘んだ方がいいわよ」と言われたのです。

「でも、こんなに蕾が沢山ついて、これから花が咲くところだし、
剪定は花の終わった時にするんでしょ?」と言うと・・・

「よく見て。 蕾のある枝と、蕾のない枝があるでしょ?
こんなに茂っているなら、蕾のない枝を落とした方がいい花が咲くわよ。
蕾のない枝をそのままにしておくと、花に栄養が行かなくなってしまうのよ」と説明してくれました。

そこで、アジサイの茂みをよく見ると、なんとまあ、蕾のない枝が沢山あること・・・
そこで、そういう枝を剪定すると、うっそうとしていた葉っぱのジャングルがすっきりして、
奥にある蕾のある枝にも陽光が当たるようになりました。

よく、果樹園や農作物においては、そうやって余分の芽を取り除くことで、
良い実をならせるようにしていることは何となく知っていましたが、
実際に自分の家にある花で、それを経験したのは始めてでした。

夜になって、その出来事を思い出していると、
急にそれが、神様からの答えだと気づいたのです。

私は、したいことが多すぎて・・・と困っていましたが、
その中から、花を咲かせるものに力と時間を集中させるために、
実際あまり成果を出すことのないような事柄をカットしないといけないと、
神様が教えて下さっているように感じました。

私は春になって、「よーし、今年もまた、何か新しいことにチャレンジするぞ」と意気揚々としていました。
それはそれで、とても良いことでした。
実際に、幾つかの新しいことを始めたからです。

それはまるで、新緑のシーズンに、沢山の新芽が一挙に吹出る時のような感じです。
でも、しばらく様子を見たら、
どの新芽を伸ばし、どの新芽をカットすべきか判断しなければならないのです。

これは、私たちの仕事や生活にどれほど当てはまることでしょう。
どう考えたって、全部をすることはできないし、
結局はすべてが中途半端になってしまうのは分かりきっていることです。

ただ多くの場合、私たちには勇気がないのです。
どれに集中し、どれをカットするかを選択する勇気がないのです。

でも、選択しないままで進み続けるなら、すべてがジャングルのように生い茂って、
せっかく蕾がついても、栄養不足で色の悪い小さな花で終わってしまいます。

情報も、仕事も、趣味も、娯楽も、すべてが多すぎる現代社会に暮らす私たちは、
『過剰社会』の中で、『賢い選択力』を身につけていかなければならないのだと思います。

聖書でも、実を結ぶための剪定について、イエス様はこう言われました。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。」(ヨハネ15:1-2)

私たちも自分の生活を管理する賢い農夫として、
毎日していることを見直して、今は何にフォーカスすべきなのかを選択できるようになりたいものです。

もう一つ、聖書にあるパウロの言葉に、とても興味深いものがあります。

「すべてのことは、わたしに許されている。
しかし、すべてのことが益になるわけではない。」
(第一コリント6:12)

つまり神様は、これはしていいけれど、これはダメというように、
日常生活の全てに白黒のルールを定められたのではないのです。

もちろん、絶対にしてはいけないことのような大まかな枠組みは与えられました。
でもその範囲内で、神様は人間が自由に選べるように、選択の権利を与えているのです。
これは、人間にだけ与えられた特権です。

だから私たちは、その自由の中で、真に益となるものを選んでいかなければならないのです。
果たして私たちは、日々、賢い選択をしているのでしょうか。

聖書の話をよく知っている人なら、マルタとマリアの話と言えば、ピーンとくるでしょうが、
イエス様が、ある二人姉妹の行動を見て、
「マリアはその良い方を選んだのだ」と言われた場面があります。

最後に、その部分を見てみましょう。

「一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。
するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、
「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。
わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。

主は答えて言われた、
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。
マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
(ルカ10:38-42)

私たちも数ある選択肢の中から、
良いもの、最善のものを選びながら生活することができますように。


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<沖縄のシーサーとハイビスカス>

父の日というと、なぜか、この春家族で行った沖縄旅行のことが心に浮かびます。
やっぱり、主人と一緒の旅行は楽しかったです。

私自身の父親は、もう12年前に天国に行ってしまったので、
父の日に考えるのは、もっぱら、息子のためにとっても良い父親でいてくれる主人のこと。


<沖縄の昔の村を再現した「琉球村」>

でもお祝いと言っても、最近では互いにプレゼントすることより、
何か一緒に良い思い出をつくる方に気持ちがいっているので、
父の日に、どこか行きたいなぁと思っているものの、今年はまだ検討中です。

そこで今日は、沖縄旅行から写真を交えながら、
父の日の前に、ぜひ皆さんに読んでほしいお話を紹介しますので、
どうぞ最後まで読んでみてください。


<南国の空とヤシの葉のカーテン>

<心元気メール> No.612 2014年6月12日
発行人:リジョイスY.C.

