今日の教えと「開入本願大智海」 | コライダスコープ 

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人の世は
七色に輝く儚い雅
それはまるで万華鏡のように。。。

大野智と嵐、鈴木亮平くんを見守っています。

今日、浄土真宗のお寺で、日本語でのお説教がありました。



住職先生がお部屋に入ってこられたとき、私の顔をみつけてくださったのでしょうか、

支度を済ませてお説教を始める前に

にこにことしながら私の席まで足を運んでくださり、

よくいらっしゃいました、と手を差し伸べてくださいました。

ありがたいことです。



他にいらっしゃった常連さんとお見受けする年配の女性が

小さな数珠を、

差し上げます、と静かに言って渡してくださり

お礼もしっかりできないうちに

お説教が始まりました。


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(サンプル画像)




まずは住職先生が、鐘を鳴らして人々の心を起こすのですが

思いのほか大きな音で、リズム(?)を変えながら暫く続きます。


そのあと、正信偈(しょうしんげ)というお経を頂きました。

一番親しまれている、家庭に持ってこいのお経であると

あるネットのサイトには書いてあります。



お経を読むことを頂く、と言うようです。


お経を頂いたのは20分くらいだったでしょうか。

意味も分からずただ住職先生について頂いたあと、

住職先生からの貴重なお話がありました。



「人間の身体に生まれ

 ヒトとして生きることは苦難であること


 私たちは、食べ、寝、子供を作る

 それは他動物達と何の違いも無い


 ただ、人間には他の動物がしないであろう事がひとつできる


 それは、苦しみの中で何かに気づき、

 目覚め、自分の命を救うということ。」



自分自身の命を救うという事、それは

自分の魂を救うという意味でもあるかも知れません。


そこで住職先生は

明るい笑顔になられて

こうおっしゃいました。



「実は、夕べ今日のお話をする準備をしている間、

 どうもひとりの女性のことが頭の中に入ってきて仕方がない

 

 どういう訳だか分からないが、

 その人の事をどうしても話しておかないと

 どうにも私の気がすみません。」




住職先生のお話とはこういうものでした



その女性は、住職先生がサンフランシスコでお寺の住職をしていた頃

毎週日曜日にかならずお説教を聴きに来ていた人で

年齢は70代でもしゃんとし、活き活きとした日本人の女性だった


ある日、ジャパンタウンでばったりその人と行き会った

そこでその人は先生に「ああ先生、ちょっとそこまで飲みに行きましょうよ」と誘うではないか


まだ真昼間でお寺での仕事が残っていた先生はまずはお断りをするのだが

その女性は、毎週お寺に通っていたにもかかわらず

「お寺の仕事なんていいじゃないですか、さあ行きましょう」ときかない。


仕方が無いのでちょいと付き合うと、

お酒を飲みながらその女性が自分の話をしだした

「先生、もうそろそろ先生にはお話してもいいんじゃないかと思いましてね。

私はもう先が長くない。だから先生にはお話したいことがある。

他の人には私が死んでから話してください」


一体何をと耳をすませる先生にその女性が話した事とは・・・


その女性はまだ若いころ、アメリカに写真だけを見てお嫁にきたと。

自分が見た夫となる日系人の写真は、きちんと背広を着て立派な家の前で写っているもので

自分はアメリカで幸せになるのだと思って渡米した


しかし来てみてびっくり仰天。

写真の背広姿からは想像もつかぬ男性で、それも農家をやっている人だった

広い土地で朝から晩まで、慣れない仕事をするはめになり

自分はどうしてこんなところへ来たのだろうとつくづく後悔するが

まさか帰るわけにもいかず。


ところが不幸はそこでとどまらず

夫がギャンブルに手を出し始め、金を賭けるに飽き足らず

負け続けた挙句の果てには自分の女房を賭けて負けたらしい


その当時のことだから

その女性は面相の悪い日系のヤクザに都会の買収宿に売られてしまった

その買収宿は白人専用でそれはそれは辛い思いをし

何度も自殺未遂を起こし、死ぬことばかりを考えていた


でも、その時に一筋の希望をくれていたのが

いつも身につけていた、母からもらったお守りだった


日本を発つとき、母が

「どんなに辛いことがあっても、いつも仏様が一緒に苦労なさってくれている

だから諦めるんじゃないよ。生きていればきっといいことがある。

生かされているんだからきっと何かすべきことがある」


そう言い聞かせてくれたのを思い出しては

よく泣いていた。


そうしているうちに幸い

売春宿のお客さんにひとり良い人がいて

自分をそこから引き抜いてくれて結婚。


それからも苦労はあったけれど、

それまでに比べたらなんのことはない


70過ぎた今、つくづく、ああ生きていて良かったなあと思う

もう怖いものなんか何にもないのよ、ねえ先生。





住職先生はここまで話をされると

もうその女性は亡くなっており、お葬式もさせていただいたが

私はお棺の前で、よかったねえ、としみじみ彼女にいいましたよ、

と微笑み目を閉じられました。


最後にひとつまたお経を頂き

お開きとなりました。




苦労を修行とし

その修行の末に何かに気づき、目覚める

そして自分の命を救うに至る



数年前から少しずつ、

目覚めているような感覚がある私には

身に染みるお言葉でした。




合掌。




ところで、正信偈というお経の中に



開入本願大智海


という一文がありました。


大野智という大海に入ることを切に願う、そう連想されて

不謹慎にも少しお経から脱線してしまったことは

これからの修行の道の険しさを語るものであろうと思います。(苦笑)





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