◆◆父の日の前に読んでほしい話◆◆

今度の日曜日は父の日ですが、それにぴったりのお話を見つけました。
毎回、なるべく暦に合わせた記事をお届けしたいと願っているものの、
いつもぎりぎりになってしまい、それだと、もっとはやくに読んでおきたかったということになってしまうので、
今回は少し早めにお届けすることにしました。


<ちょっと中国を思い出させる琉球村の風景>

「今、やりなさい!」  デニス・E・マナリング著

私は最近、大人のためのグループ・レッスンで、
「ゆるせない」というテーマを取り上げ、全員にこんな課題を出しました。

「これから一週間の間に、あなたが愛している誰かの所に行って、愛していると告げてください。
ただし、今まで一度もそれを告げたことのない人か、もうずっと長いことそう言っていない人に限ります。」

さほど難しい課題には思えないかもしれませんが、改めて考えると、
そのグループにいる男性たち35人以上のほとんどが、
感情を表すのは「男らしくない」と教わった世代なのです。

彼らにとっては、感情を見せたり、泣いたりする(言語道断!)など、あり得ません。
ですから、一部の男性にとっては、かなり男としての権威が脅かされるような課題でした。

さて、次のレッスンで私は、
「愛している人に気持ちを告げてみてどうだったかを、分け合いたい人はいますか?」と尋ねました。

私は、きっといつものように、女性軍の一人が申し出るものと思っていたのですが、
その夜は、一人の男性が手を挙げました。

その男性は、感極まった様子で、少し動揺しているようでした。
身長190cmの巨体を起こして椅子からまっすぐ立ち上がると、こう話し始めました。

「デニス先生、先週、課題をもらった時、私はあなたにかなり腹を立てていました。
私にはそういった言葉をかける相手など誰もいないと思ったし、
それに、あなたは私に対して、そんなにプライベートなことをするよう告げる分際なのかと思ったのです。

けれども、家に帰るため車を運転し始めると、心にこんな良心の声が聞こえてきました。
「あなたは、自分が誰に『愛している』と告げるべきなのかを正確に知っているはずだよ。」

実は、5年前、私と父とは、ひどい意見の相違があって、それ以来、互いに顔を合わせるのを避けていました。
クリスマスや家族の集まりなど、絶対に避けられない時は別でしたが、
そういった時でさえ、互いに話しかけることはほとんどありませんでした。

けれども、先週の火曜日、課題を受け取って家に帰り着く頃には、
父に、愛していると告げる決心がついていました。

奇妙なことですが、そう決心するだけでも、胸にあった大きなつっかえが取れたような気がしました。
帰宅すると、私は大急ぎで家の中に駆け込み、
もう寝てしまっていた妻を起こすと、自分がしようとしていることを告げました。
それを聞いて妻は、ベッドから起き上がっただけでなく、飛び起きて私の首に抱きついてきたのです。

その夜、妻は結婚して以来初めて、私が泣く姿を見ました。
そして私たちは、夜中まで寝ずにコーヒーを飲んで話し続けたのです。
素晴らしい気分でした!

翌朝、興奮してほとんど眠れなかった私は、早くから起き出し、
会社にも早く行って、たったの2時間で、前の日に一日中かかったよりも多くの仕事を仕上げました。
9時になると、仕事の帰りに寄ってもいいかどうか聞くために、父に電話をしました。

父が電話に出ると、私はただ、
「父さん、今晩、仕事帰りに寄ってもいいかな? 話したいことがあるんだ」と言いました。

父は不機嫌そうに「今さら何の用だ?」と言いましたが、
私が、長くは取らせないからと約束すると、父はやっと同意しました。

5時半に両親の家に着くと、父が玄関に出てくれるよう祈りながら、ドアベルを鳴らしました。
母が出てきたら、きっと勇気をなくして、父ではなく母に「愛しているよ」と言ってしまうと思ったからです。

しかし、運のいいことに、父が玄関に出ました。
私は、少したりとも時間は無駄にしませんでした。
家の中に一歩足を踏み入れるなり、『父さんに、愛しているって言おうと思って来たんだ』と言いました。

その一瞬で、父はすっかり変わったかのようでした。
見る見る父の表情は和らぎ、深いしわは消え、父は泣き始めました。

そして、私を抱きしめ、言ったのです。
『私もお前を愛しているよ。でも、どうしても、そう言えなかったんだ。』

それは、もうその場から動きたくないほどの、かけがえのないひとときでした。
目に涙を溜めながら、母も近寄ってきました。
私はそのまま母に手を振って投げキスをし、もうしばらく父と抱きしめ合い、それから家に帰りました。
こんなに素晴らしい気分になったのは、本当に久しぶりでした。

でも、それが一番言いたかったことではないのです。
それから2日後、父は私に隠していた心臓の病気で発作を起こし、入院して昏睡状態になったのです。
父が命を取り留めるかどうか、わかりません。

ですから、これが皆さんに言いたいことです。
何かをしなければならないと知っているなら、後伸ばしにしないでください。
父に告げるのを後伸ばしにしていたなら、どうなっていたでしょう。
もう決して、そのチャンスはなかったかもしれません。
今すぐ時間を取って、やるべきことをするのです!」
(「アンカー」からの転載)

父の日に限らず、愛や感謝、そしてお礼を伝えたいと思っている人がいるなら、
時を逃さず、それを表現できるようになりたいものです。
最後に、次の言葉で締めくくりたいと思います。

「感謝の気持ちがあるのに、それを言い表さないのは、
プレゼントを包んでおきながら、渡さないのと同じことです。」


<熱い想い連想させる赤い花を見つけました>

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雨が降ってせっかくの花がだめになりそうだったので、
幾つかの鉢を玄関の中に移しました。

これは冬に98円で買った苗から育てたカンパニュラ。
紫のちぢれ咲きと、ピンクのベル型です。



冬の寒さにしっかりとさらしたカンパニュラの苗は、
春になるとぐんぐん伸びて、大きくて立派な花を咲かせてくれます。

それでは、長雨が続いていますので、今日は雨にちなんだお話です。

<心元気メール> No.608 2014年5月22日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆雨と詩人◆◆

昨日は随分と雨が降りましたね。
せっかく庭の花が満開だったのに、
この雨でだいぶ傷んでしまうのではと気になっていました。
でも、雨上がりの花たちは、より大きくみずみずしくなっていました。

そうした時、先日息子と一緒に読んだ、
ジェームズ・マッコンキーの本にあった話を思い出したのです。
その本には、幾つかとても印象的な話が出ていました。

それで読み終わった後に、どの話が一番印象に残っていたか息子に尋ねてみると、
「雨と詩人」の話だったと言いました。

花が好きな私にとっては、もちろんその話が一番印象に残ったものでしたが、
十代の男の子なら、きっともう一つの話を選ぶだろうと思っていたので、
それは予想外の驚きでした。

というわけで、今日はまず、その話をご紹介しましょう。
そして、後日、もう一つのお話も紹介しますので、楽しみにしていてください。

<「雨が降る時」ジェームズ・マッコンキー著からの抜粋>

夏の夕立が降っています。
詩人は窓辺にたたずんで、それを見つめています。
地面に激しくたたきつけるような、どしゃ降りの雨です。

しかし、詩人はその想いの中で、目の前に降る夕立以上のものを見ています。
まもなく潤った大地にいっせいに芽生えて、
そこを比類のない美と芳香で満たすであろう、無数の美しい花々を。

それで彼は、こんな風に歌うのです。

私に降るのは雨ではない、
それは舞い降ちるラッパスイセンの花々。
地を打つ雨の一粒ごとに、
丘の上の野花が目に浮かぶ。

灰色の雲が終日立ちこめて、
重く町にのしかかっても、
私に降るのは雨ではない、
それは舞い落ちるバラの花々。

おそらく誰かが…たった今もこう言っているかもしれません。
「おお神よ、今夜はどしゃ降りの雨です。
試練が雨のように私に降りかかって、耐えられそうにありません。
大切な計画がことごとく失敗に終わり、失望の豪雨に見舞われています。
愛する人々が次々にこの世を去り、つらさのあまりこの心は縮み上がり、震えます。
最近は本当に、災いの雨が私の魂に激しく打ちつけているのです。」

しかし友よ、そうではないのです。
降っているのは雨ではなく、祝福なのです。

父なる神の言葉を信じるなら、激しく雨の打ちつける地面から、
以前は決して育たなかった、芳香を放つ美しい霊の花々が芽生えているのです…。

確かに雨が見えます。
しかし、同時に花も見えないでしょうか? 

あなたは試練に心痛めますが、
神はあなたの人生において、
まさにその試練の下に芽生えつつある、信仰という優美な花を見られます。

あなたは苦しみを忌み嫌いますが、
神はあなたの魂に、苦しんでいる他の人々への優しい気遣いが生じるのをご覧になります。

あなたは失望を見ますが、
神はまさにその失望から生じる、神聖にしてまったき御心への甘美な服従をご覧になります。

あなたの心は悲痛な死別にたじろぎますが、
神はその悲しみがあなたにもたらす深みや豊かさをご覧になるのです。

あなたに降るのは災いではありません。
それは優しさや愛や思いやりや忍耐や、聖なる御霊から生じるその他の花や果実であり、
それがあなたの人生に、
この世の繁栄や安楽があなたの内なる魂に決して与えることができなかったような霊の豊かさを、
ふんだんにもたらしているのです。

あなたはこう言っているのでしょうか。
「だけど、神に手入れしていただかなければならないなんて、
私は何と実を結ばない枝なのだろう?」と。 

いいえ、そうではないのです。
神が手入れされるのはどんなたぐいの枝かに、気づきませんでしたか? 

この言葉を聞いて下さい。
「実を結ぶ枝は、手入れしてこれをきれいになさるのである。」
(聖書 ヨハネの福音書15:2より) 

手入れされるのは、実を結ばない枝ではなく、実を結ぶ枝なのです。
なぜでしょう? 
「もっと豊かに実らせるために」です。

ですから、手入れをされるというのは、
役に立たないことの証拠ではなく、むしろ実を結んでいる証拠なのです。
手入れされるのは、実を結ぶ枝だけなのですから。
他の枝は「とりのぞかれて」しまいます。

つまり、神の手入れは実を結んでいる証拠であるのと同時に、
さらに多くの実を結ぶという約束でもあるのです。
***

というわけで、人生に雨が降っているように感じるならば、
この詩人のような心を持つことが出来ますように。


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5月に入って、次から次へと花が咲いています。
この写真をとってから時間がたって、今ではチューリップは終わってしまいましたが、
せっかくの写真なのでアップしました。

ところで、5月になると「5月病」なんていう言葉を聞きますが、
皆さんは元気にしていらっしゃるでしょうか?
今日は、庭の花の写真と一緒に、健康についての記事をお届けしますね。



<心元気メール> No.451 2012年11月22日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆見えない処方箋の力◆◆

私の通っている接骨院には、とても和やかな雰囲気があります。

まだ、開院してから一年半だそうですが、
電気をかけてもらったり、マッサージをしてもらっている間、
患者さんは皆、先生と友達のように話しをしていて、
時には患者さん同士がおしゃべりしていることもあります。

それは、まるで村のコミュニティのような雰囲気で、
来るのが楽しくて来ているのではと思われる人たちもいるほどです。

また、ベッドが並んだ治療室の隅には、
ベビーベッドが置かれ、赤ちゃんがいます。

実は、先生の奥さんも治療士の資格があり、
夫婦で仕事をしているのですが、
奥さんは、今年の春生まれた赤ちゃんを連れて仕事をしているのです。

他に治療士の先生が二人いるので、
先生方4人が、交代でその赤ちゃんを抱っこしたりあやしたり・・・
するとそんな様子を見て、常連の患者さんたちも、
「赤ちゃん抱っこさせて!」と近寄ってきます。

何とも家庭的な雰囲気で、
赤ちゃんはさっそく、医院のマスコットベイビーとなってしまいました。

小さな赤ちゃんには、何か不思議な力がありますよね。
その微笑みには、天国的な喜びの力があり、
見ているだけで何か希望が湧いてきます。

そして、いつの間にか、患者さんたちとの間に、
孫の話や、自分が小さかった時の話が始まったりするのです。

赤ちゃんの存在は、きっと患者さんたちに何かホッとした気持ちを与え、
良い気分転換ともなっているのでしょう。



でも、この治療院が和やかなのは、
赤ちゃんがいるからだけではありません。

私が驚いたのは、
先生が一人一人の患者さんのことをとてもよく知っていて、
先生の方から常に、いろいろと話しかけてあげていることなのです。

「あれ、今日は歩くの、しんどそうですね。」とか、
「だいぶ、良くなっているから、もうひと頑張りですよ。」
「ずいぶん、固くなっていますよ。これじゃ、辛いでしょう?」
「昨日の嵐で、畑、大丈夫でしたか?」などと、
健康のことだけでなく、日常のことについても、
気にかけてくれているのがわかる言葉を沢山かけているのです。

若い先生が、優しい言葉や励ましの言葉を、
おじいちゃんやおばあちゃんたちにかけている様子を見て、
それによって、この医院の雰囲気がとても和やかで明るいのだと分かりました。

医院を出る時には、皆、だいぶ気分よさそうな顔で帰って行きます。
たぶん、身体が楽になっただけではなく、
優しい言葉をかけられ、楽しいおしゃべりができたことで、
気持ちも満足しているからだと思います。

これは、本当に大切なことだと思います。
どんなに良い薬を使っても、
また、どんなに良い技術で身体に良い影響を与えることができても、
心が満たされ、心が癒されていかないと、うまくいかないからです。

神様は人の健康を保つために、
人体に、病気と闘い、治癒するための自然治癒力を備えられています。
でも、それを活性化して十分に力を発揮させるためには、
私たちの心の状態が大きく関係しているそうです。

これは実際にあった、
ある二人のガン専門医の会話だそうです。



ある朝、一人の医師が、苦々しげにこう言いました。

「ボブ、どうにもわからんのだがね。
僕たちは患者に、同じ薬を同じように処方し、
同じスケジュールで、同じ基準に従って処方している。
それなのに、ぼくの治療成功率は22パーセントで、
君の方は74パーセントというのは、どうしてなんだろう。」

するともう一人の医師が、こう答えたそうです。

「僕たちは、両方とも同じ薬、
つまり、エトポシド(E)、プラチナム(P)、オンコヴィン(O)、ヒドロキシュリア(H)を使っているよね。
ただ君は、これをEPOHと呼んでいるだろう。

僕はね、それをHOPE(日本語で「希望」)と呼んでいて、
処方する時に、『希望をあげますよ』と言うんだ。
治癒確率に関わらず、その患者さんに希望があることを強調しているんだよ。」

この話は、W.M.ブッシュホルツ医学博士によるものですが、
実際、患者さん自身が心の中に何らかの希望を抱いていると、
同じ治療をしても、治癒率がずっと高まるそうです。

ですから、私たちも、もっと日々の生活の中で、
お互いに優しい言葉かけや、希望が持てるような会話をしたいものです。
そうしたら、家庭や職場、周りの人たちの健康全般にも、
大きな違いが出てくることでしょう。

またそれは、健康に限ったことではないと思います。
物事の成功、学校の勉強、日々の生活においても、
私たちがもっと優しい言葉かけと、希望を抱く会話をするなら、
より良い成果が出るに違いありません。

そして、神様も私たちに、希望の呼びかけをして下さっていることを覚えていて下さい。
どんなに不可能に思える状況でも、
また、たとえ誰からも励ましを受け取れないと思えても、
もし聖書の約束を知るなら、何よりも確実な神からの希望を受け取ることができます。

ですから、「ちょっと最近元気がないな」と思ったら、
ぜひ、聖書を読んでみて下さいね。
そこには、「希望と信仰」という処方箋があるのですから。

「主は言われる、
『わたしがあなたがたに対していだいている計画は、わたしが知っている。
それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、
あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。』
(エレミヤ書29章11節)

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<金魚草が満開になりました>

一昨日は、母の召天二周年記念のお墓参りをしてきました。
今年は、内輪の家族だけで集まったので、
私が庭で育てた花をいろいろ持ってお墓に供えました。

父も母も、花を育てるのが大好きだったので、
私が育てた花、きっと喜んでくれたと思います。

今日は、去年の召天記念会の後に書いた記事をお届けますね。

<心元気メール> No.505 2013年4月16日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆母の肖像◆◆

一昨日は、母の召天一周年記念会でした。
身内だけでの小さな会でしたが、
お墓で賛美歌を歌い、主人が司式をして復活についてのメッセージをしました。

その後、みんなで昼食を食べながら、
母が映っているビデオや写真を見ていたら、
父と母が一緒にテレビのコマーシャルに出ていた場面が出てきました。

まだそんなに老けておらず健康だった時、
父と母は時々、シルバー・タレントとしてテレビに出演していたことがあるのです。

二人して元気にしているそのような映像を見て、
まるで、若返って天国で新しい生活を楽しんでいる父と母をかいま見たような気がしました。

そう言えば、去年母が亡くなる直前、
私が最後に母に会ったのは4月の中旬でした。

一泊ほど実家に行き、母が病院に行くのを介護したり、
実家の雑事をしていました。

その時、ふと私は、テーブルに向い合って座っている母の顔をスケッチしたくなり、
手もとにあった鉛筆で、広告の裏面に母の顔を描いたのです。

私は今まで、ほとんど人の顔を描いたことがありません。
風景を描くのは好きでも、人物はうまく描けないのです。
それに社会人になってからは、絵など描く時間はありませんでした。
だから、私がスケッチを描くなんて、本当にあり得ないようなことだったのです。

でもその時は、なぜか突然、母の顔を描きたいという衝動にかられたのです。
スケッチは、ほんの5分ほどで終わりました。

私が描いた母のスケッチはとてもシンプルなものでしたが、
自分としては驚くほどよく描けていました。

母に見せると、
「まぁ、なんて素敵に描けてること」と言って大喜びしてくれました。

そのスケッチには、すっかり若返った母の顔が描かれていました。
もしかしたらそれは、私が子供だった時の母の面影なのかもしれません。

後で絵を見た妹は、
「これ、まるでお姉ちゃん自分を描いたみたいじゃない」と言ったほどです。

その絵は、確かに私にも似ていました。
でも、私は年老いた母を見ながらその絵を描いたのです。
結局、私と母は似ているのでしょう。

母が他界した後、母の家の本棚の中にそのスケッチが飾られていました。
あんなペラペラの広告の裏に描いただけの絵なのに、
母はそれをとても大切に飾っておいてくれたのです。

もしあれが、母との最後の日になると分かっていたなら、
もっとちゃんとした紙に描いておけばよかったのにと思いました。
でも、その頃母の体調は安定していて、またすぐに会えると思っていたのです。
それに、まともな絵になるなんて思ってもいませんでしたから。

たった5分でささっと描いただけのスケッチ・・・
でもそこには、私の大好きだった優しい母の若かった頃の雰囲気がよく表れていました。

母の召天一周年記念会で、
急にそのスケッチに描かれた母の顔が心に浮かんできました。
そして、こう思ったのです。

もしかしたら、今母は、ちょうどその頃のような若さで、
父と天国での生活を楽しんでいるのかもしれない・・・と。


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<このゴールデンウイーク、庭の花も満開になりました>

もうすぐ子どもの日ですね。
皆さんはどう過ごされるのでしょうか。

うちでは、息子が高校生になり、
もう家族といるより友だちといる方が楽しくなったようで、
子どもの日のお祝いどころではありません。

でも、親から見たら、子どもたちはいつまでも、自分の大切な子どもで、
何かしてあげたいのですが、子どもも大きくなるとその必要が大きく変わるので、
私も考え方を調整していかないといけない段階です。

ところで今日は、小さな子どもたちのためには、
特に大切なことについての記事をお届けしたいと思います。

数年前に書いたものなので、自分で読み返して、
あの頃の息子の様子を思い出して、何か懐かしくなりました。

でも実は、その後に、誰にとっても大切な内容のお話が入っているので、
ぜひ、子どものいない人も読んでみてくださいね。

<心元気メール> No.119 2011年7月17日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆じゃれ合い◆◆

昨日は、久しぶりに息子の部活がなかったので、
息子と息子の友達を連れて市のプールに行ってきました。

友達と水にもぐったり、背中に乗ったりして、
犬がじゃれ合っているような息子たちの姿が微笑ましかった・・・

学校でも水泳教室でも、プールに入っても「泳ぎの勉強」という感じで、
友達とふれ合いながら、思いっきり水を楽しむなんてことはできません。

でも、昨日は思いっきり楽しんだせいか、家に帰ってきてからの息子の態度は、
普段よりずっと穏やかで満足した様子・・・
やっぱり、子供にはもっとああいう時間が必要なのではと考えさせられました。

そういえば、最近見たテレビで、動物の子供たちがじゃれ合うのは、
それが彼らの成長にとって、とても必要なものだからだと説明していました。
そして、人間の子供も本当は同じように、もっとじゃれ合うことが必要だと。

そうは言っても、こう暑くては、家庭でのスキンシップもすっかり減ってしまいます。
でも、プールの中だったら、あんな風にスキンシップを楽しめるんだなと嬉しくなりました。

さて、日本ではあまりスキンシップを重要視しませんが、
それがどれほど健康や精神衛生や幸福度に有益であるかは科学的にも証明されています。
そのことについて、下記の記事はとても考えさせられるものです。

****
愛されていると実感すると、人は安心感を抱き、生きていく力を見出すのです。
かつて、WHO(世界保健機関)のワグナー博士が、
「現代医学は、愛の力を忘れてしまっている」と語りましたが、
今では、スキンシップや動物との触れ合いなどがリハビリや精神医療にも利用され、
世界中の医師や科学者がその効用に関心を寄せています。

リネー・スピッツ博士も、赤ん坊の成長には、スキンシップが欠かせないことを発見しました。
何千人もの赤ん坊を観察した結果、
スキンシップを受けた赤ん坊はどんどん成長したものの、
ゆりかごに一人残されている赤ん坊は病気になりがちだったそうです。

また、スキンシップという「脳に刺激を与える栄養」で十分に養われた赤ん坊は、
ハイハイや歩くこと、話し始めるのが早く、知能指数も高くなる傾向が見られました。
バージニア大学医学部の研究でも、乳幼児期に沢山のスキンシップをもらった子供は、
言葉や記憶力、新しい情報の習得、問題解決能力において優れていたそうです。

それに対し、スキンシップという「満足感をもたらす栄養」をもらわず、
飢えた脳の回路を持った赤ん坊は、
暴力的になる素因が作られる可能性があるとも言われています。

アメリカ国立の子供の健康と発達研究所に所属していた
神経心理学者ジェームズ・W・プレスコット博士は、
「暴力の主な原因は、幼い頃のスキンシップから得る身体的快感の欠如だ」
という驚くべき発言をしています。

博士は、現在と過去、合わせて49の社会を研究し、
「乳幼児にスキンシップによって豊かに愛情を表現する文化、
すなわち触れたり、抱きしめたり、抱えて歩くなどする文化では、
成人間の暴力の発生率が低い。
逆に、子供への身体的愛情表現の少ない文化では、成人の暴力の発生率が高い。」と語っています。

健全なハグ(抱擁)は人の心を温めます。
大人でも、気落ちした時に子供がぎゅっとハグをしてくれるだけで、
どんなに励まされ、ストレスさえも解消されることでしょうか。

セラピストであり、社会学者でもあるバージニア・サティア博士いわく、
「一日4回のハグは生き延びるのに必須、
8回のハグは健康維持に役立ち、
12回のハグは精神的成長を促す。
私達の肌は愛の伝達機関であり、身体的接触は非常に大切」とのこと。
(アクティベート誌Vol.7-4 より)

キレない心のためにも、どこかでスキンシップを取り入れる方法を見つけたいですね。


<琉球王国の王座>

これは、沖縄に行った時に撮影した首里城の中にあった王様の椅子です。
これを見て、へ~沖縄には王様がいたんだなぁと、
改めて、当時は琉球王国という別の国だったことを実感しました。


<首里城正殿>

この首里城は、琉球王国時代の栄華を伝える世界遺産で、
当時、琉球の島々を治め、中国、日本、朝鮮、東南アジアの国々と外交、貿易を展開していた、
琉球王国の王様とその家族等が住み、また、政治の中心となっていたところです。



赤と金色の華麗な王朝文化に彩られた建物を見ていると、
私と主人が若かった時に二年間ほど住んでいた中国での生活を思い出さずにはおれませんでした。

琉球王国は、中国から大きな影響を受けていることから、
建物の造りや色彩、龍を中心とした装飾、その他の品物など、
中国の歴史的な建物とよく似ていました。

でも、その琉球王国は、今は日本の一部なんですね。
何か不思議な気持ちでした。

ところで、私が中国に住んで一番感じたことは、
国によって『常識』というのは異なっているということでした。

今日は、その常識というものについて感じたことを書いた記事をお届けしたいと思います。

<心元気メール> No.437 2012年9月21日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆自分の常識?◆◆

最近家族で、「世界番付」というバラエティ番組を見ていました。
それは、文化や習慣、考え方など様々な分野についての
世界ランキングと日本の順位を紹介して、
各国の国情や風習の違いを解説するというユニークな番組です。

お笑い番組の作りなのでリラックスして見られるわりには、
国によってこんなにも考え方や受けとめ方が違うものなんだと、
いろいろなことを考えさせられます。

その中でも一番感じるのは、
私たちが考える常識は、全然常識なんかじゃないんだなぁということ。

日本での常識は、海外では通じないことがよくあります。
ある場合には、正反対のことがその国の常識となっている場合もあるほどです。

つまり、常識というのは、何かはっきりした基盤があるわけではなく、
民族によって異なり、国によって異なり、地域によって異なり、
時代によって異なり、組織によって異なり、家庭によって異なり、
育った環境によって異なり、結局は個人によって異なるってことなんですよね。

その番組のキャッチ・フレーズは「世界を学び、日本を知る」というものですが、
確かに、他国の「ものの見方」を知って、
別の角度から自分の暮らしを見つめてみることも
おおいに必要とされていることだと思いました。

実は最近読んでいた別の本の中にも、
それに関連した、とても興味深いことが書かれていました。

それは、日本人は他国の人たちよりも、
人間関係で苦労する人が多いようだとありました。

その原因の一つとして、
日本人は、ほとんど同じ民族だけが暮らす島国で育ち、
外との交流が乏しいために、
物事には様々な見方や考え方、方法があるのが当たり前ということに、
気づいてもいないし、馴れてもいないので、
自分の基準が唯一の「常識」だと思い込んでしまうからだとありました。

よく日本では、「そんな常識はずれな!」とか、
「常識をわきまえていない!」という言葉が発せられますが、
つきつめて考えると、
自分の基準とは異なる考え方や生活スタイルを持つ人に対して理解しようという態度が欠如すると、
人は相手に対して、「常識外れだ!」という怒りや不快感を、強く持つようになるそうです。

つまり、ものの見方が狭すぎて、固まってしまっていることが、
良い人間関係を築く妨げになっているわけです。

私も外人の方たちと一緒に働いた経験が沢山あるので、
それを読んでいて、本当に思い当たることが沢山ありました。
日本人だけといると、とても見方が狭くなりやすく、
いつのまにか物事が固まってしまうことがよくあるのです。

私はこの傾向から抜け出すためだけでも、
あのような番組が制作されていることを嬉しく思いました。

文化や考え方、信じていることの違いがあっても、
それらを越えて、人が平和に暮らしていくためには、
異なる人をありのまま受け入れ、
それを理解しようという気持ちが必要になります。

そして、それができるようになるなら、
私たちは、もっともっと他の人たちから良いものを学び、
互いに成長することができるようになるのだと思います。

ところで、それは他国との関係に限ったことではありません。
日本人同士のどんな人間関係にあっても、同じことが言えます。

結局、人は皆、個性があって、生まれ育った環境も違うのですから、
感じ方は違うし、興味や好みも異なります。

それを、自分の基準を中心として、「常識外れ」と見てしまったり、
相手に、感じ方や考え方を強要するようなことをすれば、
物事はうまくいかないのは当たり前ですよね。

時には、自分とはまったく異なる人たちの生き方を見ることによって、
自分の生き方を見直してみるのもいいのではないでしょうか?

そうしたら、「自分の常識」から飛び出して、
新しい発見をすることができるでしょう。


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<空から見た沖縄>

ちょっと間が空いてしまいましたが、
今日は再び、沖縄旅行からの記事をお届けしますね。

<心元気メール> No.600 2014年4月6日
発行人:リジョイスY.C.
◆◆空から日本を眺めて思ったこと◆◆


羽田から沖縄に向かう飛行機で、私たち家族は窓際の席をもらうことができました。
でも、三人の内、窓の隣に座れるのは一人だけ。

そこで私が、「誰が窓際に座りたい?」と尋ねると、
さっと主人が、「ママ」と答えました。

そうなんです。
一番窓際に座りたがっていたのは、私なんです。

息子が小さかった時には、
里帰りで北海道に行く時など、窓から外を見て大喜びしていたのですが、
大きくなってしまった息子は、もう外の景色にはさほど興味がありません。
それより今は、入学祝いで買ってもらったiPhoneの画面に釘付けです。

そこで私は、窓際に座らせてもらい、
窓から写真を撮れると大喜びしていました。

でも、飛行機はどんな航路を飛ぶのでしょうか。
主人に尋ねると、ほとんどは海の上だろうとのこと・・・。
ところが実際は、随分と長い間、日本列島の真上を飛行してくれました。

まずは、房総半島の上を飛びましたから、東京湾やウミボタルがよく見えました。
千葉には友人も多いし、房総半島には長年暮らしたこともあるので、
自分が住んでいたところの上を飛ぶのを楽しいものでした。

次に三浦半島や伊豆半島の上を飛びました。
その辺にも何箇所か住んだことのある場所がありますし、
周辺の町々は、仕事や家族とのお出かけで行ったことのある場所でした。

飛行機は思ったよりも低く飛んでいたため、海岸線までよく見えます。
「あっ、あそこも行ったなぁ・・・
あっ、あそこは息子と泳いだ海だ。」などと、
その頃のことを懐かしく思い出していました。

次に飛行機は、静岡県の上を飛び、高速道路や浜名湖が見えて、
まるで地図の上を飛んでいるかのようでした。


<飛行機から浜名湖が見えました!>

自分がよく知っている地域や、行ったことのある地域を、
飛行機から眺められるというのは、なかなか興味深いものです。

あっという間に、次の県になるので、
何年間もの思い出が、一挙に流れていくような感じです。

実は、私は、日本のほとんどの県に行ったことがあります。
というのも、子どもの時には父の転勤で、
そして大人になってからは、自分の仕事の関係で、
30近くの異なる町に住んだことがあり、
かつ、その場所から仕事でいろいろな町に出向いたり、
家族で出かけたりしましたから、随分と多くの地域を巡ったことになります。

こんなふうに書くと、相当余裕のある生活をしてきたと思われるかもしれませんが、
実はその逆で、若かった頃のほとんどの旅は、ヒッチハイクでの無銭旅行でした。

今は、そんなことが安全にできる時代ではありませんのでお勧めしませんが、
その頃は、二人一組になって、聖書にあるイエス様の弟子たちがされたように、
お金も食べ物も持たず、信仰によって宣教の旅に出たものでした。

神様は、そんな私たちの単純な信仰を祝福され、
毎日が奇跡につぐ奇跡で、
それらの話を綴ったら、何冊もの本になってしまうほどの事が起きました。

今では、その記憶の多くも、私の頭の中ではかすれてしまっていますが、
天の書物にはすべてが記されており、
きっと私たちが天国に行った時には、
再びその時の様子を、ライブで見て楽しむことができることでしょう。

飛行機から下を眺めていた時には、
それらの思い出の一片が、頭の中をチラッ、チラッとかすめて行く感じでした。

突然、ヒッチハイクで乗せてくれた人との深い会話を思い出したり、
高速のサービスエリアでおごってもらった食事のことを思い出したり、
そして、乗せてくれたトラックの運転手さんたちや、いろいろな町で出会った大勢の人たちが
祈ってイエス様を心に受け入れてくれたことなど・・・・、
あらゆることが、少しずつ頭の中をよぎっていくのです。

それはまるで、自分が行ったことのある地域の上空を飛びながら、
今までの人生を回想しているみたいな感じで、何とも不思議な体験でした。

そして、思ったのです。

この歳になっても、私には、地位も功績も財産もないし、
自分の家もないし、見せられるような宝物はないけれど、
体験と思い出だけは、随分と作ったもんだなぁ・・・・
そして、出会った人々に、私はどんな影響を残したんだろう・・・・と。

その答えは、天国に着くまではわかりません。
でも私は、自分の人生を振り返って、やっぱり後悔などしていないと感じました。
むしろ、こんなに素晴らしい体験を沢山させてもらい、
自分の望んでいた多くのことを経験することができたことに、感謝せずにはおれませんでした。

私は若かった時に、自分の人生の進路を変えて、
神様に仕える人生を選びました。

そのために、沢山の自分の大切なものを後に残し、
まったく新しい世界に飛び込んだのです。

それまでの私には、沢山の夢がありました。
なりたいものも沢山ありました。

学校の先生になりたかったし、音楽関係の仕事にもつきたかった。
そして、カメラマンにもなりたかったし、記者もやってみたかったのです。
作家にもなりたかったし、園芸家もやってみたかったし、
小さい時にはバスガイドにも憧れていました。

というのは、私は小さい時から、いろいろな所に行って、
いろいろなものを見て、いろいろな人達と話すのが好きだったからです。

でも、私はすべての夢を後にして、
神様のために生きることを決意したのです。

すると、どうでしょう。

神様は、私が捨てたと思ったものを全て、ちゃんととっておいてくれて、
それらの夢を一つ一つ、私に体験させて下さり、
やってみたかった仕事のすべてを、何らかの形で経験する結果になったのです。

その多くは、プロとは言えないまでも、
宣教の仕事の一部として私は、いろいろな仕事に携わりました。

今考えると、本当にそれは驚くほどのバラエティに飛んだ人生でした。
今は、わりと落ち着いた普通の生活をしていますが、
今までの30年間ほどで、その何倍もの人生を生きた気がしています。

確かに神様は、そうやって次の聖書の約束を果たして下さったのです。

イエスは言われた、
「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。
すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、
また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。
(聖書 マルコの福音書10:29-30)

この言葉は、理解するのがなかなか難しい言葉ですが、
確かに私の場合には、ほとんどのものはすでに、何倍にもして返して頂いているように感じます。

自分の夢や職業についてだけではありません。
父と母との関係においても、
最初は猛反対されたものの、結局は父も母もクリスチャンになり、
以前よりもずっと深いところで心がつながるようになりました。
それに、父と母の結婚の回復があったのも、神様のお陰だったのです。

人生とは、不思議なものです。
長い目で見ないと分からない事柄が沢山あります。
きっと私たちは、天国に行ってやっと、
納得出来なかった多くのことを理解できるようになるのでしょう。

そんなことを考えていたので、
今回の飛行機の旅は、ちょっといつもとは違う旅でした。
でも、たまにはそんなふうに、今までの人生を振り返ってみるのはいいものだと思いました。


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